占領下初期の昭和天皇
豊下楢彦氏は1945年生まれ、国際政治論・外交史を専攻する学者(元関西学院大学教授)で日本現代史の著作では『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』、『昭和天皇・マッカーサー会見』などがよく知られている。したがって『昭和天皇実録』(2014年9月公表)はこれまで積み上げてきた上記著書などに示された著者年来の「仮説」を裏付ける文書として活用されて『昭和天皇の戦後日本』(以降、本書とする)にまとめ上げられた。『実録』は宮内庁書陵部編集課の約20人に及ぶスタッフが24年以上をかけて作成したもので61巻12,000ページに及び、約40件の新資料を含む3,152件の資料が使われているという。そこには昭和天皇の一日一日の行動が多くの出典資料を挙げて記述されている。
検討すべき最初の課題は昭和天皇の「戦争への悔恨」であるがこれに関しては、マッカーサー元帥との第一回の会見で昭和天皇が発したとされる言葉がある。マ元帥の『回想記』によれば、マッカーサーとの第一回会見で昭和天皇は次のように述べた。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした。」この言葉を聞いてマッカーサーは大きな感動に揺さぶられたという。
この言葉が事実とすればマ元帥ならずとも感動することであろう。しかしこの言葉の真偽については当時から今に至るまで論争が絶えない。この会見に先立つ2日前に天皇はニューヨークタイムズ(NYT)のクルックホーン記者と会見しており、その会見にもとづいてNYTは「裕仁、記者会見で東条に(真珠湾)攻撃の責任を転嫁」という見出しのトップ記事で報道し、内閣情報局は即座にこれを否定した。NYTはその記事の正確性について再反論したが研究者の間ではその後もNYTによる捏造説が根強く残った。しかし昭和天皇のマ元帥に対するこの発言の根拠は薄いというべきであろう。
この問題について著者は、協力して研究を進めていた松尾尊兊京大教授と意見を異にした。天皇の発言は著者の「東条非難」説に対して松尾教授は「全責任発言」説であった。ところが06年7月末に天皇のクルックホーン記者への「回答正文の控え」が宮内庁書陵部によって発見され、天皇が「東条非難」を行っていたことが確認された。これを受けて松尾教授は「すでにクルックホーンに対して公然と東条の名前を出して責任を転嫁した以上、マッカーサーに対しても同様な発言をしたとしても不思議ではない」と自説を改めて豊下説を支持した。(これは『実録』によるものではないが、数多くの出典資料が挙げられている『実録』の効用の一例としてよいであろう。)戦争は確かに悔恨すべきことではあってもその責任が自分にあると認めてはいない(注)。
(注)昭和天皇の死後に公刊されて広範な興味を呼んだ『昭和天皇独白録』はその作成の動機についてこれまた幾つかの憶測を生んだが本書では東京裁判に備えた自己弁護の書であることが明らかにされている。『回想記』の翻訳が朝日新聞紙上に連載されていた最中にも、64年8月の「文芸春秋」は米陸軍戦史局の戦闘記録と『回想記』の叙述を対比した上で『回想記』がまったく信用のおけない代物であることを示していた。
戦後75年を経過し多くの歴史的な成果が積み上げられた今となっては信じがたくなりつつあるが敗戦後の日本の思想的混乱の中にあって昭和天皇に向けられた視線はおのずと厳しいものであった。陸軍士官学校を経て中国戦線に従軍し復員後に現代史家(一橋大学教授)としての道を歩んだ藤原彰氏は『中国戦線従軍記』の末尾に次のように書いている。
「敗戦の現実を聞かされたとき、私は天皇は自殺するのが当然だと考えた。敗戦の責任を取る形で、多くの軍人や政治家が自殺していた。最大の責任者であり、多数の国民を死地に駆り立てたのは天皇である。天皇の名のもとに私の友人も部下も死んでいった。私自身も、いつかは天皇のために死ぬことを覚悟していたのだ。それなのに、一片の「詔書」で「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい、信じ頼ること)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」と言ってケロッとしている。多数の臣民が死んだことをどう思っているのだろうか。」
