Q坂本幸雄:あるボケ老人のたわごと 2019.5.236.10

【一部追加改訂版】


*あるボケ老人のたわごと一*【一部追加改訂版】

「最近些か感動したこと」(ある高齢者異業種交流会での出席者各自近況報告でのスピーチ)

・私の近況報告でございますが、今日は、私が最近些か感動したことについて、お話させていただきます。

まぁ、皆さまには、「あるボケ老人のたわごと」として軽く聴き流していただければ、幸甚に存じます。

・この5月の10連休中に、堺市駅近くの堺市文化会館で開催されていた「ミッシヤ展」を見に行きました。

アルフオンス・ミッシャといえば、皆さんもよくご存知の19世紀末のオーストリー・ハンガリー帝国のアールヌーボー美術を彩る代表的画家でありますので、その数々の名画にも感動したのでありますが、当日図らずも、もう一つの感動をも体験したのであります。

・皆さん、堺市といえば、歴史上2人の有名な人物を輩出していますね。

そうです。千の利久と与謝野晶子です。

堺市には、その堺市出身の著名な二人の名前から一字ずつ、即ち、利久の「利」と、晶子の「晶」という字を取った「利晶の杜」という記念館があり、そこには、この二人の偉業を讃える様々な資料が展示されております。

・私は、それらの資料の中から、皆さんもよくご存知の与謝野晶子のあの有名な「君死にたまふことなかれ」という詩の載った本を見つけ、その詩の全文をそこで読んで、改めて、いろんな意味でその詩の素晴らしさに感動したのであります。

その詩の全文は次の通りであります。

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・あゝおとうとよ、君を泣く、

君死にたもうことなかれ、

末に生まれし君なれば、

親のなさけはまさりしも

親は刃をにぎらせて

人を殺せと教えしや、

人を殺して死ねやとて

二十四までそだてしや。

境の街のあきびとの

旧家をほこるあるじにて

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたもふことなかれ、

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとても 何事ぞ、

君はしらじな、あきびとの

家のおきてになかりけり。

君死にたまふ ことなかれ

すめらみことは 戦ひに

なおみずからは 出でませぬ

かたみに 人の血を流し

獣の道に 死ねよとは

死ぬるを 人のほまれとは

大みごころの 深ければ

もとよりいかに 思(おぼ)されぬ

あぁ おとふとよ 君を泣く 君死にたまふ ことなかれ

*君死にたまふ ことなかれ

(まだ続くが以下割愛)

・この詩が雑誌「明星」に発表されたのは、明治37年(1904年)ですが、この年は日露戦争が勃発し、日露であの激しい旅順攻防戦が繰り広げられた年であります。そんな時代背景の中で、「旅順の城は滅ぶとも、ほろびずとても何事ぞ」と謳っているのです。

当時としては、すごい厭戦思想ですね。

・また「すめらみことは 戦ひに なお自らは いでまさぬ

かたみに 人の血を流し 獣(けもの)の道に 死ねよ とは」と謳っていますが、これは「天皇陛下は 自らは戦いに出ずに、臣民には、戦いで血を流せ」と思っておられるのだよ、と弟に諭しているのであります。

これまた、当時の天皇至高主義への強烈な抵抗思想でもあることに、私は、与謝野晶子の、自分の思いに対しては何物をも恐れぬ強さに、一層の感銘を感じ、更なる感動を覚えたのであります。

・余談ながら、当時の女流作家には、樋口一葉がおります。その樋口一葉の女流作家としての後世の評価の一つとしては、平成16年に発行された五千円の肖像があります。

が、与謝野晶子には、そのような明確な国家的評価は何もないのであります。

このことについてネットであれこれ検索してみますと、これは、晶子が生前に行った数々の国家権力への反抗や厭戦思想が、平成の御代になっても、日本の官僚組織体制が伝統とする、前例踏襲主義志向から忌避されたからではなかろうかと、私には思われるのであります。

・なお、余談のついでに、もう一つ余談を述べますと、与謝野晶子には、かなりの女たらしでもあったらしい夫与謝野鉄幹との間に、11人もの子供がおり、かつその多くの子供たちを立派に育てあげているのであります。

これらのことからも、与謝野晶子に対して、私は、ますますすごい女性だなぁ、という感慨を抱いたのであります。

そんな彼女の子孫の一人に、かって自民党の内閣官房長官などを歴任された、与謝野馨氏がおられますが、その馨氏は、まさしく与謝野晶子の孫にあたられるのであります。

・ところで今年5の月に、私の故郷の鹿児島に遊びで帰省した際に霧島の「硫黄谷温泉というホテルに一泊しました。

そのホテルには、昭和4年に、当時既に著名人であった与謝野鉄幹・晶子ご夫妻が宿泊されたのだそうでありますが、そのことを記念して当ホテルの男風呂には、なんと「与謝野鉄幹風呂」と銘打った個室の風呂がありました。

その上、その風呂の壁面には、鉄幹の「大いなる 霧島山の抱く空に のこりて白しあけぼの雲」という句が書かれていました。そんな体験から、時代こそ明治と令和という、約90年の時間の隔たりはあるものの、小生は与謝野鉄幹と同じ湯船に浸かったんだなぁ!という実感から、全く一方的な情感ながらも、鉄幹先生に対して温泉のお湯の温もりとともに、なんとなく心温まるような親しみを抱いたのであります。

なお、家内に確かめたところ、女性風呂にも「与謝野晶子風呂」があるとのことでありました。おそらくそこにも、鉄幹風呂と同じく、晶子女史の名句が書かれているのでありましょう。

以上、とりとめもない話しで失礼いたしました。(終わり)

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坂本幸雄:qskmt33@spice.ocn.ne.jp

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与謝野晶子wikiより


Q坂本幸雄:あるボケ老人のたわごと 2019.5.23-6.10
【一部追加改訂版】