みな様 ご無沙汰しております。コロナ騒ぎの中いかがお過ごしですか。
さて、4月2日付け日経新聞の広告で題記の本を見つけ、これは以前の投稿※に関係ありとみて、即購入しました。
加瀬という名前は聞いたことはあるが・・・と思いながら本を開き、はしがきで商大の大先輩と知り、びっくりして読み切りました。
読後感は、「凄い人だな」の一言に尽きます。 M組 藤田光郎
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
福井雄三
「開戦と終戦をアメリカに発した男
---戦時外交官加瀬俊一秘録」
(2020-4-13 毎日ワンズ)
要 旨
第一章 生い立ちと留学
加瀬俊一(としかず)は1903年1月12日、東京生まれ。
本籍は現在の千葉県旭市で、加瀬家は豪農で大山林地主。
父親の禧逸(きいつ)は東京法学院出身の弁護士で、衆議院議員、中央大学副学長等を務めた。謙虚な人柄。
母親のか津は千葉県香取市の醤油製造業者の娘で、香取小町と評判の美女。
俊一は芝中学に入学後、府立一中に転入、東京商大予科に入学。英語の実力がずばぬけていた。本科2年で外交官試験に合格(最年少記録)。
22歳の最年少で外務省に入省。当時の外相は幣原喜重郎。
1926年2月、留学のため横浜港を出発、マサチューセッツ州アマースト大学最上級学年に編入、ハーバードの大学院に進学、猛勉強の末、首席で卒業。
1928年6月、外交官補としてワシントン大使館に初出仕、東郷茂徳主席書記官の部下になった。米政界の大物の姪レジナとの恋が実らぬまま、1929年東郷に引っ張られてドイツへ転勤。マレーネ・ディートリッヒと交際するなど、青春を謳歌した。1930年1月ロンドン海軍軍縮会議に派遣され、日本全権団をサポート。1922年のワシントン会議で、英・米・日の主力艦保有比率が5・5・3に決められたのを不服として増枠を求めていた。この時プレス対応していた加瀬は、記者会見の前に“555”というイギリスのタバコを記者たちに配っていた。
国内では浜口雄幸内閣の蔵相井上準之助が、ウォール街株価大暴落にも拘わらず、金解禁を断行。浜口首相、井上蔵相のほか団琢磨や犬養毅首相(五・一五事件)が暗殺されるなどテロの嵐が襲った。
1931年9月、満州事変勃発。
1933年、帰国の途中タイに立ち寄り、体調を崩した矢田部保吉公使の業務を代行した。タイの外相に直談判で、連盟総会で日本非難案に反対するよう強硬に要求して、結局棄権させた手腕は松岡洋右全権団長を大いに感服させた。
第二章 外交の中枢へ
1933年、外務省情報部に復帰。外相は広田弘毅、次官は重光葵。広田の通訳で大活躍。
1934年、日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎の末娘、寿満子と華燭の典。媒酌は父の友人石井菊次郎子爵夫妻。
1935年~、第二次ロンドン海軍軍縮会議で、加瀬ら外務省側の説得を無視した全権の永野修身海軍大将は同会議から脱退。
1936年、帰路の船中で二・二六事件のニュースを聞く。
同年、第二子・長男の英明が誕生、大喜び。
1937年、近衛文麿、国民の期待を一身に集めて首相に。彼は秀才で青年貴公子だったが、困難やトラブルに直面するとそれを耐え忍ぶことができず、すぐに投げ出してしまうという致命的欠陥があった。
同年7月、コミンテルンと中国共産党の仕組んだ謀略と今日では考えられているシナ事変が勃発。
同年8月、第二次上海事変に発展、石原莞爾参謀本部作戦部長が部下たちの暴走を抑えられない状態になっていた。そのうえ、軍部は外務省を無視して二重外交を行い始めた。
同年10月、加瀬は妻子帯同で石井菊次郎とともにロンドンへ向かった。船中加瀬は石井の博覧強記の懐旧談により外交のエッセンスを習得した。
途中ローマでムッソリーニと会見した。
石井菊次郎は義和団事件に巻き込まれ、外国人として虐殺の危機にさらされた。
