Q大津寄雄祐他:渡邉静雄君を追悼して
2020.2.8~

邊静雄君急逝の報に接し在京6人が如水会館に集まりました。

その際、何か小平時代の「赤とんぼ」のような自由題の文を書いて、追悼の意を顕そうという話がまとまり、如水会報に載せました。

寄稿トップバッターは関西の羽島賢一君です。題は「名簿と趣味」早速どうぞ。

(森 正之2019.12.25)

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名簿と趣味

羽島 賢一2020.2.12

名簿というものは、組織集団のアイデンティティの根幹をなすものと考えている。しかし、近時、行きすぎた個人情報保護の動きを反映して、名簿が作られることは極めて稀である。大学同期会の名簿も、U市畑進君はじめクラス世話人達の労作である卒業45周年記念同期会名簿が最後となっている。

この種の名簿の趣味欄は、私にとって新しい発見をもたらしてくれる楽しい場所だ。学生時代から半世紀近く続いている趣味を持つ友がいる。「あいつこんなことをやってんのか」と吃驚させるようなことを趣味にしている友もいる。会社勤めの必要から断り切れず身につけたものが、今や趣味の域に達してしまっただろう人もいる。人様々だ。

45周年名簿では、私は、「モノクロ写真」「酒」「読書」とした。ある時期「ゴルフ」「麻雀」と、いかにもサラリーマン然とした趣味におぼれたことがあった。また、今、思い出すと若気の至りだが「家内」と書いたこともあった。その妻は今や趣味を超えて、空気とでも言うべきものになってしまった。

写真や読書は珍しくないが、「酒」を趣味として公言している友は少ない。今回の名簿で見る限り、R川上武男君の「日本酒探究」が見当たるだけである。「日本酒」というのもまた良い。加えて「探究」という語に彼の意図と意気込みが読み取れる。「探求」の域に留まっている私より、かなり高級なようだ。同君は40周年名簿でも同じように記していた。手元にないが記憶によれば、35周年の名簿ではT山下二朗君が「酒」と書いていた。

監査役懇話会(ミミの会)の発足当時、三菱代表の彼と住友代表の私は、このことを話題にして楽しく飲んだこともあった。ミミの会はQ坂本幸雄・R上原利夫・T橋本卓爾、M原治平の諸兄と始めたものであるが、後輩たちの頑張りでその後順調にまた格調高く発展し、既に300回を超える例会を重ねている。嬉しい限りだ。

酒を趣味とする私にとって、最近、酒がそれほど美味いと思えない日が稀に訪れる。些細なこととして、あまり気にしないようにしていたが、山口瞳のエッセイを再読していて、頭を抱えこんでしまった。

『酒がまずくなる年齢というものがあるそうだ。それが、一つの人生の曲り角であるという。(中略)ある人は女色にふけり、賭博に走り、あるいは会社の金を使い込み、時には急に政治家になろうとして立候補したりする。こうなると酒の美味いまずいは大問題である。』個々に列挙されている以外にも様々な出来事が目に浮かぶ。恐ろしいことだ。

幸いなことに、(中略)の部分に『40歳前後のことであるらしい。』という一行を見出し、ほっと胸をなでおろした。山口瞳が記している事象に無縁の私にとって、酒が旨いかどうかは、私の体調バロメーターとなっている。ところが最近バロメーターが外圧を受けて狂いだした。心地よく飲んでいる最中に、掛かり付けの女医の顔が突然浮かぶのだ。この先生は、私にしきりにセッシュを勧めるのだ。日頃私はこれを摂酒と理解しているのだが、時々、節酒という嫌な言葉が出現する。そこからバロメーターいやベロメーターが狂いだす。

でも、世の中には不思議な人もいるものだ。35周年の名簿には「焚き火」と書いた友がいた、燃料の調達はどうしているのだろうか、暑い夏場はどうしているのだろうか、病が昂じて周りを焼き尽くす究極の焚き火に至ってしまったらどうなるのだろうかと思わず考えてしまった。40周年の名簿で「病気」というのを発見して、深刻な事態と考えるべきか、ゆとりや達観と見るべきなのか、気になってしまった。幸いに、この度の名簿では消えていた。病気を無事卒業したのはS近藤健君である。

趣味欄に記載のない人が意外に多い、サラリーマン現役時代には、なかなかそこまで手が回らないからだろうか。老後の楽しみに残しているのだろうか?

