コロナの季節の拾い読み(付録3)
コロナの季節にことよせて拾い読んだ本の感想を纏めてその延長上にある感想を付録として書いてみた。コロナの季節はまたアメリカの選挙戦の季節であった。もちろん世界は広く注目すべき政治的変動はこれに限らない。そのような時期に逃避的な読書に耽るのはどうかという批判は当然である。
新聞は時局を論じるのが仕事であるから新聞を読んでいる。しかしその新聞も感染症の拡大やトランプ政権の問題を論じる一方では、引きこもりにほかならない生活を余儀なくされている人々に真っ先に読書案内の記事を掲載していた。この土曜日(10月31日)のフィナンシャル・タイムズ(FT)の論説の一つはヨーロッパのコロナ対策の現状を論じるものであるがもう一つは街角の書店と大手のネット書店の勢力の推移が読書人にとってどのような問題を生んでいるかを分析している。
FTの土曜版は、ニュース (FT Weekend)、教養(Life &Arts),住宅と土地(House & Home)の三部からなっていて、ときどき上質紙を使った大判の付録(Colour Supplement)がついてくる。FTの現在のオーナーは日経新聞社であるがバブルの盛期からFTは日経の印刷所でアジア版の印刷を続けていたから日本の読者はディジタル化以前から時差のないホットなニュースを手に入れることができていた。
FTは基本的には経済新聞であるから保守的かと思われるが今の日本やアメリカの政界の基準に照らせば決してそうではない。すでに1992年の英国総選挙の当日にFTは「決断の日」と題する論説を載せて労働党を支持していた。弱体化し、目標を失った保守党政権が半恒久化する危険と自己改革に前進を見せた労働党を対比した場合、ここはリスクを承知の上で変化の方を選びたいというものであった。
外紙だが紙面に時差の問題がないだけでなく、同じ記事、あるいはそれに続く記事もネットでも読めるから不満はない。(実際はネットの方が写真は多くて鮮明だし、関連記事のリンクもあってより便利である。)最近ではPodcast だけでなくAI利用の音声読み上げサービスも広く利用することができる。一瞥して気づくことは、読者の関心に応えるだけでなく興味も引きつけようとする配慮があることである。日本の新聞と比べて写真や絵が多く紙面が美的に構成されている。紙面に日本的な偏りがなく国際的である。菅首相は褒めないだろうが、より「総合的、俯瞰的」である。
同日の“Life &Arts”のトップ記事は「二つのアメリカ」(Two Americas)であるが長文なので若手コラムニストのサイモン・クーパー氏の「もしバイデンが勝てば、トランプ、そしてトランプ主義の次の手は?」を読んでみる。冒頭からさっそく笑わせてくれる。
「1974年、ニクソンの辞任でウォーターゲート事件が終った時、2人の間に話題がなくなったため離婚した夫妻がいたという話だ。今やわれわれの多くにとっても似たような空虚が待ち構えている。一番可能性の高いシナリオが現実のものとなった後のことをわれわれはまるで考えていなかった。トランプが選挙に負ける、しばらく泣き言をいう、そして座を明け渡す。トランプ以後、彼の敵や味方は、新しい自分を見出してこれまで同様に対話を続けることができるのだろうか。」
トランプ主義は生き残れるだろうか。近年のアメリカの大統領は例外なく世界中に何らかの強い印象を残している。しかしトランプほどの大資産家はいなかった。(トランプほど目の前にどっかと腰を下ろした大統領はいなかった。)トランプ支持者は、リベラルたちはトランプ錯乱症を患っていると笑う。しかし、だれが正気でいられようか。
オバマ前大統領は「議論なしでクリスマス・ディナーを食べられるかもしれない」という。テンションの高い指導者の後には退屈な指導者が望まれる傾向がある。レーガンのあとはGHWブッシュ、サッチャーの後はジョン・メイジャー、ニクソンの後はジェラルド・フォードといったぐあいである。「少なくとも生物化学兵器に変身して自国民を標的にするようなことのない、退屈な大統領が望まれている。」
