コロナの季節の拾い読み
中国編(3)

P大島昌二:2020.10.7

コロナの季節の拾い読み 中国編(3)

 前回末尾で触れた遠藤誉はその名に反して女性の中国専門家である。国共内戦の重要戦略地点であった長春(日本名新京)包囲戦に巻き込まれて「チャーズ(関所)」と呼ばれる巾1キロほどの塀と鉄条網に囲まれた中立地帯に閉じ込められて想像を絶する地獄絵巻の体験をする。そこを脱出した時は8歳、新中国での教育を経て帰国したのは1953年、12歳の時だった。

 『チャーズ 出口なき大地』の短い書評(朝日84年8月13日)で見る副題はその後「中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女」、「中国建国の残り火」へと変化しているがこれらのいずれもが妥当する多面的な問題をはらんだ実録である。著者の肩書には「1941生れ。都立大学物理学博士課程中退、一橋大学物理研究室勤務、理学博士」と出ていたがその後筑波大学の教授を経て現在同大学の名誉教授である。「チャーズ」は漢字で山篇のない峠の上下の横線を一つにしたものである。初版は1984年。私が読んだのはその36年近く後、私がコロナの季節を意識する直前の今年2月だった。

 遠藤氏はその後幾つもの著書を出しているが私がここで持ち出すのは2015年11月発行の『毛沢東 日本軍と共謀した男』である。この副題は極めて刺激的であるが、日本軍との戦闘には国民党を前面に押し出してその消耗をはかり、その後に来るべき国共内戦で優位に立つという毛沢東の作戦を暴露するものである。そればかりではなく、毛沢東はそのために国民党の情報を進んで日本軍に売り渡した経緯も書かれている。『蒋介石秘録 日中関係80年の証言』(注1)には1932年6月「一・二八事変」(上海事変)の後に共産党の本拠地である江西一帯で発動された第4次掃共作戦を描写して次のように書かれている。

「内敵・共産軍の反乱と、外敵・日本軍の侵略とは、まるでしめしあわせたように、その歩調をそろえていた。すなわち、共産党の討伐に政府軍が出動すると、その手薄に乗じて日本軍が動き出す。日本軍対策に忙殺されているすきに、こんどは共産軍が跋扈する—―といったぐあいである。前年1931年の第三次掃共戦は、今一歩という段階まで追いつめながら、日本軍の起こした「九・一八事変」(満州事変)で中断せざるを得なかった。そのために九死に一生を得た共産軍は、一息入れることができて、再びよみがえったのである。ところがこの第四次掃共作戦も、またまた日本軍の妨害(熱河侵攻=1933年)によって、惜しくも中断のやむなきに至る。このようなパターンは、この後ずっと、第二次大戦後まで、繰り返された。」(下巻114~115ページ)

皇軍に感謝する毛沢東

毛沢東は戦後訪中した遠藤三郎元陸軍中将に会い「日本軍が中国に侵攻してきたことに感謝する」と述べたことは広く知られている。これがただの冗談でなくどれだけ真意が籠っていたものかは調べてみる必要がある。遠藤誉は狭山市博物館に保存されている遠藤三郎の手書きの日記をはじめ日本、中国の多くの記録によってこれを検証している。

 発端は1955年8月6日、原爆10周年記念日に開かれた世界平和会議の後で憲法擁護国民連合が主催した懇親会で、中国代表として出席した劉寧一と遠藤三郎の歓談である。劉寧一の報告に興味を持った中国の中華人民外交学会から憲法擁護国民連合あてに訪中の招待状が届き、香港経由(11月6日)で同年11月9日に北京に到着、各地を視察した後11月28日に毛沢東と会見した。毛沢東はまず「近く数次にわたり600名から700名の戦犯を釈放する予定だ」と説明した後で、戦犯を訪問した結果何か意見があれば聞きたいとの申し出があった。遠藤三郎のユーモラスな返答の後で毛は次のように述べた。

