明治・大正期における霊魂論の諸相について
水谷 香奈 客員研究員
水谷 香奈 客員研究員
霊魂や死後世界に関する言説を、合理性・科学性が重視されるようになった近代においてどのように受容するかは、日本仏教においても重要なテーマである。その解明の一端として、本発表では新仏教徒同志会が編集した『来世之有無』に収載されている仏教学者の見解をいくつか確認した上で、井上円了(1858-1919年)の霊魂論の変遷とその背景、その後の展開・影響などを考察し、最後に下村孝太郎(1863-1937年)の霊魂観との対比を試みた。
『来世之有無』とは、当時の名士に「未来世界の有無」等について回答を求め、編集して1905年に刊行したものである。後に別の回答者を選んで同じ質問を行い、前者と合して1913年に改めて同タイトルで刊行された。仏教学者の回答は前者に比較的多く収められているが、前田慧雲(1857-1930年)が「拙者は来世は可有之と存居り候」と肯定的であるのに対して、村上専精(1858-1929年)は「畢竟輪廻は吾人迷情の上にこそあれ、真理の上にはない」と述べるなど、見解は一様ではない。
ところで回答者の一人である井上円了は『霊魂不滅論』(1899年)を執筆し、我々の生と死は宇宙を存在せしめている一大精神(活物霊体=真如)の一部が活性化・沈静化することであり、肉体の死後も霊魂は消滅しないと主張した。円了は「人間の死は真の死にあらず」とわかるや、数十年来の苦しみがスッと晴れたという自身の体験を述べ、霊魂不滅論は不幸多苦の人にとって「悲風苦雨の暗夜を照らす灯台」であると、その有益性を強調している。しかし、『来世之有無』で円了は〔大〕我(霊魂)と他生(来世)は肯定するものの、詳細かつ論理的に返答することは困難であると答えている。哲学館事件(1902年)以降の精神的疲労の悪化がその背景にあるが、苦難の際の「灯台」であるべき霊魂不滅論が、彼自身の苦悩を和らげる一助となり得たのかという内面化の点においては、疑問が残る回答である。
一方、円了とほぼ同時期に活動し、同志社大学の第6代社長(総長)も務めた下村孝太郎も、化学者でありながら『霊魂不滅観』(1922年。以後2度改版)を残している。彼は仏教やキリスト教への理解も有しつつ心霊主義の影響も受け、様々な宗教思想を比較して独自の視点から霊魂観や人生の意義を語っている。下村は「人間の苦痛は人間の品格養成の要道なり」として、自身の失明という苦境も人格の向上に役立つと受け止めているほか、霊魂の転遷(生まれ変わり)は民族の枠を超えると述べ、国際的な感覚で宗教思想をとらえていた。宗教・哲学の普遍性に若くして着目していた円了が晩年、具体的な道徳実践を重んじる中で教育勅語や日本の植民地政策に賛同する一面を見せていたことを考えると、両者はある意味で対照的であり、円了における霊魂論の内面化を今後さらに検討することは、円了の思想的課題を明らかにする上でも重要ではないかと思われる。