「外国人に対する殺戮の発生した原因は、中国人の主権を列強諸国が侵略したことだ、だから外国人(欧米人も日本人も)の鬼を絶滅しようとするのだ」、と中国人は言う。しかし『中国は外国人の邪悪な点だけを指摘して、自分自身の間違いは何一つ認めようとしなかった。』というのが石井の書き残した文章による彼の中国観。
加瀬の流麗な筆使いは天下一品だった。戦後、吉田茂が世に出した「回想十年」などの著書は加瀬が代筆したものだった。戦後、不遇の生活を送っているとき、加瀬の著書が大変な反響を呼んで、莫大な印税収入を得ることができた。
第三章 動乱のヨーロッパへ
1937年末ロンドン着。同じマンションの縁でバーナード・ショーと親しくなった。吉田茂、次いで重光葵大使の下で外交業務に励む。加瀬は石井菊次郎、吉田茂と愛国的自由主義で通底していた。
1933年の全権委任法で独裁を確立したヒトラーは、35年、ベルサイユ条約を破棄して再軍備に乗り出し、翌36年にはドイツ西部のラインラントの非武装地帯へ進駐。1938年にはオーストリアを併合。チェコのズデーデン地方の割譲、更にチェコの全面的解体を要求してきた。チャーチルはこれを「平和主義者が戦争を引き起こす」と喝破した。
当時ハーバードの学生だったジョン・F・ケネディと顔見知りになった。ケネディは遊興費がたりなくなると加瀬に借りに来ては借り倒していた。
1938年、吉田が60歳で辞任、重光葵新大使がロンドンに着任。加瀬は重光を毛嫌いしていたが、重光が内外の情勢を正確に把握して、要人に発信するのを見て、「妖気が漂うほど」と形容し、段々心服するようになった。
加瀬はイギリス政界の重鎮ロイド・ジョージの知遇を得た。彼に日本を毛嫌いしていたチャーチルとの会見を依頼したが、なかなか実現しなかった。そこで加瀬は、先ずチャーチルの家族全員の誕生日や結婚記念日を調べ、寿満子の名前で花を贈り続けた。チャーチルの著書を残らず読破していた加瀬は、こうしてチャーチルの心を動かし、反日発言を少なくさせることに成功した。
1939年ドイツはスロバキアを独立させるためプラハに向けて進軍し、チェコをドイツの保護領に。第一次大戦で失ったダンチヒとポーランド回廊の奪還を目論み、ポーランドは英仏に保護を求めたが、その力はなく、ソ連に接近した。スターリンはむしろヒトラーへの協力を決意し、独ソ不可侵条約を締結。全世界を驚倒させ、平沼騏一郎内閣が「欧州の天地は複雑怪奇」と唱えて総辞職。ドイツはポーランドに侵攻。すると英仏はドイツに宣戦布告。
チャーチルとルーズベルトはドイツとの戦争を期待したが、イギリスは第二次大戦後に植民地を失い、戦争保障の白紙委任状を与えたポーランドはソ連のものになる。アメリカは第二次大戦後東欧と極東を放置し、新たな侵略者、ソ連と中国を野放しにしたうえ、東部ドイツをソ連に譲り渡して、東西ドイツ分断の原因を作ってしまうという、米英ともに不条理・支離滅裂な外交を展開した。
9月、英仏とドイツが開戦したが、戦闘は行われないまやかし戦争と呼ばれた。
1940年4月、英独間海戦が始まり、ドイツがデンマークとノルウェーを占領、オランダ、ベルギーの国境を突破してイギリスに攻撃をかけてきた。
新首相のチャーチルは断固戦うとの演説に、議員のみならず外交団席の加瀬・重光も感動した。
6月、ドイツ軍はフランスに総攻撃をかけ、フランスは無条件降伏。
同月、加瀬は外務省からの通達により、妻子を日本へ。
ドイツの猛攻にも拘わらず、一致団結して国難に立ち向かうイギリス人の底力に、加瀬は深い感銘を受けた。
1940年、第二次近衛内閣の外相に就任した松岡洋右からロンドンの重光への再度の要請で、加瀬は帰国。イギリスのマスコミは彼の三年間の働きぶりを大きく報道した。中にハーバード出身なのにオックスフォードのアクセントを駆使するとのコメントあり。
帰国の機内でサマセット・モームと隣り合わせて、その後交友することになるが、モームには文豪のほかにイギリス情報部の諜報員の顔があり、加瀬の隣に座ったのはスパイ活動をするためだったかも?
