P大島昌ニ:佐渡旅行記(写真版)2022.8.17 Home

百聞は一見に如かずとか、前回説明した観光スポットの幾つかを写真でご紹介します。

1342 羽衣の松(大佐渡山地、石名天然杉)

1354 緑あふれる大野亀は一枚岩

1360 尖閣湾と海底透視船

1378 相川音頭の舞台

1392 たらい船は櫓で漕ぐ(小木港)

1397 千石船「白山丸」(幸栄丸を復元したもの)

1413 昇龍棚田と日本海。地平線上に新潟市

1423 大佐渡、小佐渡の中間の国仲平野。彼方は大佐渡山地(最高峰は金北山1172m)

1443 佐渡金銀山の浮遊選鉱場(装置産業の一環)

1450 日本野生最後のトキ「カンちゃん」(10/10/03死亡36歳)

佐渡は風光明媚な観光地であることは疑いないが日本本土と切り離した独立の島国と

してカプセルに入れて見ることが出来そうな気がする。そこには歴史を含む、こじん

まりと完結した一国のすべてを掌中にするような満足感がある。自然について言えば

植物の「天敵」ともいうべき、シカ、イノシシ、キツネなどがいない。(ここに着目

した狂言に「佐渡狐」がある。)従って植物は繁茂する。


佐渡は世阿弥が流されて後「能」が盛んになったことが知られているが本間家能舞台

を今日に残している本間家の功績も大きい。上杉景勝に仕えた本間家は寛永年間に佐

渡に戻り能楽師として佐渡奉行所前で吉例の能を上演した。

佐渡では能楽は教養の一部であり折に触れて謡曲の一節を口ず

さんだものという。例えば酒席の後に辞去する客は見送りに出た主人に「猩々」の一

節を詠じて謝意を表した。(周知のように「猩々」は酒に酔った猩々が「足元もよろ

よろと」舞いを舞う。)


時代が変わったというべきか今回は殆ど話題にされなかったが、承久の乱(1221年)

で佐渡に配流された順徳上皇は亡くなるまでの21年間を佐渡で過ごした。順徳上皇御

火葬塚(真野御陵)がメルクマールとして残るのみである。後鳥羽上皇は隠岐に流さ

れ、土御門帝は自らの意思で土佐に渡った。佐渡は長く流人の島として知られ日蓮も

ここに流されている。


大久保長安について補足

元々は天領の自然林として残された佐渡の山地からは東京八王子の高尾山が想起され

た。高尾山は遊歩道が四通八達していてなお深山幽谷の趣を残している。佐渡の最高

権威者であった奉行(当初は代官であったが後に改称された)の中でもっとも著名な

のは、石見銀山で採掘を差配した後に家康によって佐渡に招かれた大久保長安であっ

た。長安は相川の金山の可能性に着目して当初鶴子にあった奉行所を相川へ移すなど

鉱山経営の革新を図った人物であるが彼はそれ以前には八王子の代官として高尾山薬

王院を神域として手厚く保護した功績を残している。このため八王子では「大久保長

安研究会」が活動してその正当な事績が隠滅されたままの代官の顕彰を図っている。

現在、長安ゆかりの遺跡は、佐渡には大安寺(寺名は彼の名前からとられている)や

蓮華峰寺の鳥居(重要文化財)などに残る僅かのものが知られるだけである。その理

由は長安死後の政変が闇に埋もれたままのせいと思われる。「(長安の)死後数日に

して、突如として生前の金銀隠匿、幕府転覆の陰謀露見を理由に遺子17名が死罪に処

せられ、多額の蓄財もすべて没収となる。大名や代官で連座し失脚した者もいたが、

その真相は不詳」(大久保長安研究会配布資料より)。私財の蓄積、キリシタンとの

通謀、幕府転覆の容疑などもろもろの嫌疑をかけられ、すべての財産は没収の上一族

すべてが死罪に処せられた。この大久保長安事件の真相については諸説あるがここで

これ以上の深入りは出来ない。ただ、これが徳川政権成立期の不安定な政治情勢に由

来するものであることは明らかと言ってよいだろう。