珍しい趣味を持つ人もいる。エアロビックス・唱歌・陶磁器鑑賞・森林浴・考古学・天文学・ディベィティング・バイオリン造り・射撃・道元・鉱物標本採集などである。天文学を挙げているのは、日蝕の度に、世界各地に観測に出かけた故Q木村英三郎君である。

もし、卒業65周年名簿が作成されるならば、趣味として何を挙げるだろうか?

私は「適量の酒」「写真」に加え「愛妻」を復活させたい。読書は好きだが、小説などは登場人物を失念するし、すぐ眠くなるから、今回はお引き取り頂いた。「適量」は伸縮自在で、その場の雰囲気次第である。写真はデジタル時代になり、銀塩時代の暗室作業が省略でき、体力の衰えた老人でも続けられる、有難いことだ。

最後の名簿以来20年、80歳を超えた同期の仲間たちは、今、何を趣味にしているのだろうか。



--------------------------- 誰が私をドイツ語に追い込んだのか? 渡邉静雄 2018.1.4-----------------------

受験勉強という長いトンネルを、ようやく抜けて目指していた一橋大学に入学できた昭和二十九年の明るい春を迎えた気分は、実に爽快であった。これから、どんな大学生活が始まるのか、大いなる期待と若干の不安が、入り混じっていた。

こうして、初めて出会う仲間の、Q組での授業が始まった。難関を突破してきた連中は、いずれも「出来そうな面構え」をしており、ストレスを感じさせる。

このような気分の中で始まった、Q組での英語の授業でのことだった。

教授が名簿を見て指名し、指名された学生が読んで訳すという、高校時代の授業方法と変わらないものだった。但し、変わっていたのは、指名された学生の方である。その時初めに指名されたのは葛巻照雄君(国際部に所属、卒業後は東銀に入社。ロスアンゼルスを始めアメリカで活躍。残念ながら、今は故人となってしまった)であった。

立上って、読み始めた彼の発音は、まさに、ホンチャンのそれであった。私も英語には自信を持っていたが、こんな凄い発音を聴いたことは、両国高校時代には無かったことだ。

やはり、一橋の英語は、レベルが違う。このような連中ばかりでは、英語に於いて、とても、梲(うだつ)があがらないと悟った。

そこで、目を付けたのは、全員横一線でスタートした第二外国語のドイツ語だ。よし、ドイツ語で勝負だと心に決めた。夢中になって勉強した。そして二年生になった時に、無謀にも、ドイツ語のゼミを選択した。ゼミの先生は、グリム童話集等の翻訳で知られる植田敏郎教授であった。

いざ、ゼミに入って、使用するテキストが、ニーチェの〝ALSO SPRACH ZARATHUSTRA(ツアラツストラはかく語りき)〟と知った時は、しまったと思った。日本語で読んでも難解な文章を、ましてや、語彙力の極めて乏しい二年生になりたての私が読むのは、難行苦行の連続であった。

毎日、何時間もかけて、辞書と首っ引きでやったことが、ゼミの一時間半程の間に、軽く進んで行ってしまう。こうなると、意地になってやるしかない

その一年間を何とかやり抜いた。この間、友人の多くは、何人かのグループで、「アダムスミス」や「ケインズ」を輪読会などで勉強していた時に、私は、ドイツ語と格闘中だったのだ。

このようにして勉強したドイツ語であったが、後年(卒業後四十年以上経って)ヨーロッパに旅行した折、ドイツ人のグループに出会った。チャンスとばかり、錆付いたドイツ語で、話し掛けたところ通じたので、嬉しく思う間もなく、ペラペラと応答されてしまった。残念ながら、全く分らなくて、唯々「イヒ・バイス・ニヒト」と、言って退散するしかなかった。

ああ、あの前期二年間の努力は、何だったのだろう?

