コロナ騒ぎもようやく先が見えてきたようですが、いかがお過ごしですか。
時間があるので珍しく読書が捗り、前回報告のフーバー大統領の「裏切られた自由」を読み解いた本がまた現れたので、ご紹介します。
他に、藤井厳喜著「太平洋戦争の大嘘」という、ネットのみで本屋では売っていない本もあります。
いずれにせよ、フーバーさんよくぞ真実を追求してくれたという感謝の念でいっぱいなのと、今後の対中韓外交にどう活かしていけるか、問題ですね。 藤田光郎
誰が第二次世界大戦を起こしたのか
フーバー大統領「裏切られた自由」を読み解く
Herbert C. Hoover: “Freedom Betrayed” by George H. Nash
渡辺惣樹
2017/7 草思社
はじめに
フーバーは真珠湾攻撃以後、死ぬ(1964/10)までルーズベルト(以下“FDR”と略す)の外交の実態について情報収集作業を行った。そして自身の感情を抑え、可能な限り史料に語らせることを心掛けた。
1章 ハーバート・フーバーの生い立ち
少年時代/スタンフオード大学時代、豪州での経験/中国時代、鉱山開発事業/ロンドン時代、ビルマでの起業/第一次世界大戦と食糧支援/商務長官時代、大統領時代
以上「フーバー大統領が明かす日米戦争の真実」に詳しいので省略
2章 『裏切られた自由』を読み解く
その1:共産主義の拡散とヨーロッパ大陸の情勢
「編者序文」を読み解く:なぜ出版が遅れたのか、歴史修正主義とは何か
編者ジョージ・ナッシュは、フーバーは鋭い勘でFDRが闇で何をしているのか(ハル・ノート等議会にも国民にも秘密で)記録すべきと考えた。FDR外交批判を徹底的に抑え込み、日本とドイツは悪の国と教育し、異議を唱える者に「歴史修正主義者」のレッテルを貼った。
ルーズベルト外交の最初の失敗、ソビエトの国家承認
FDRは、ソ連成立以来4代の大統領が行わなかったソ連の承認を、政権を取るとたちまち実行した(1933/11)。その理由について、フーバーは明言していないが、FDR自身が左翼思想にかぶれていて、米国内の反対意見をも顧みなかったことがあげられよう。ソ連と交わした米国内で赤化工作を行わない旨の約束はことごとく破られた。
1938年(開戦前年)の分析
ベルサイユ体制の不正義解消を目指すヒトラーの経済運営は、アメリカからの投資資金を原資とした経済成長で高評価、ドイツ民族全ての底上げを目指したナチスは人気を博した。
ヒトラーとの会談
フーバーが経済発展の実態把握のためチェコスロバキア経由でドイツに入ったところ、突然ヒトラーから招待があった。それは、第一次世界大戦時の食糧支援に対する感謝の意を伝えたかったからで、この会談で、フーバーはヒトラーがソビエトと共産主義を毛嫌いし、民主主義をも別の意味で嫌悪していた(理由を触れず)ことを知った。
チェンバレンとの会談
ヒトラーとの会談の2週間後、フーバーはチェンバレン英国首相(保守党)に突然招待された。フーバーは、ドイツが増大する人口を養うためと、第一次世界大戦で失った国土を取り返す野望、共産主義をつぶすという強い意志などから、ロシアを狙っているとみていると話すと、チェンバレンも完全に同意した。
3章 『裏切られた自由』を読み解く
その2:チェンバレンの「世紀の過ち」とルーズベルトの干渉
ルーズベルトの尻尾が見えた「隔離演説」
1937/10、FDRはシカゴの市制百周年式典で演説、日独伊三国によって世界の平和が乱されているので、国際社会から隔離して監視すべきだと主張した。ケロッグ・ブリアン条約(1928不戦条約於パリ)にも拘らず空爆や潜水艦攻撃を行う国(ドイツ)その他を非難した。しかし、スターリンのソビエトを全く非難していなかった。ベルサイユ体制の固定化を正しいとするFDRは、民族や宗教を考慮しない国境の線引きがもたらす民族運動や、共産主義革命を他国に伝播させるソビエトの工作には全く関心がない。(下線渡辺)この演説は極めて不評であり、ニューディール政策が不況から脱出するのに失敗した。
