歳末にもう一言
P大島昌二:2021.12.31 Home

以下は森下一義さんの直近の2信に反応したコメントです。博識にして勝負師でもあるらしい森下さんには「王手は日野の万願寺」についても一言ほしいところであった。森正之さん年末のお忙しいところ申し訳ありません。

日本の国鳥は雉(キジ)であることを思い出しました。(日本の独立種ではなくコウライキジの亜種とする説もあります。)私の第二、いや実質的には第一の故郷である福島県の矢吹町にはかつて皇室のキジの猟場があり大量に殺戮したキジの霊魂を慰めるための雉塚があります。塚の字は土偏のない古い文字です。(写真を写しているのですが今お目にかけられません。いずれ補充したいと思います。)天皇は来られなかったが華族、貴顕紳士が多数来町し旅館や旧家には彼ら上級国民の書いた色紙が多数残っているということです。そのために白河藩の小さな宿場町でありながら東北本線の駅は早々とできました。町史に掲載されている多数の獲物を前にした彼らの写真は私たち一家が疎開してその離れに寄寓した遠藤という農家が提供したものです。

キジは国鳥であるにもかかわらず今では絶滅危惧種に指定されている地域もあります。飛ぶのは苦手のようで藪の中をごそごそと動き回る音を聞いたことがあります。奥多摩丘陵の一隅にある立川国際CCで一度だけ、乾いた羽音を立ててキジがグリーンを低空で横切って行くのを見たことがあります。

お狩場は広大で近隣の鏡石村を含むものであったが、矢吹に関する限りではやがて飛行場になり(戦後最初のホームラン王になった大下弘選手はそこで特攻隊の訓練を受けた)、一部は満蒙開拓団の青年を養成する修練農場になり、われわれの新制中学校の校舎もそこに建てられた。今はその校舎もなくなり、その辺りはかつて交付された1億円を基金として大池公園として整備されている。

雉が雁になってしまうが鳥だから飛躍しても良いだろう。もう一つ思い浮かんだことがあった。大逆事件の秘密裁判で有罪とされ、そのわずか6日後(明治44年1月25日)に死刑を執行された幸徳秋水の感慨である。私は多くの詩歌を読んだがこのように身震いを誘う歌を読んだことはなかった。彼は冤罪で命を奪われる1年前に二見ヶ浦を訪れていたという。

さながらに猟矢(さつや)遁れし雁ひとつ二見ヶ浦にわれおちてこし

森下さんが秩父宮ラグビー場でトライを果たした話は以前に黒潮丸通信で承知していましたがこのラグビー場がたとえば高校球児にとっての甲子園に相当するものであるとまでは思わずに読んでいた。今回東大京大戦がただの定期戦でありながらそこで行われたことは一方が東大だからの特典であるらしい話が聞こえてきた。

秩父宮はスポーツの宮様ということで知られていた。山形の五色温泉に秩父宮がお成りになったことから命名された御成山スキー場がある。ロープトウが一基しかない小さなスキー場だったが、かつては新聞のスキー場の積雪案内に必ず出ていた。私は一人でスキーを

担いで最寄りの奥羽本線の峠駅に降りたことがあった。駅で道順を聞くとそこへは一山越えなければ行けないという。「あれっ!」と思ったがたまたまそこにいた青年がそこへ行くところだからついて行けばよいといわれた。青年は私のスキー板も担いで無言のまま先に立って歩いた。彼はそこに一軒しかない旅館に出入りする人らしかった。大黒屋という一軒だけの旅館は今にして思えば風情があった。雪解け水が入るのか、ぬるい岩風呂に入っていると「こっちの方が温(ぬく)い」といいながらどやどやと数人が入ってきた。おばあちゃんではあっても女性たちである。多勢に無勢、逃げ出すしかなかった。

これは偶然か、昨日の新聞に伏見宮と出ているのを当初秩父宮と読み誤ってしまった。「まあ、いいや」、どちらも宮様である。昭和天皇の侍従長(1936~44)であった百武三郎の日記が東大に寄託されたという記事が出ていた。昭和天皇が長く海軍の軍令部総長を務めた伏見宮に強く影響されていたことは知られていた。その具体的な例がここに出ている。

「百武日記によると天皇は、十月九日に伏見宮から対米主戦論を説かれ『之なくば陸軍に反乱起らん』『人民は皆開戦を希望す』とまで言われた」。十月十三日の日記には松平恒雄宮内大臣が「切迫の時機に対し、己に覚悟あらせらるヽが如き御様子」と話し、木戸(幸一)がそうした「御先行」を「お引止め申し上げる旨」を話したと記録している。聖慮はここにあった。日本のメディアと知識人はこぞってこれを否定する。朝刊20頁目にこれを報道した東京新聞の見出しは「昭和天皇『開戦』揺れた秋」である。

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