第四章 日米開戦へ
1940年、加瀬を片腕に指名した松岡外相は就任直後、日独伊三国同盟を締結。松岡はアメリカで苦学した知米派でドイツ嫌いだったが、ドイツと組んだのは、ソ連も引き入れて、大西洋からドイツが、太平洋から日本が、北方からソ連がアメリカを圧迫すれば、アメリカの野望を阻止できると考えたため。さらにシナ事変も解決しようとした。しかしそれは手遅れで、アメリカの対日経済締め付けはすでに始まっていた。松岡外交が日本を戦争へ導いたなどという後世の批判は全くの間違い。
同年、アメリカは日米通商航海条約を破棄、屑鉄全面禁輸。日本は野村吉三郎海軍大将をアメリカ大使に任命、この人選は大失敗。
1941年、松岡外相の訪欧に加瀬も同行。ベルリンでヒトラー、リッペントロップと会談、日ソ友好の仲介を依頼したがドイツの態度は冷淡。その後ローマでムッソリーニと会見したが、表敬程度。次いでモスクワへ向かう途中、ドイツ軍がユーゴに進撃を開始したことを知る。モスクワではモロトフ外相と、中立条約の交渉に入り、最終的にスターリンと中立・無条件でまとまった。
松岡は別途アメリカのスタインハート駐モスクワ大使を通じて、ルーズベルト大統領との会談の約束を取り付けた。松岡の慎重で緻密で臨機応変の大胆な策が次から次へと繰り出されるさまを、「色の違うガラス球を次から次へととりかえては観客を圧倒する、変幻自在の奇術師のようだった」と回想。一行の帰国は熱狂的な歓迎を受けた。
松岡の留守中、近衛首相が独断で怪文書「日米諒解案」を起案し、近衛とルーズベルトの直接会談まで検討されているというので、松岡は激怒した。諒解案なるものは日米の民間人が日本に有利なものを作り、野村吉三郎駐米大使を巻き込み、一方でハルはハル・ノートと同内容の別物の「四原則」を野村大使に示した。野村は諒解案に飛びつき、四原則を独断で握りつぶした。
6月、ドイツ軍がソ連軍を攻撃。松岡はソ連攻撃を天皇に進言したが、却下された。もし実行していれば、勝てたかもしれないとチャーチルは述べている。
7月、御前会議で南進の国策が最終決定。第二次近衛内閣が総辞職し、第三次近衛内閣で松岡は外相から外された。それでも松岡は日ソ中立条約という置き土産を残していた。もしこれがなければソ連の対日参戦が早まり、北日本が取られることもありうるのだ。
松岡の外相辞任とともに、加瀬も外相秘書官を辞し、軽井沢の別荘で静養していた。1941年、東条英機内閣で東郷茂徳が外相に、加瀬は秘書官兼北米課長に任命され、日米交渉の最前線へ。
外務省は急遽来栖三郎に二案を持たせてワシントンに派遣したが、代わりにハル・ノート(事実上の宣戦布告)を発してきた。松岡失脚後大黒柱を失った日本の外交は大混乱。加瀬は対米宣戦布告の最終通告文を横田喜三郎東大教授に確認のうえ打電。当初、攻撃の30分前に通告する予定でいたのが、手違いにより、実際に通告したのは攻撃の55分後で、結果「だまし討ち」になってしまった。この大失策の原因については、大使館員の怠慢・ミスによると言われ続けてきたが、厳罰処分がないことからも、今後の真相解明が期待される。
第五章 終戦工作に向けて
緒戦の真珠湾奇襲「成功」のニュースに日本国民は狂喜したが、実は敵の空母も石油タンクも無傷の大失敗だったにも拘わらず、新聞報道により山本五十六は神様扱い。山本はその後も伝統的な漸減邀(よう)撃作戦を無視して、太平洋作戦で失策に次ぐ失策を重ねた。