世の中には、報われないことが、多いのだと、自らを慰め、人生には、無駄が多いものだ(いや、本人は決して、無駄だったとは思っていないが・・・)

葛巻君が「僕のせいではないよ!〝I Don't Know.〟」と天国で、笑っていることだろう。

ダンケ・シェーン、マイン・フロイント(完)



森正之2020.2.8

渡邉静雄君は2019年11月に急逝されました。

我々は、2020.3月末で全員84歳以上になる。「早世」と言われる齢ではないが、彼の笑顔しか思い浮かばぬ身としては、何でこんなに早く!と地団駄踏む。

彼が日清紡名古屋支店長時代、名古屋で一度会った。

小平時代のドイツ語の取組みをみても、疑いなく名支店長であったろう。

謙虚で、見識高く、読書家。大津寄君が大変頼りにしたクラスメートだった。

電話で病院通いの話もされていたが、常にQクラスを想う人でありました。

Qクラス会では毎回オオトリの重責を担い、ユーモラスな芸で爆笑お開きの場面を創って下さいました。

永遠の友よ本当に本当に有難うございました。大感謝!

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大津寄雄祐 2020.2.8

(文集:時代の風景~郷愁の旅 第四集15-頁より)

Q高橋 正:渡邉静雄君を偲ぶ 2020.2.20

渡邉静雄君を偲ぶ

渡邉静雄君 ご逝去の知らせを受け「機会を作って一杯やろう」という約束も遂に果せなくなって終ったと寂しい思いを強くした。

彼とQ組で在学中一番の思い出は、前期で体育の単位取得に新潟県妙高の一橋大学山荘で催されるスキー講習会を受けることで、体育の単位が貰える制度に彼と一緒に参加し、約一週間昼はスキーを楽しみ夜は炬燵に暖まり乍ら色々話をする機会を得たことだった。

然し更に強烈な思い出は、卒業後偶然に出会った時のこと而も結果的にはこれが彼に会った最後の機会となって終った事である。

それは今から約六十年位前のこと当時僕は日綿実業に入社し大阪本社綿花部に勤務していたが、或る日「今度日清紡績さんと親善野球試合をすることになったので一番若い君をピッチャーに予定しているから」と言われて ビックリ。日清紡績さんといえば我が綿花部が扱っている輸入原綿の販売先でありかりそめにも粗相などあってはならぬ筈なのに、一番若いからという単純な理由でピッチャーにとは理不尽な話とは思いつつも覚悟を決めるより他には仕方が無かった。

かくして当日早朝集合場所に集まったものの本格的野球場の広さにビックリ すっかり舞い上がって終い試合前のウオームアップにしても何をしているのやら覚束ない有様だった。

その時

「やあ高橋君 久し振り」の声

何と渡邉君がニコニコ微笑み乍ら手を挙げているではないか。在学中に僕が多少なりともスキーをコーチしたことがある級友の出現に嬉しくなり少々落ち着いた気分になり得たものだった。

その後慌ただしく試合が始められ間もなく渡邉君に打順が巡り僕は打席に立つ彼と相対することとなった。僕は格好良い所を見せるのはこの時とばかり一生懸命投球した(積りであった)が何球目かのボールを彼はいとも簡単にレフト前にヒットを打って終った(残念)。然し渡邉君に2回目の打順が廻って来た時に今度は強烈な当たりを喰いレフトセンター間を大きく破られて終った。僕はボールの行方を眺めている丈であった。次に3回目の打順が渡邉君に廻って来た時にピッチャーズマウントに僕の姿は無かった。試合のその後は乱打戦模様となったが、その結果はさて置き試合終了後、久し振りで会えて良かったという満足感をもって「今度チャンスを作って一杯やろうじゃないか」と約束をして固く握手をして別れた。

にも拘わらずこの時の別れが最後になるとは全く夢想だにしなかった。

再会の約束にも拘らず約1年後パキスタン駐在を命じられ赴任 一年余りの後病を得て帰国 半年余りの入院生活の後綿花部へ復帰したものの今度は実家が失火に依り全焼、家業継続がピンチとなり親父の要請に依り新潟で家業を継ぐことになって終った。

爾後 妻共々新潟に移り住み五十年余り新潟生活を続けている訳であるが 僕にとって渡邉君の面影は若い時そのままで今も全く変わることなく僕の胸中に残っているのである。

「機会を作って一杯やろう」の約束を果す事叶ず 此の度の訃報に接することになり、眞に残念。 今は只々渡邉静雄君の冥福を祈るのみである。

合掌

高橋 正