行動を起こしたヒトラー(1)ズデーテンラント併合とミュンヘン協定
1938/3、ヒトラーはオーストリア国民に歓迎されながら、無血で併合した。ヒトラーはドイツ経済とともに、オーストリア経済も活性化させた。続いてチェコスロバキアのズデーテンラント(ドイツ系住民は西部に住んでいたのに)全域をチェンバレン英首相に要求、両者と仏・伊首相の四者会談がミュンヘンで開催され〔ミュンヘン協定〕、ドイツ併合が決まった。
行動を起こしたヒトラー(2)チェコスロバキアの自壊
1939/3、ナチスドイツ軍は突然チェコスロバキアに侵入し、ラインラントを取り返した。この実態は、チェコスロバキアの自壊であった。
チェンバレンの世紀の愚策、ポーランドの独立保障
1939/3、チェンバレン英国首相は議会に、ポーランドの独立が脅かされれば、全面的に支援する。フランスも同様であると報告し、誰もが驚いた。フーバーはこれをFDRの差金だと結論づけた。
バーゲニング・パワーを得たスターリンと外交的袋小路に入ったチェンバレン
チェンバレンの上記宣言により、ヒトラー側に傾いていたヨーロッパのパワー・バランスは、スターリン側に傾いた。即ち、ソビエトは民主主義国家側にも、ヒトラーの側にも立てるポジションを得た。戦うか戦わないかも選択できた。彼らは共産主義イデオロギーの拡散にきわめて有利な立場となった。したがってヨーロッパのパワー・バランスは一気にスターリン有利に傾いた、とフーバーは喝破した。結果、犬猿の仲であった独ソ両国の唯一の共通点、第一次世界大戦期に失った領土回復だけを願う契りを結び、ベルサイユ体制の破綻をもたらした。
4章 『裏切られた自由』を読み解く
その3:ルーズベルトの戦争準備
中立法修正、干渉主義の最初の勝利
フーバーのアメリカがとるべき外交についての主張の根幹は、戦いがどれほど悲惨であってもアメリカは参戦せず、自由の灯りを灯しつづけることで、ヨーロッパの人々自身が解決の糸口を見出し、そこから新たな民主主義国家を創造すると決めたときにアメリカは必要な支援をする。第一次世界大戦にウィルソン大統領が参戦を決めたため、アメリカはヨーロッパの問題を解決できない。あくまで局外にいて、活力と軍事力を温存して、その力を必ずや訪れるはずの和平の時期に使うべしと述べた。第一次世界大戦後、アメリカは外国の交戦国に武器の輸出を禁ずる法律(中立法1935)を作った。これを修正することによって、英仏を援助することにした。FDRはそれにより失業者を100万人以上減らし、干渉主義的外交の最初の勝利を得た。
国民世論工作
ニューディール政策の失敗を隠し通すFDRは、中立法の修正で目安がついた。彼はフランスに参戦を密約していたが、国民はヨーロッパ問題に干渉することを拒否していた。アメリカ国民は基本的にドイツの全体主義を嫌ってはいたが、英仏の対独宣戦布告の理由が理解できなかった。理由が、他国(ポーランド)の独立を守るためだったからであり、そこにアメリカ国民の見識があった。(この見識を粉々に砕いたのが真珠湾攻撃で、アメリカの参戦を止めていた世論を一気に変質させた。それが真珠湾攻撃の愚かさの本質である。)FDRは国民世論を変えさせるために、ナチスドイツの恐怖を煽るプロパガンダ『ヒトラーがやって来る』を打ったが、アメリカ国民は賢明にも信じなかった。これがFDRの焦りを募らせ、対日強硬外交に向かった。
武器貸与法
1940/11、FDRは、若者を外国での戦争に送り込まないと嘘の公約をして、アメリカ史上初の三選を遂げた。FDRは、チャーチルの要求に応えて、武器貸与法を成立させた。
独ソ戦