1943年日本軍はガダルカナルから撤退、ドイツ軍はスターリングラードで降伏。中国大使だった重光葵が急遽外相に。重光は加瀬を補佐に。9月イタリアは降伏。東京で日本・満州国・中国・ビルマ・タイ・フィリピンの六か国の代表が集まって大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が発表され、1955年のアジア・アフリカ会議で、この宣言により日本がアジア民族の開放を戦争目的の一つにして戦っていなかったら、われわれは依然として英米仏蘭の植民地のままだった、と周恩来のいる前で、各国から謝意が表せられた。
7月、東条首相が辞任、小磯国昭内閣が成立したが、期待に応えられず。
1945年正月、憲兵の目をくらますため、極秘で重光、加瀬、近衛は家族や親類を連れて、熱海の大観荘に集まり、いかにして早く戦争を終わらせるか協議した。
加瀬らは、天皇に、すべての重臣に個別に会って戦局の見通しを徴すことにしたほか、山本有三の意見を聞いて、哲学者たちを集めて「三年会」を結成、重光の計らいにより外相官邸で秘密会を開いた。4月、小磯に代わって鈴木貫太郎内閣が成立。
東郷茂徳は渋々外相に就任し、加瀬に秘書官就任を求めた。
4月、戦艦大和が沈没。ソ連モロトフ外相が日ソ中立条約を延長せずと通告。6月、沖縄が陥落。
第六章 託された天皇の親書
6月、ソ連に和平の仲介を依頼するため、広田弘毅と駐日ソ連大使マリクとの会談が数度行われた。マリクはモロトフ外相にくぎを刺されていて、具体的な回答を示さなかった。
同月、東郷外相から木戸幸一内大臣に「厳秘・時局収拾に関する意見書」なる意見書(加瀬の早期終戦を求めた天皇への心の底からの叫び声)が手渡され、木戸は天皇に奉呈。
天皇は翌日の御前会議の席上で、速やかに戦争終結案を求めた。加瀬は無条件降伏かそれに近い条件しかないと考えていた。東郷は最高戦争指導会議で、同様の条件でソ連の態度を伺い、速やかに終戦に導く旨合意を取り付けた。
7月、天皇は鈴木首相に、親書を特使に持たせてソ連に派遣するよう指示。結局近衛文麿を特使に決定、彼は加瀬を訪ね、親書の草稿とソ連への同行を依頼。
特使・近衛文麿は東郷外相を無視して直接天皇から指示を受けることで天皇の承諾を得ていたが、佐藤大使を通じてモロトフに会うことはできなかった。
佐藤尚武大使はソ連のやり口を知っていたので、ソ連に頼まず直接米英に無条件降伏するしかないと判断していた。それは正論だが軍がそれを許さないことをわかってくれなかった。
7月ポツダム宣言発出。日本政府としてはソ連に依頼した仲介の結果待ちで、静観することにしたのに、鈴木首相が「黙殺する」と発言してしまう。そのためアメリカの原爆投下やソ連の対日参戦の口実を与えてしまう。
佐藤大使はソ連政府に繰り返し斡旋を依頼し続けたが、なかなか回答が得られない中、やっと来た回答は、「日本皇帝のメッセ-ジは具体的提議がなく、特派使節近衛公爵についても回答をなすことは不可能」との内容。「日本皇帝のメッセージ」とは何か謎のまま。
佐藤はモロトフに直接会談を申し込むと、モロトフは宣戦布告を通告してきた。
加瀬は直ちに上記天皇親書の原稿を軍部に察知される前に焼却した。