侍従次長として天皇の身近に仕えた木下道雄は終戦の翌年1946年の年頭詔書(天皇の「人間宣言」として知られる)の文言をめぐって天皇の考えを前年12月29日の日誌に次のように伝えている(木下道雄『側近日誌』p90)。「日本人が神の裔(えい、子孫)なることを架空と云うは未だ許すべきも、Emperorを神の裔とすることを架空とすることは断じて許しがたい。そこで予はむしろ進んで天皇を現御神(あきつみかみ)とすることを架空なる事に改めようと思った。陛下もこの点は御賛成である。神の裔にあらずという事には御反対である。」「Emperorを」と英語で書かれているのは「日本人を以て」とした幣原首相の原稿にマ元帥が手をいれたものである。ちなみに実際の詔書の文面は、天皇を現御神とするのは「架空なる観念」とするだけで「神の裔」には触れていない。
敗戦に直面した藤原彰大尉は激変した世界で天皇が依然として天皇であることに驚き失望したのに違いない。それは他の多くの日本人にも共通の感慨であった。しかし天皇自身にあっては自らが、現御神ではないとしても少なくとも神の裔であるという信仰は揺るがなかった。その天皇にあっては万世一系の皇統を守ることこそが至上命令であった。
天皇自らの権限について天皇自らが語りまた多くの同調者を得ている大前提は、立憲君主である天皇は、内閣の決定についてはそれがたとえ自分の意に満たなくとも裁可する以外ないということである。そしてそれを逸脱したケースは、首相の所在が不明であった1936年の二・二六事件と廟議が分かれて裁断を求められた終戦の場合の2例に限られるという事である。この説明はとりわけ対米英開戦の決定に関して効果的に援用される。しかしこれは事実とは言い難い。
戦争末期の1945年6月8日の御前会議で決定された「『徹底抗戦・本土決戦』の方針決定(注)からわずか2週間後、沖縄守備隊が壊滅する前日の6月2日の『実録』は、最高戦争指導会議構成員の首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長を昭和天皇が『お召しになり、懇談会を催される。天皇より、戦争の指導については去る8日の会議において決定したが、戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げ、その実現に努力することを望む旨を仰せになり』と記している。つまり、徹底抗戦から一転して、ソ連を介して連合国側と和平交渉に入るという『大転換』が方向づけられたのである。」(本書p218)
(注)戦争指導の基本大綱として「七生尽忠の信念を源力とし地の利人の和を以て飽く迄戦争を完遂し以て国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」と決定されていた。天皇によるこの規定方針からの大転換は「木戸幸一日記ほか」で以前に述べたように近衛文麿(「この功績は木戸の功罪を償ってあまりあり…」)、吉田茂(「東西古今未曽有の出来栄、内府も今度は見直し申候」)からの木戸に対する賛辞を呼び起こしている。木戸日記6月21日の条には近衛公と懇談した旨の記載の後、「二時十五分より五十分迄、拝謁、最高戦争指導会議員御召の際賜るべき御言葉につき言上す」との記載がある。
「昭和天皇にとって何より重要な問題は、憲法の規定する原理原則よりも『皇室の御安泰、国体の護持』にあった。だからこそ『独白録』においても、終戦の『聖断』に踏み切るに当たって自らの『決心』を左右した要件として、『敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った』と述べているのである。」(本書p221)
ここには天皇の念頭に本土作戦が去来したことが読み取れる。しかし避けがたい敗戦という現実を目の当たりにしても天皇の一念は三種の神器や伊勢の皇大神宮を離れなかった。「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ…」という終戦の詔書は天皇の安堵の念を伝えていないだろうか。ポツダム宣言の受諾までに惨禍を拡大するだけの無益な時間を費やしたのはこの国体を維持する保証を求めるためであった。国体は皇統と読み替えてよい。
木下の『側近日誌』(1946年1月13日)には「陛下の仰せ」として次のような言葉も伝えている。「戦時後半天候常に我に幸いせざりしは、非科学的の考え方ながら、伊勢神宮のお援けなかりしが故なりと思う。神宮は軍の神にはあらず平和の神なり。しかるに戦勝祈願をしたり何かしたのでお怒りになったのではないか。現に伊勢地方を大演習地に定めても、何かの事変の為未だ嘗て実現したることなし。大震災、支那事変その原因なり。」これは「明白に敗戦と覚悟したる者、重臣中にもありしなるべし、何故、捨身、開戦を防ぎ止めざりしや」という木下の問いに続くもので少し焦点のずれた答えのように読めるが伊勢神宮への信仰の深さを示すものである。木下日誌(1945年11月29日)にはまた、「1時50分、聖上に拝謁。①本日拝謁せらるる歴代山稜への御代拝の七宮(高松、三笠、以下略)に対せられ、御思召を伝えらるを可とする旨上げたる所、(イ)敗戦は朕の不徳のいたす所なり。お詫び申上ぐること。(ロ)新日本建設の為神助あらんこと。を朕に代わりてなすべきことを伝うる心算なり。」との記述もある。