1941/6、ヒトラーは独ソ不可侵条約に違背してソビエトに侵攻した。ドイツ軍が英国戦線から引き揚げソビエトに向かった現在、高みの見物を決め込むべきところ、FDRは、ポーランドやフィンランドに侵攻していたソビエトに対する禁輸措置を解除し、ソビエトに中立法を適用しないと発表、更に武器貸与も決めた。これにフーバーは強い危機感を持ち、ラジオでロシアを支援することの非倫理性を訴えた。もしアメリカが参戦し、勝利すれば、スターリンはロシアの共産主義を盤石にし、世界に拡散させることになる、と。結果、国民世論は参戦容認に傾かなかった。チェンバレンの後任で首相に就任したチャーチルは、「ソビエトが犯した過去の罪悪・愚行などは水に流す。ナチスと戦う人や国を支援する。ヒトラーと手を携えるかぎり我が国の敵である」と演説した。これは「敵の敵は味方」との単純なロジックだけで何の倫理性もない、
戦争への道:ドイツと日本を刺激する(1)大西洋憲章の嘘
FDRは、反ヒトラー・キャンペーンだけでは世論は動かないので、ドイツによるアメリカ攻撃が必要であると考えた。それもうまくいかないので、日本を刺激してアメリカを攻撃させることを考えた。1941/8、 FDRとチャーチルは、カナダのニューファンドランド島沖で会談し、領土から国民生活に至る原則を表明した太平洋憲章を発表した。それは交戦国のイギリスにすれば、その戦争目的を表現したものに過ぎないが、非交戦国のアメリカがあたかも交戦国のごとく戦争目的を公にした。これには民主党議員から続々反対意見が出された。
戦争への道:ドイツと日本を刺激する(2)日本を追い込む
FDR政権は日本を徹底的に敵視する外交を進め、1939/7、日米通商航海条約の廃棄通告を始め、石油等の禁輸ほかの経済制裁を実施した。近衛首相はFDRとの直接会談を模索するも、FDR政権は、グルー駐日大使の建言を無視、首脳会談は実現しなかった。
真珠湾攻撃(1)前夜
ハルは半年間、日本政府と交渉を続けたが、外交交渉上あり得ない条件を並べ立てて、近衛内閣を退陣に追いやった。フーバーはハルの態度を強く批判した。このことは、『それでも戦争を選んだ』のは日本ではなくアメリカであったことを示していた。フーバーは近衛が日本の軍国主義者の動きを何とか牽制しようとしていたことは称賛に値すると述べている。グルー大使らは「厳しい経済制裁によって対日戦争を回避できるという考えは極めて危険な仮説」と本省に報告していたにも拘わらず、無視された。日本は戦争を望まないことを、参戦を拒否するアメリカ国民に訴えていれば・・・?・・・蒋介石政権の顧問として送り込まれていたオーウェン・ラティモア(共産主義者)が、ロ-クリン・カリー大統領補佐官(後にソ連のスパイと判明)に蒋総統が強く反発しているので日本との暫定協定案を潰すよう打電した。11月、実質最後通牒であるハル・ノートが野村大使に手交された。
真珠湾攻撃(2)調査委員会
1941/12/7、ハワイ時間未明、真珠湾攻撃開始。日本嫌いのスチムソン陸軍長官の日記に、対日強硬外交の目的がようやく達成されたとの安堵感が書かれ、彼らが日本外交を通じて戦っていたのは自国の世論であったことがわかる。アメリカ海軍は1932/2に、真珠湾攻撃を想定した演習を実行していたが、現実の被害は、想定をはるかに超え、およそ3500人が死傷した。この衝撃に、議会も陸海軍も調査委員会を設けた。
その結果、国民に全く知らされていなかった対日外交の実態が表面に現れた。知らされてもいなかったハワイ防衛の責任者、ハズバンド・キンメル提督(海軍)とウォルター・ショート将軍(陸軍)が責任を負わされた。フーバーが諸史料を集めてFDRを批判しているのは言うまでもない。
5章 連合国首脳は何を協議したのか
フーバーは第二次世界大戦中の首脳会談(1941/8大西洋会談~1945/7ポツダム会談、計18回)の内容についても克明に分析した。日本にかかわる会談は次の通り:
2回のワシントン会談
12/11(真珠湾攻撃の4日後)、ドイツ駐米大使館代理公使ほか1名が国務省を訪れ、宣戦布告文書を手交した。1941/12に、対ドイツおよび対日戦にアメリカが参戦する場合、戦力はまずドイツに集中する旨、ABC合意できていたが、不安だったチャーチルは1941/12/22~FDRを訪れ、確認した。