長崎に二発目の原爆が投下された夜11時半、御前会議で、ポツダム宣言受諾派の東郷外相、米内海相、平沼枢密院議長対本土決戦派の阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3対3となり、議長役の鈴木総理が「陛下の思し召しをもって会議の決定にしたい」と発言、天皇の鶴の一声でポツダム宣言受諾が決まった。
天皇の国家統治の大権を変更しないという諒解のもとにポツダム宣言受諾文を起草、発信。
連合国の回答をめぐってまたも大西海軍中将や東条大将ほかによる悶着が起きたが、天皇の声涙ともに下る聖断により決着。
第七章 ミズーリ号の残照
8/15の玉音放送のあと、各地で大なり小なり反乱があった。
鈴木内閣は総辞職し、東久邇宮稔彦が組閣、外相は重光葵、加瀬は留任。
8/30マッカーサー来日。
9/2降伏使節団ミズーリ号へ。マッカーサーの「勝者、敗者を問わず、人類のより高い威厳に到達することを祈る、云々」という演説を聞いて、加瀬は驚愕し、全身が震えるような感動に襲われた。
降伏調印式終了後、加瀬は国会議事堂で報告しその名演説に万雷の拍手。一方マッカーサーは「通貨は米軍票にし、裁判は米軍の軍事法廷でおこなう」と通告してきた。重光は日本の官僚制度は明治以来日本の行政をリードしてきた実績があり、彼らに任せたほうが占領行政も効率よく進む、と理路整然と強談判し、撤回させた。
9月、外相が辞任(マッカーサーに煙たがられたため)、吉田が後任。東久邇宮内閣は総辞職、幣原喜重郎内閣が成立。翌年吉田は首相に。加瀬は内閣情報局廃止に伴い失職(外務省の同僚たちの嫉妬や戦争遂行に協力したなどという誹謗中傷に吉田が惑わされたため)。すると日本経済新聞が客員として招くなど、あちこちから引き合いが出てきた。
松岡洋右、重光葵(ソ連の横ヤリ)、東郷茂徳が次々とA級戦犯として巣鴨プリズンに収容された。(松岡は裁判開始後まもなく病死、重光は禁固7年の判決を受け、50年暮れに仮釈放、東郷は禁固20年の判決を受け、服役中の1950年7月に病死)
加瀬は新聞・雑誌に手記を書きまくった。さらに大著『ミズーリ号への道程』を英文で執筆、エール大学出版部から刊行されると、米マスコミ界で大反響がわき起った。日本でもオックスフォード大学で学んだ妻・寿満子の翻訳で出版された。
1954年、鳩山一郎内閣で、重光が副総理兼外相となり、加瀬に外務省参与、次いで特命全権国連大使に任命。
加瀬夫妻は大使公邸で結婚前のグレース・ケリーと親しく付き合う。英明はエール大学に入学、長女・礼子はバーナードカレッジを首席で卒業。
加瀬の任務は日本の国連加盟を早期に達成すること。これを1956年に達成した。
著者:ふくいゆうぞう
東京国際大学教授。
1953年7月、鳥取県倉吉市生まれ。
東京大学法学部卒。
専攻は国際政治学、日本近現代史。
著書多数。
-------P戸松兄感想 2020.4.18(土) 11'30"---------------
本著を購入して読むだけの元気が僕にはないので、藤田兄の要約文をじっくり読ませてもらいました。非常によくまとまっているようで、加瀬俊一氏が活躍した時代の世界情勢を短時間で把握でき、世界史勉強の復習になりまりました。藤田兄の努力及びこれをネットで流してくれた管理人に感謝します。有難う。戸松