先代猩々軕の見送り幕

戦前の軕を知ることができる写真は、そのほとんどが軕を正面、或いは斜めから撮ったもので、後ろから撮ったものは極めて少ない。

そのため、猩々軕再建に当たっても、後軕や見送り幕は先代の軕を知る人の記憶に頼って復元せざるをえなかった。

猩々軕の見送りは「白澤避怪圖(白澤怪を避くる圖)」で、現在は平成13年に軕と共に復元された左下図のものを使っている。

上部は揖斐川町の書家・窪田華堂氏の筆による五言絶句を、下部は郷土の画家・和田能玉氏の描く白沢を手刺繍したものである。

これもまた立派なものであるが、先代との相違点は多いようだ。

「大垣城隍祭史」(明治8年)に載っている、齋藤百竹による記述によれば、

見送り幕は、黄羅紗に白沢を描き、漢詩(文は現用のものと同じ)を小篆で書き、その上に「五言古風短篇」と題を付したものだったようだ。

私はそこで、先代の見送りがどのようなものであったかを知るべく、僅かにある資料をもとに、コンピュータで再現してみることにした。

まず、元にした資料を挙げる(以下2枚)。

左は戸田公入場300年祭(昭和9年)での巡行の写真から猩々軕の部分のみを拡大したもの。(※ページ最下部に全体のものを示す。)

右は昭和15年撮影の猩々軕の後軕。


以上の記述や資料から、先代の以下の様であったと推測される。

但し、白沢は資料が少なく、体の模様や表情や色は再現不可能であったため、シルエットのみとした。

(追記)

2014年の本楽において、宮町の古老にお話を伺ったところ、

見送り幕の漢文は楷書体で、文字や白沢の色は白色だったとの発言が得られた。

なお、白澤の様相は、犬山祭の眞先の水引に描かれた白澤に似ていた(但し、威光を示す赤色の刺繍はなかった)とのこと。

漢文の書体については、上記の小篆であるとした記述と異なるが、

この古老が覚えていらっしゃる昭和初期の見送り幕と、齋藤百竹が記述したときの見送り幕とでは、

その間に新調されるなどして、違うものであった可能性がある。

この古老の記憶に基づく、昭和初期の見送り幕を以下に再現する。

戸田公入場300年祭(昭和9年4月7・8日)の写真

「八幡社頭の山車」という題が付いているので、写真右端に写る森が八幡神社と思われる。恵比須軕が宮町に当っているため、猩々軕の前に恵比須軕があるが、玉の井軕→松竹軕→愛宕軕→猩々軕という並びから、これは行列の最後尾を写したものだろう。なお、本来市軕に次いで二番目に列すべき相生軕が最後尾にあるのは、前年に番町を務めた町の軕は最後尾に置くという、当時の決まりのためと思われる。明治五年以降軕の順序は先着順となっていたが、この昭和9年は戸田公入場300年祭のため特別に4月に祭礼を行っており、そのために、軕の順序も古来のものに倣ったのだろう。

青山松任『大垣まつり』(昭和9年)より。左から相生軕、猩々軕、恵比須軕、愛宕軕、松竹軕、玉の井軕と見られる。)

先に挙げた写真のほかに、の写真がある。

拙宅の物置から出てきたもので、鉢巻姿で写るのは筆者の曽祖父(明治38年(1903)生)である。

裏面には曽祖父の字で「後軕シタン材に作られて居るのが寫眞に表現す」「小生若かりし時の寫眞(ハチマキ姿)」と書かれている。