第2回は1942/6/18~ FDR✕チャーチル。北アフリカ侵攻作戦が決定された。
カサブランカ会談 無条件降伏要求
1943/1、FDR✕チャーチル✕ド・ゴール。2カ月前、ドイツ軍はスターリングラードの戦いに敗れて、モスクワへの侵攻が難しくなっていた。会談終了後、FDRとチャーチルは記者会見、FDRはチャーチルと事前に打ち合わせなしに、ドイツ、日本およびイタリアに無条件降伏を要求すると発言(チャーチルは驚いたが追認)した。このため、ドイツ国内では、反ヒトラー[ナチス]勢力の反ヒトラー活動が難しくなり、日本における講和を探る動きの障害になった。
カイロ・テヘラン会談(1)第1回カイロ会談
1943/11、カイロでFDRとチャーチルが協議したうえ、蒋介石が加わった。12/1の公式声明:〈米英中の連合国は日本に対して陸海空から容赦ない圧力をかける。日本が中国から盗んだ満州、台湾、澎湖諸島は、中華民国に返還されなければならない。奴隷状態に置かれている朝鮮の人々を憂い、時機を見た上で、朝鮮は自由となり独立すべきであると考える。〉という歴史的事実や現実の状況を全く無視・曲解した内容である。即ち、台湾、澎湖諸島は下関条約によって日本が領土化したもので、李鴻章の顧問はジョン・フォスター元米国国務長官が務めた。また、朝鮮は1910年に合法的な手続きで、アメリカの後押しを得て併合したものである。さらに、日本は朝鮮のインフラ整備に巨額の資金を注ぎ込み、教育制度も整え、1924年には京城帝国大学を設立(大阪帝大・名古屋帝大に先んじて!)した。米英両国は、自国の最高教育機関に匹敵する大学を植民地に設立などしていない。フーバーの分析:〈初めて朝鮮を訪れたのは1909年で、当時は、栄養、衣服、家屋、衛生状態、道路、通信手段、教育施設、植林、治安等すべての面で劣っていた。日本の支配による35年間で、朝鮮の生活は革命的に改善した。日本はまず最も重要な秩序を持ち込んだ。港湾施設、鉄道、通信施設、公共施設そして民家も改良された。衛生状況もよくなり、農業もより良い耕作方法が導入された。肥料工場が建設され、禿山に植林し、教育を一般に広げ、国民の技能を上げた。〉現在の剣呑な日韓関係の起源は『カイロ宣言の嘘』にある。アメリカが、FDR外交は絶対的に正しいとし、修正主義歴史観を頭から否定する釈明史観に拘泥しつづけるかぎり、日韓の和解はない。
カイロ・テヘラン会談(2)テヘラン会談前夜
『裏切られた自由』には収録されていない二つの重要な事実:①1943年半ばからFDRの体調が急速に悪化していた(側近が隠していた)。②翌11/28のFDRの奇妙な動き(意図振戦:身体の震え)。FDRはカイロでの会談を終えると、テヘランに向かい、スターリンとの初めての会談に心が弾んでいた。
カイロ・テヘラン会談(3)テヘラン会談
1943/12/1に発表の公式声明は、「USA大統領、大英帝国首相、ソビエト首相は共通の外交目標を決定した。」「我々の友好的な協議を通じて、世界の人々が暴君から解放され、各自の願いや理念に則って自由に生きることができる日が来ることは間違いないと自信を持って言える。我々は希望と決意をもってここに集まった。そしていままた別れることになるが、その友情、精神、目的は変わらないのである」と表向きはなっているが、スターリンの望んでいたフランス北岸からの上陸計画(1944/6/6のノルマンディー上陸作戦)や、南フランスへの侵攻も決まった。
第2回モスクワ会談
1944/10。FDRは選挙戦のためアヴェレル・ハリマン駐ソ大使をオブザーバーとして参加させた。この会談で、バルカン半島諸国のソビエト支配が完全に容認された。チャーチルはそれでもそこに少しでも自国の影響力を残したくて、このメモをスターリンに渡すと、スターリンはしばらく沈黙した後、大きなチェックマーク(同意)を付けて戻した。
ルーマニア ロシア 90% 他国 10%
