いまだ木鶏たり得ず
私は三歳年上の兄の影響で小学校(当時は国民学校)へ入る前からの相撲ファンでした。先生に褒められた最初の記憶は一年の時と思うが学校で「うちの兄さんすもう好き」という詩を書いた時でした。いちおうリズムも整えて形は整っていたと思う。音楽の教科書にある「来たぞ少年戦車兵」という歌をそのまま写して先生に笑われた生徒がいたことを覚えている。
当時は部屋別東西制(今は部屋別総当たり制)で東の双葉山、羽黒山(いずれも立浪部屋)が西の安芸ノ海(出羽の海部屋)照国(荒磯部屋)が四横綱。いつも東が勝って東西が入れ替わることはなかった。双葉山の70連勝を止めたのが当時関脇だった安芸ノ海。それで判官びいきというのか、兄に習って安芸ノ海ファンだった。ただしその相撲は1939年1月のことで私はようやく三歳になったばかりで知るはずはない。
一度、父に連れられて靖国神社の奉納相撲というのを見に行ったことがあった。大きなテントの一番後ろの席で、目を凝らして豆粒のような双葉山を見た。見たはずだが目には入っていなかった。靖国神社というのは間違いで明治神宮であったかもしれない。靖国神社には今も確かに土俵があるが敷地の隅の狭いところでしかない。
「坊ちゃん土俵入り」という映画があって安芸ノ海が出演するというので見に行ったこともある。土俵の上にちょっと姿を見せただけなので失望した、少年力士を相手に「押さば押せ、引かば押せ」と稽古の本質を教えているだけだった。
学校へは校庭の裏側から入ったのでまず目の前の砂場で上級生が当たり稽古式の相撲を取っているのを見てから教室に行った。黒山の人だかりで勝負がつくと次々と飛び出して取っ組むのである。何度も見ているうちに技の巧いひいきの生徒も現れるのである。相撲の人気は今のサッカー以上だったろうと思う。
小学校は3年と4年の二度転校したが体操の時間はいつも相撲を取らされた。これは軍国時代のせいもあったかもしれない。球技などはまるで無縁だった。私は相撲は得意だったから転校して最初に「あいつは相撲が強い」ということでいじめに会わずに済んだ。相撲に強いと言うことは喧嘩にも強いことを意味していた。勝ち抜き戦で負けるまで取らなければならない。いい加減飽きて手を抜いて先生に注意されたこともあった。
なぜ強かったか。それは好きだったからでもあるが私は左利きだから左四つになる。相手はほとんどが右利きだから左四つは勝手が違う。そこで左から下手投げで投げる。それで思うように勝てた。寄り切りなどという力のいる相撲は取るまでもない。なぜ相手がそれに気づかないのかはわからない。右四つならもう少しいい勝負になったろう。
大相撲が好きだと言ってもせいぜいラジオと新聞である。新聞には時々勝負の写真が載ったのでそれを切り抜くのが楽しみだった。新聞の切り抜きもこうして相撲からだった。
戦後、大相撲の地方巡業は米が手に入る地方を優先したらしい。昭和21年と思う。疎開先の田舎町に相撲がやってきた。結びは横綱安芸ノ海と大関東富士であった。2人は立ち上がってから少しウン、ウンと力を入れて見せたが、そのまま上位の安芸ノ海が寄り切って勝った。きれいだと聞いていた肌は栄養不足のせいかシミだらけで荒れていた。期待に反した相撲観戦で終ってしまった。鏡里の一行も来たが記憶には何もない。大いに楽しめたのは昭和24年と思う。巡業の一行に横綱はおらず結びは大関汐の海と小結(?)五つ海だった。この時の収穫は大きかった。せいぜい大きな復員兵ぐらいにしか見えなかった栃錦が当たり稽古の土俵を占領して降りないのだ。これは強い。当時まだ前頭下位にすぎなかった栃錦に私は注目したが小結がいいところと思っていた小兵力士はなんと横綱にまでのし上がってしまった。
就職して東京駅の八重洲口から会社へ歩いて通う途中に「九重」というチャンコ料理の看板が出ていた。九重親方だったことのある元安芸ノ海の店であることは知っていた。長い間営業をしており一度寄ってみたいと思いながら残念ながらつい機会を失ってしまった。
