拙稿で引き合いに出した森耕二君からスコセッシ監督が選んだ39作品の中で彼がコメントした139本の映画の中にあるのは「大人は判ってくれない」ただ一作であるというメールを頂戴した。彼も名画を選んでいるのだがこういうことは十分に起こりうることは拙稿の終わりあたりでも述べている。ただこれに関して一点訂正を要する。スコセッシとアンドリュースの選択には重複がないと書いたが一作だけあった。『アギーレ/神の怒り』 (ヴェルナー・ヘルツォーク 1972年 西ドイツ)がそれだが、私は見ていないのでこれ以上は何も言えない。
戸松君は名前を挙げた英語の先生たちは人気があったと書いておられるが、そうだろうかと思う。菊池亘先生は皮肉屋で厳しいので敬遠されたのではないかと思う。私はその皮肉屋であるところがむしろ面白く好きだった。いいことを教わったという記憶もある。
Huxleyの短編小説で“One fine morning “で始まる文章で、これは「ある晴れた日に」ではなく「ある日ひょっこり」、「ある日突然に」の意味で歌劇の蝶々夫人の場合もそうなのだと教えられた時は目から鱗が落ちたような気がした。何年も経ってからだがツルゲーネフの『猟人日記』を読んだが「或る晴れた朝のこと」という言葉がよく出てくる。中山省三郎の古い訳だが、その日は晴れていたかもしれないが「ある日偶然に(ひょっこり)」という意味合いがあった。
小平ではどうしても語学に時間を取られた。生意気盛りの生徒たちは早く専門課程に入りたくて語学というのを一段低く見ていたようにすら思う。第二外国語の格変化に悩まされた恨みもあったかもしれない。近年になってからだが、私はある必要があって大学の図書館で歴代の英語の先生のリストを探したことがある。あれだけの時間と労力をかけたのだからそれぐらいはあるだろうと思ったが皆無といってよかった。わずかに不完全ながら山川喜久男教授がまとめた小冊子があっただけである。
ともかく私は探していた米本新次という教授の名前を見つけることができた。私は父が持っていたこの先生の英文法と英作文の本で学んだことがあった。東京商科大学という大学の名前は伊藤整の少年小説の奥書で見たのが最初だが「妙な名前の学校があるもんだな」というのがその時の印象だった。米本教授については後日その親戚という人から話を聞いたことがある。戦後まもなく「大学の先生では食っていけない」と見切りをつけて静岡に帰って事業を始めたということだった。履歴にはカナダからの帰国者であるむねが書いてあったから、事業を起こすという発想は身についていたのだろうと思う。
渡辺静雄さんを私は全く知らないがドイツ語について私も似たような感想を持っていた。Pクラスの雑誌『多摩湖線』に「第二外国語の運命」という文を書いたことがある。森耕二君が喜んでくれてグライル先生にお目にかけ先生も喜ばれて私につけた点数まで紹介されてしまった。グライル先生は試験に作文を課したがその数年分の優秀作を集めて”Traum und Wirklichkeit” (「夢と現実」)という標題の小冊子を出しておられる。そこで先生は学生たちは僅か2年足らずドイツ語を学んだだけなのに素晴らしい力量を発揮していると絶賛している。私もまったく同感である。