ジョー・バイデンは背負いこんだ重荷に耐えきれず、民主党が手を焼くにちがいない上院や最高裁を相手にして開明的な政策を通すことはできないだろう。もしバイデンが最高裁を自分の息のかかった判事で埋めたりすれば、アメリカ人の半分は納得せず、たちまち制度崩壊が起るだろう。民主党は吸引力を失い、ニューヨーク・タイムズはせっかく獲得した数百万の読者を失い、人々の関心は政治を離れて私生活に戻るだろう。
トランプが獄につながれることはないだろう。トランプの負債は少なくとも11億ドルに上る。それもこれまでの6度の倒産を見れば分かるように、立ち直るのに時間はいらない。アメリカには名声を金に換える手段は掃いて捨てるほどある。彼は2016年の(選挙ではない)本来の計画であったトランプTVを発足させることができるだろう。ビジネスマンとして大成するという幻想さえ捨てて、天才的なお笑い芸人としての素質を生かせば、しばらくは繁盛して一財産作ることができるだろう。
トランプ主義はトランプの後も生き残るだろう。しかし、おそらく選挙で勝つことはないだろう。第一に、トランプ氏のいないトランプ主義は成り立たない。第二に、白人ナショナリズムはすでに人口動態の変化という壁に激突している。
共和党は文化面でも経済面でも身動きが取れない。文化的にこれという魅力を提示できないし、経済面で目ぼしいところは、人気のない金持ちのための減税と衰退する化石燃料産業のための規制解除ぐらいしかない。トランプの主たる政治的遺産は彼が声援を送った極右武装組織(militias)といってよさそうだ。一国の政治を混乱に陥れるのには数個の武装集団で十分である。
コロナ後の経済の見通しには幾つかお目にかかったが、確かにトランプ後(となるとして)のアメリカ、ひいては世界の見通しも忘れてはならない。私は未来の予想は最も苦手とする種類の人間だが、サイモン・クーパーの予想するように大統領選での共和党の敗北は間違いないと思う。しかし、トランプは泣き言を並べる程度で大人しく引き下がるだろうか。「まだ最高裁がある!」という叫びが発せられることはないだろうか。映画になった八海事件『真昼の暗黒』の最後のシーンにトランプの顔が浮かび上がる。トランプが、郵便投票や接戦州の票数などを取り上げて、同じセリフを口にする可能性は十分にある。泥試合を挑む可能性は大いにある。それに引導を渡せるのは共和党の自己保身の動きということにならないだろうか。クーパー氏が指摘するトランプの遺産、右翼武装集団の存在もきわめて不気味である。存続の危機(existential crisis) に遭遇した集団は手段を択ばない。
FT の同じ号には先に挙げた「二つのアメリカ」のほかにも「次のパンデミックをどう予知し、どう予防すべきか」という時局性の高い長文のレポートがある。すでに長年の研究があるが積み上げるところまでは行っていない。対象とする領域が広すぎてなお暗中模索の感がある。
毎号書評は大きなスペースをとるが今号はとりわけ多く「苦い遺産」という共通題で近時ますます批判が高まっている帝国主義、植民地主義を再検討する4冊の本を取りまとめて論じた長文のもの、レーガン、ブッシュ(シニアー)政権で財務長官、国務長官などの要職について辣腕を振るったジェイムズ・ベイカーの伝記、野生動物のドキュメンタリーで名をはせ、自然保護の運動を進めるデイヴィッド・アッテンバラ(94歳)の伝える自然破壊の現状と未来など8冊の書評が並んでいる。
アートに関しては”England’s visionary chronicler” と題してロンドンからアメリカに渡って長期展示されるウイリアム・ターナーの絵画展を3枚の写真入りで紹介しているのが目につく。旅行、演劇、映画、音楽、ワイン、グルメなど人間の欲望を広く網羅した紙面は贅沢きわまりない。