ここには歴代の天皇へ向けられた昭和天皇の謝罪が明示されている。それでは国民(沖縄を忘れてはならない)への謝罪はどうなっているのか。天皇の国民に対する謝罪詔勅が検討された噂はそれまでにもあったが、この問題は加藤恭子氏による昭和天皇の「謝罪詔勅草稿」の発見(文芸春秋03年7月号)以来急速に浮上することになった。この草稿は加藤氏が(「拝謁記」が発見される以前に)田島道治の伝記を書く過程で田島の遺稿の中から見つけ出したものである。豊下氏の本書ではこの国民への謝罪問題は東京裁判、退位問題、講和条約との兼ね合いで取り扱われることになる。結論を先に言えば、国民への謝罪はなされることがなかった。
昨年8月に公表されて話題を呼んだ小林忍元侍従の1987年4月7日の日記に『昨日のこと』として以下のような記載があった。当時昭和天皇は85歳(死亡は89年1月7日)、場所は皇居の吹上御所でその日当直だった小林に直接語った言葉とされる。『仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる。』ここには老いの繰り言以上のものがあり、天皇の心中には戦争責任の問題が晩年まで大きなわだかまりとして残っていたことがわかる。しかし謝罪がなければ許しもないのが道理である。
木下侍従次長の日記には終戦の年の12月15日に、天皇が「終戦時の感想」として詠んだ短歌4首が「御製を宣伝的にならぬ方法にて世上に洩らすこと、御許しを得たり」として記録されている(p77)。これらの歌のうち2首には「民の上をおもひ」、3首には「いくさとめけり」という言葉がある。最後の一首は「外国と 離れ小島にのこる民の うへやすかれと たゝいのるなり」というものである。これは「民の上を思い、戦を止めた」天皇が国民の前途の幸運を祈るという点で首尾一貫している。しかし事実に沿ったものだろうか。最後の一首を除く三首はいずれも自己犠牲と弁明の歌と読める。これらをもってしても悔恨の念は去るものではなく死ぬまで消すことができなかった。中でももっとも愛着の強かったと思われる一首「身はいかに なるとも いくさととめけり たたたふれゆく民をおもひて」には死の直前まで推敲の手を止めなかったことが知られている。
この歌の歌碑は江東区の富岡八幡宮(深川八幡宮とも呼ばれる)の境内の目立たない場所に建っている。書は元侍従次長鈴木一(終戦時の鈴木貫太郎首相の長男)である。昭和天皇には亡くなる前年1988年に以下の作品がある。
・・あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ
・・アカゲラが木をつついてはつぎの木へ移っていくのをおぼろげに聞く歌である。遺詠としてよいものかどうか、代替わりを予兆しているという解釈がある。
ここで市井の日本人の中からその心象を代表するものとして高村光太郎の詩を上げておきたい。高村は戦中に戦争を謳歌して多くの人を死に追いやった(「我が詩を読みて人死に就けり」)。その己の活動を恥じて『暗愚小伝』(1947年6月)を書いた。その中には「天皇危ふし。ただこの一語が私の一切を決定した」という詩句と並んで次のような一節がある。「占領軍に飢餓を救はれ、わずかに亡滅を免れてゐる。その時天皇みづから進んで、われ現人神にあらずと説かれた。日を重ねるにしたがって、私の眼からは梁が取れ、いつのまにか六十年の重荷は消えた。」
ユーモア小説によって世代を越えて多くの読者を獲得した佐々木邦は慶応、明治学院で英語と英文学を講じ英米の文化に通じていた。鬼畜米英の時代には『トム君サム君』という日本とアメリカの少年の交遊を描いたユーモア小説は肩身の狭い作品であった。戦後の一時期は天皇制批判を文章にしたというが1947年から49年にかけて『心の歴史』と題する穏やかな回顧的な小説を雑誌に連載している。ただし主人公はアメリカに留学しているが著者には留学経験はない。そのころに発表された随筆にある次のような文章は今日にも妥当するものと思う。
「お国自慢も結構だが、天孫人種だとか神国だとか主張するに至っては正気の沙汰ではない。何処の国にも建国神話がある。だが神話を歴史として扱うのは日本人丈だ。」「こういう国民だから一足飛びに天皇制廃止はむずかしい。何か巻いてくれるものゝない境地は想像しても目が回るのだろう。そこでこの問題になると、理性を失って、感情論に陥る。天皇制は存続するものと思うが、充分に制限しないと、今度は官僚がまた利用する。」(30/09/19)