ギリシャ 英国 90% ロシア 10%
ユーゴスラビア 50% 50%
ハンガリー 50% 50%
ブルガリア ロシア 75% 他国 25%
ヤルタ会談(1)FDR、死に至る病
四選を果たしたFDRは1945/1/20、ホワイトハウスのバルコニーで短い就任演説を行った。近くの人にはFDRの体全体が小刻みに震えているのが見て取れた。一方スターリンは、医者から遠距離の旅を禁じられているため、黒海沿岸での会談を指定した。そのためFDRがヤルタへ着くまでおよそ2週間を要した。途中、1945/2/2、FDRが乗った巡洋艦クインシーはマルタに入港したが、英米軍関係者やチャーチルとイーデン外相との事前打ち合わせをせず、両首脳はマルタからヤルタに飛び立っていった。
ヤルタ会談(2)表の合意
テヘラン会談から1年2か月後の1945/2、FDR✕チャーチル✕スターリン出席。ヨーロッパにおける秩序の再構築と経済の回復は、ナチズム及びファシズムの痕跡を一掃すること、そのうえで、自らの望む民主主義的政体を創造していかなくてはならない。それが大西洋憲章の精神である。それぞれの国民は自ら望む政治体制を選ぶ権利を持つ。侵略国家によって奪われた主権と自治の回復がなされなくてはならない。ポーランドでは赤軍による完全開放の結果、より広範な国民に意思を反映する暫定政権の設置が必要になっている、との声明が出された。さらに、ドイツ人捕虜を強制労働に使うという秘密協定は、ジュネーブ条約に違反するものである。また、チャーチルとスターリンだけで英国人戦時捕虜の開放について協議し、互いに返還する中、反スターリン・共産主義のロシア人の中にドイツ軍に参加して赤軍と戦っている者もいた。チャーチルはこうしたロシア人までもソビエトへ送還したため、彼らの多くは強制労働収容所送りか処刑された。このチャーチルの非人道的な処置は英国外務省が隠蔽したが、ニコライ・トルストイ(文豪の末裔の歴史家)に暴かれた。
ヤルタ会談(3)裏の合意(秘密協定)、極東合意
FDRはソビエトを対日戦に参戦させたがっていた。そこで、米英ソ三国首脳は次の秘密協定を締結した:
1.外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持
2.1904年の日本の攻撃によって失われたロシアの利権の回復
A.南サハリンおよびその周辺の諸島のソビエトへの返還
B.大連港の国際港化、同港におけるソビエトの利権の恒久的保護、ソビエトの軍港として利用することを前提にした旅順口の再租借
C.東静鉄道および南満州鉄道から大連への路線は、ソビエト・中国共同の会社によって運営される。これに伴うソビエトの利権は保障される一方、満州の主権は中国に属するものとする。
3.千島列島はソビエトに割譲されるものとする。
秘密にした理由は、日ソ中立条約とすべて中国の主権と関わる件を蒋介石の了解なく三国が取り決めたためである。ところが、日本固有の領土である(ことを知らないFDRが勝手に)千島列島をスターリンに差し上げたことの愚かさは、合意内容が明らかになるにつれ、アメリカのメディアが指摘するようになった。現在も日本を苦しめる北方領土問題は、ヤルタ会談におけるFDRの判断の愚かさに起因している。
ルーズベルトの死とトルーマン副大統領の昇格
ヤルタ会談について、FDRは自身も相当に問題であったことは自覚していた。しかも重病で、会談の2か月後(1945/4/12)に息を引き取った。即日、ハリー・トルーマン副大統領が昇格した。しかし、彼は外交の事態をほとんど知らされていなかった。
ポツダム会談