小松由佳の『人間の土地へ』の次には遠藤耕太郎の『万葉集の起源』を読んでいる。著者は「令和」という年号に異を唱えてはいないが、万葉仮名の万葉集はどんなに力んでも漢文学(漢詩)起源であることは避けられない。万葉集の和歌は「その基層に、文字以前の声の歌のなかで培われた技術を継承していることが見えてくる」。(注:これを確認することが本書の中心課題らしい。)「言い換えれば、文字以前の声の歌が、古代国家が成立し、文字(漢字)、中国思想、漢詩文などの中国文化を受容し飛躍したところに万葉和歌はあるということだ。」万葉集の解説もここまで来なければと頷きながら読んでいる。
万葉集の全般について最初に教えられることは、万葉集はもともとは巻物で、全20巻あるが古今和歌集以下の勅撰和歌集のように撰者の手によってある時一巻にまとめられたものではない。7世紀末に巻一前半部が成立し、その後徐々に続編が追加され、8世紀末には大伴家持周辺の歌を日付順に記録した巻17~20が増補されたとみられる。また7世紀半ばの舒明天皇の時代から、およそ8世紀後半までの130年ほどが万葉和歌の作られた実質的な時期であり、それは4つの時期に分けられる。本書は、それを白村江の敗戦(663)、壬申の乱(672)、平城京遷都(710)東大寺大仏の建立(752)、藤原仲麻呂の乱(764)などの歴史的事件との対比において示すもののようである。
遠藤耕太郎『万葉集の起源』はここから歌垣の世界に没入するのだが、やさしく読めそうもないので、ここで本筋を離れて阿倍仲麻呂の漢詩に触れておくことにする。かすかにではあっても上述の遠藤説につながるものがありそうに思われる。
翹首望東天 首をあげて東天を望めば
神馳奈良邊 神(こころ)は馳す奈良の辺
三笠山頂上 三笠山頂の上
思又皎月圓 思ふ又た皎月(きょうげつ)の円(まどか)なるを
これはある中国人の書いたもので読みましたが『全唐詩』巻732にあると言うことです。立派に韻を踏んでいるように見えますがどうですか。下の同じ仲麻呂の短歌と比べてみてください。
「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」
この出典は古今集で字母は「天原不利左計見礼盤春日那留美可左乃山耳出之月可毛」です。古今集の左注によれば、明州で752年の遣唐使と一緒に帰国しようとした時に中国の友人たちが開いた送別会で詠じたということです。難船して日本への帰国は叶いませんでした。752年で晩期とはいえ万葉集に収載されていてもよさそうです。
この歌は定家の撰になる小倉百人一首を通じて人口に膾炙しており、仲麻呂の学識は唐の朝廷でも十二分に認められていたとは教えられていましたが、この漢詩は最近知ったばかりです。ここには日本語の和歌にある「振り向いて遠くを望む」〈「振りさけ見れば」のサケは遠ざける意という〉の意には通じないが、「大空をはるかに見わたせば」という解説もある。「振り向いて遠くを望む」は不自然でもともと無理があるという説を読んだ記憶もある。漢詩は「首を翹(あ)げて東天を望めば」と読まれる。中国人との会合で読んだのは漢詩、従って誰が訳したにせよ、これが原詩ではないかと思います。
秋酣と言いたいところですが政治の季節の風雲急と言わざるを得ません。
FTの若手コラムニストの「大統領選後のアメリカ」を要約紹介しました。
FTの紹介も兼ねたものになっています。
大島昌二
2020.11.3 19:01
本文を読んでいて、内容とは関係なく単純な興味が湧いてきたこととして、次元の低い質問で恐縮だが、大島君はFinancial Timesを常時英語の原文で読まれているのだろうか、それとも日経デジタルの日本語翻訳版でか。僕は海外で生活していた折は業務上の必要性もあり、横文字の現地の新聞を読んでいたが、大変な労力を必要とする極めてTime-Consumingな仕事だった。リタイアしてからこの二十数年間英語に触れる機会も必要性も一切なかったので、この機会に先程ネットでFinancial Times原文を読みかかったが、一日かかってもとても読み切れそうもなく諦めた。悲しいかな、頭が働かない。 戸松