諸兄姉
「フィリピン日系人の歴史と今―彼らの終らない戦後―」という展示会を見てきました。会場はエコギャラリー新宿。新宿駅西口から見て都庁から道を一本隔てた反対側の新宿中央公園の一隅にある。公園は1968年4月の開園だが行ったことはなかった。
このあたりの再開発は村山貯水池淀橋浄水場の廃止1965年)に伴っており中央公園の一部はこの浄水場にかかっている。エコギャラリーは存在を知らなかった。
2004年4月に公募によってえらばれた特定NPOが管理運営を始めたという。この展覧会の会期は5月17から20日までで短いし最終日の20日は正午までだから思い切ってその前日の日曜に出かけた。
外地で日本の民間人が蒙った戦争の被害は、中国、満州、朝鮮からの引き揚げ者の悲惨な体験が知られている。アメリカ在住の日系人の苦難もある程度知られている。
軍人とは言え、一方的に攻め込まれてシベリアへ連れ去られ、重労働に従事させられた日本人もこれと同列に並べてよいだろう。
フィリピンについてはBC級戦犯の裁判が東京裁判に付随するものとして知られているが、フィリピンで戦争に巻き込まれた日本の民間人とその家族、現地人の妻やその間に生まれた日系フィリピン人たちの被害はほとんど知られていない。
日本の国策としての海外移民の代表的なものは南米ブラジルへの移民があり、より近年では満蒙開拓団の派遣がある。恥ずかしながらと言うべきであろうが、フィリピンに関しての私の知識はきわめて表面的なものに過ぎなかった。(下記注)
この展示会の冒頭で真っ先に知らされたのはフィリピンにおける日本との古いかかわりである。近代の大量移民はアメリカによる統治下の1903年に始まっていた。第一弾は北部のルソン島のバギオへの移民で、道路の建設(ベンゲット道路)やアバカ麻の栽培に従事にした。
移民はその後も引き続き、南部のミンダナオ島のダバオを中心に展開された。そこへ太平洋戦争による日本軍のフィリピン侵攻が行われやがて反攻する米軍との間で激戦が繰り広げられた。山下奉文大将の焦土作戦である。
長年にわたって培われてきた日系人の生活と平和の夢は破れた。
展示の多くはその平和な時代の日本人社会の様子を伝えるもので、学童の集合写真、学校や家庭、商店街の催しなどが多い。大勢の客を招いた子供の誕生会の写真もあった。私は日系フィリッピン人の問題が単に戦争の狂気の時代の産物に留まるのではなく、長期にわたって現地に同化しつつあった移民とその現地人家族を襲った悲劇であったことを教えられた。
貧しいが故に国を後にした移民の多くは現地で妻を迎えていたが敗戦とともに収容され、家族を残して日本へ送還された。残された妻や子供は残酷な戦争の記憶のために現地人による差別を受け、苦しい生活に耐えねばならなかった。
当時のフィリッピンの法律は男系による血統主義を取っていたために子供たちは無国籍者の地位に落とされた。
今や3世、4世の時代になっているが彼らの日本国籍を取得するための「就籍運動」はまだ続いている。
この展示会は彼らの国籍回復を求める運動を支援するPNLSC(フィリピン日系人支援法律センター、03年11月設立)が主催するものであった。
写真説明
0521 フィリピン各地に結成された日本人会、日比協会の分布図で、これによって日系フィリピン人がフィリピンの各島各地に広く存在していることがわかる。
0523 2016年当時の天皇夫妻はフィリピンへ慰霊の旅に出かけ、残留日本人の労苦をねぎらった。美智子妃は流暢な英語で巧みに意志の疎通を図れたが天皇は黙って歩きまわるだけだったという。ヴァイニング夫人以来の英語教育はどこへ行ったのか。プロトコルを知らない異邦人の間でしばしの孤独感を味わったものか。
0518 日曜の新宿中央公園は家族連れでにぎわっていた。巨大な高層オフィスビルの林立する狭間のオアシスである。広い公園も高い樹木も立派だが圧倒的なビル群の眼下ではこぢんまりという感じがする。
0519 かつて都庁は東京駅の近くにあり太田道灌の鎧姿の立像が立っていた。ここは都庁ではないが、蓑を借りようとして「実の(蓑)一つだになきぞかなしき」という和歌にかけてヤマブキの一枝を差し出した少女との逸話が像になっている。少女の名は紅皿と言うらしい。そのせいか少女は枝ではなく皿か扇のようなものに何かを載せて差し出している。
0520 エコギャラリーの正面。いささかもの侘しいただの貸しホール。ルコルビュジェ―とまでは言わないが箱物であふれている東京でははなはだ見劣りがする。
0526 新宿中央公園の広場から新宿駅方面を見る。手前道路を挟んで左手茶色がハイアット・リージェンシー、右手が都庁。遠方に見える異形のビルがモード学園などが入っているコクーン・タワー。
1時過ぎに新宿駅西口まで約15分の道のりを歩いた。途中、京王プラザホテルでサンドイッチの昼食でもと思って入ってみたが満員。
このホテルはレストランだらけだがそのいくつかは長い家族連れの行列ができていた。
結局、コクーンの中にあるタリーズで空腹をいやすことができた。最近は長い行列を苦にしない日本人が増えた。
ある雑誌によると行列することによって他人との一体感に浸れるのだという。あらゆる展覧会場が混雑していると言って過言ではない。物見高いというのとは違う。
かつて中国人を”rubber neck”と評する言葉を聞いたが今もそうだろうか。実質的な鎖国時代にあった中国は正にそうだった。“Culture vulture”という言葉があって語呂が良いので、自分のことは棚に上げて、時々使いたくなる。
ところが日曜日だからどうかなと危ぶみながら出かけて行ったフィリピン日系人の展示会は閑散としていた。
これ”culture“ではないと言われればそうかと思うしかない。老来、都心へ出かけることは億劫になり、ましてや混雑する展覧会にも腰が引けるようになった。
ようやく気候もよくなり見も軽くなったのをたよりに久々に副都心の空気を吸った感想です。
(注)個人的な体験を探せば、叔父の1人はフィリピンのセブ島で戦死している。その兄夫婦は初めての連れ立っての海外旅行にフィリピンを選んでいた。
敗色濃くなってから米軍が遠回りをするとは予想されずフィリピンは比較的安全な地域とされて叔父は羨ましがられたと聞いた。しかしマ元帥の執念の報復作戦は針路をフィリピン攻撃へと向けたのだった。
田舎では近所に満蒙開拓から引き揚げてきた一家族がおり、私の3歳ほど年下の少年にはマンモーという綽名がついていた。
最初に就職した会社の同期生には大陸からの帰国者がいて余興には必ず、引き揚げの長い道々数家族が声を合わせて歌い、励ましあったという歌を歌った。
「故郷を離れてスンガリ越えて…」というその歌はほかにどれだけの人が知っているだろうかと思う。
大島昌二