しかし予想外の幸運に恵まれたこともあった。栃錦の夫人の実家は新橋の料亭(たしか次郎というフグ料理屋)だった。日本の会社を辞めてロンドンへ赴任する時、わずかに知り合っていただけの大和銀行の国際部次長さんが招待してくださった。その席で私は得意になって栃錦礼賛をしたのだったがそれを聞いていた仲居さんが「今来ておられますよ」というので「何卒よろしく」とだけ伝えてもらった。しばらくしてその仲居さんが帰ってきて栃錦の手形を押した色紙を4人ほどいた一同に贈呈してくれた。表(あるいは裏か)には横綱という文字はなく「元栃錦」とだけ書いてあった。
去る1月に訃報が出たばかりの同じ春日野部屋の小兵横綱栃の海は神田でチャンコ料理の店を開いていた。年下の友人の夫人が同級生であったとかいう伝手で何人かで一度行ったことがあった。色紙と筆を用意していたのは私だけだった。チャンコ鍋の店は息子さんに継がせて本人は引退した直後だった。持参したのは市販の筆で墨の付きが悪くて失礼してしまったが機嫌よくサインをしてもらえた。相撲の話を聞きたかったのだが「最近は飛距離が出なくなって」とゴルフの方に興味は移ってしまったようだった。
初代の大関貴ノ花と横綱輪島にはあるところで握手をしてもらったことがある。見ず知らずの人間が手を出したのに思わず応じてしまったものか、握手などは相撲取り、それも地位の高い関取の普通はしないことのようである。貴ノ花の手の平は驚くほど柔らかだった。
伊勢ケ浜親方、元横綱旭富士の肩透かしや小手投げなどのきれいな取り口も好きだった。私と同じ大島部屋だったからという贔屓目ではない。現理事長の北勝海が天敵で、その猪突猛進を愚直に受け止めて何度も苦杯を喫していた。これを見てもわかる通り、立ち合いの変わり身を非難する相撲界の正論とやらはどうかしている。体重が重くて頭の固いものが勝つ面白みのない相撲を奨励する気にはなれない。(その限りでは正代戦に見せた白鵬の作戦は理にかなっている。)北勝海は強かったがこれという名勝負はさっぱり記憶にない。白鵬のボクシングまがいの相撲で思い出したが、かつてジョー・ボグナーがムハメド・アリ(当時はカシアス・クレイ)に打たれても打たれても前へ出る闘争心には驚くほかなかったが結局は脳内の病で寿命を縮めている。
大相撲の記憶はまだまだあるが長くなるのでここらで結論に持っていきたい。私は過日の白鵬・照ノ富士の一番を見て大いに感ずるところがあった。大日本相撲協会はなぜボクシングまがいの相撲を見て見ぬふりをするのだろうか。一方において、わずかに髷に手がかかっただけで反則とする細部にわたる規則を適用しながら、限度を越えたとしか思えない「かちあげ」や「張り手」をよしとするのだろうか。私は一昨日そんな思いを込めて、それでも婉曲に下のような投書を東京新聞宛に送信した。そうしてそれにこのような前書きを付けて諸兄にご披露したいと思ったのである。私は新聞の投書欄というものに期待をしていないから没を覚悟、予想の上である。馬耳東風、蛙の面に小便かもしれないが、幸いにして翌日の新横綱の口上には「横綱の品格」という一語が入っていた。これだけの年季を積んだ上での意見である。本来ならば無視するわけにはいかないだろう。よく考えてみると品位とか品格というのは高尚に過ぎるかもしれない。誰にでも納得のいく言葉を探せば「スポーツマンシップ」ということになるだろう。
発言(360~400文字程度)
20日の「筆洗」は横綱白鵬の優勝について蒲生氏郷の故事を引いた上で四十六歳での全勝優勝は立派であると述べている。確かにそれだけがすべてならば立派としか言いようがない。「筆洗」はその後で白鵬は「横綱らしさ」も相手にして闘ったのだろうと遠慮がちに述べている。それは白鵬がスポーツとしての相撲の枠をこえた荒技を連発したことを指したものであろう。顔を狙ったかちあげの後の張り手に対して照ノ富士は確かに応戦した。したがって一敗地にまみれたことは認めざるを得ないだろう。往年の名横綱双葉山の「いまだ木鶏たりえず」というセリフがこの場にふさわしいのだろうか。横綱の資格には品位、品格が強調される。照ノ富士の横綱就位挨拶にはこれらの誓いを入れて「日の下開山」の名を名実相伴うものにしてほしい。
「訂正」「四十六歳での全勝優勝は立派」と東京新聞を引用したのは私の見間違いによるもので「三十六歳での全勝優勝でした」。三十六歳の関取ならそれほど珍しくはない。 2021.7.23(金)10:12