ポツダム会談は、ドイツ降伏(1945/5/7)後、ベルリン郊外のポツダムで開かれた。フーバーによると〈日本との戦いは終幕に近く、日本は繰り返し講和を求めるシグナルを出していた。〉この頃ポーランドの戦後処理がトルーマンとチャーチルを悩ませていた(略)。対日戦争の方針については、1945/2、マッカーサー将軍がFDRに長文の報告書を寄せ、無条件降伏要求とは言いながらも天皇の地位保全は容認すること、日本を降伏させるためにソビエトに譲歩する必要はないことが書かれていた。1945/4/7には鈴木貫太郎内閣が成立し、東郷茂徳が外相として入閣し、講和を求める方向にシフトした。7月にはソビエト(法的には日本にとってこの時点では中立国)に講和の仲介を求めた。トルーマンに対し、フーバーはアドバイスし、スチムソン陸軍長官やニミッツ提督らの高官も皇室の存続を条件としての降伏の可能性を感じていたが、当然、アチソンほかの反対する高官(容共主義者)もいた。7/26ポツダム宣言発表。8/8ソビエトが日ソ中立条約を破り対日宣戦布告した。8/10日本政府はポツダム宣言を、付帯条件付きで受諾した。
原爆投下
フーバーは,〈アメリカの指導者が日本を降伏させるためには、『天皇の地位保全』を容認するか・しないかだけの決断になっていることを理解していた。したがって、原爆を使用したから日本が降伏したというロジックは誤魔化しであることは歴然としている〉と述べている。提督たちも同意見である。原爆の使用については他国の指導者も非難していた。アメリカ陸軍大学研究員マイケル・ナイバーグは、スターリンは原爆投下を最悪の野蛮行為と非難したうえで、ソビエトに軍事的優位性がないことを見せつけるためだったと確信した、と書いている。
おわりに
フーバーは度重なる会談を詳述することによって、ソビエトを連合国の一員としたことの愚かさを晒し、FDRとチャーチルの戦争指導がいかに間違っていたかを明らかにした。ポーランドと中国の共産化、ドイツの分裂、朝鮮戦争が、アメリカ政府内部に侵入したソビエトのスパイや容共高官が深く関与していたことが明らかにされた。
中国と韓国は、日本を『極悪国』として捉え、歴史認識では日本の主張を一切受け付けず、21世紀になっても非難を続けている。歴史の捏造が明らかな南京事件についても、いわゆる慰安婦問題についても、アメリカはプロパガンダであることを知っているにもかかわらず、アメリカが日本を擁護しないのは、FDRとチャーチルの戦争指導があまりに愚かであったからであり、その愚かさは日本(とナチスドイツ)が問答無用に『悪の国』であったことにしないかぎり隠しようがないからである。
フーバーは、鉱山開発・経営の専門家で、アジアの歴史に詳しくなかったため、自身の政権時代にはアジア外交を日本嫌いのスチムソン国務長官に丸投げしていたことは不幸ではあった。
わたなべ・そうき
日本近現代史研究家。北米在住。1954年静岡県下田市出身。77年東京大学経済学部卒業。30年にわたり米国・カナダでビジネスに従事。米英史料を広く渉猟し、日本開国以来の日米関係を新たな視点でとらえた著作が高く評価される。著書に『日本開国』『日米衝突の根源 1858-1908』『日米衝突の萌芽 1898-1918』(第22回山本七平賞奨励賞受賞)『朝鮮開国と日清戦争』『アメリカの対日政策を読み解く』など。訳書にマックファーレン『日本 1852』、マックウィリアムス『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省 1944』など。
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[投稿日時] 2020年06月18日 18時32分44秒
お名前 : 戸松孝夫
■メッセージ
筆者の先月の投稿文に続き、今回も興味深く、面白く読ませてもらいました。長年米国で生活し、米国人の実態を知って、米国が大嫌いになった僕には極めて快適な内容でした。「フーバーさんよくぞ真実を追求してくれた」との感謝の念を共有します。ここで大切なことは、「これを今後の対中韓外交にどう活かしていけるか」ということですね。安倍外交に期待したい。(対米外交は全く駄目だが、対中韓外交には安倍さん頑張っているように見受けられるが)