 「日本から中国の視察に来る人たちは中国に好意を持っている革新的な人たちが多い。今度は右翼の方々にも来ていただきたい。遠藤さんは軍人だから、この次は軍人を連れてきてほしい。」これが冗談でもお愛想でもなかったのは空港まで見送りに来た廖承志(日本語に達者な日本通で後のLT貿易のL)が周恩来からの伝言としてこの要請を繰り返したことでわかった。

 この招請に応じて遠藤が元軍人15人と中国を再訪した際に毛は代表団の一人一人と握手をして開口一番「日本の軍閥がわれわれ中国に侵攻してきたことに感謝する。さもなかったらわれわれは今まだ北京に到達していませんよ」と述べた。「あなたたちはわれわれの先生です。われわれはあなたたちに感謝しなければなりません。まさにあなたたちがこの戦争を起こしたからこそ、中国人民を教育することができ、まるで砂のように散らばっていた中国人民を教育することができたのです。」毛は往年の日本軍との協力関係を思い出さずにいられなかったのだろうか。

 同じような言葉は黒田寿男、南郷三郎、佐々木更三などにも述べている。佐々木が謝罪を続けるのにたいして毛は長征時代の苦衷に触れて次のように言っている。 

 「残った軍隊はどれだけだったでしょうか?30万から2万5,000人に減ってしまいました。われわれは、なぜ、日本の皇軍に感謝しなければならないのか。それは、日本の皇軍がやってきて、われわれが日本の皇軍と戦ったので、やっとまた蒋介石と合作するようになったからです。2万5000の軍隊は、8年闘って、120万の軍隊となり、人口1億の根拠地を持つようになりました。(日本の皇軍に)感謝しなくてよいと思いますか?」

西安事件(西安事変)

 毛の日本軍に対する考えをこれ以上繰り返す必要はないだろう。遠藤の著書のテーマは毛沢東の権謀術数ぶりであるが、西安事件(1936年12月12日)をめぐってもそれが見られる。蒋介石の中国統一のスローガンは「攘外先安内」(国内を安定させてから外敵を払う)というものであったが、陝西省で紅軍を追い詰めていた張学良は「中国人不打中国人」という毛のスローガンに同調して蒋介石を監禁して「国共合作」、「抗日救国」を実現させた。この政策変更の背後には「抗日反帝國主義統一戦線」を標榜するコミンテルンがおり、蒋は中共が天下を取れば中華民族はソ連の属国になるだけだと激怒した。コミンテルンの差し金には蒋ばかりでなく毛も激怒した。西安事件は中国では西安事変と呼ばれる。軍の介入があり、中国の内戦及び抗日戦に大きな影響を残していたことを産経新聞社編纂の『蒋介石秘録 日中関係八十年の証言』によって見ておくことにする。

 蒋介石の傘下にあって共産軍の掃討に当たっていた張学良は「掃共」と「抗日」の矛盾に悩むようになった。共産勢力との戦闘で打撃を受けた麾下の東北軍に瀰漫する厭戦気分も無視できなかった。他方、「東征抗日」を宣言し、自ら軍を率い、山西省に侵入した毛は、張学良、楊虎城軍の後方からの支援を受けた閻錫山軍の迎撃を受けて3,000余人の死者を出して陝西省へ撤退した。

この「東征」で痛手をこうむった毛沢東らが策したのが「反蒋」から「連蒋」への転換である」その狙いは「抗日」や「救国」を掲げた「中立民衆団体」を編成して味方につけることであった。「朱毛(朱徳・毛沢東)の匪軍は国民革命軍の掃共によって、最後はただの小部隊となって逃亡した。彼らは軍事では絶体絶命に追い込まれたので『国共合作、抗日救国』のスローガンに名を借りて、政治的に包囲を免れよとしたのである。」(「中国の中のソ連」蒋自述1956.12)  

 このような状況下で張学良の激励のために西安をおとずれた蒋介石は張に監禁される。張はあくまでも辞を低くして蒋に合作を求めるが蒋はがえんじず逃亡を図るが東北軍に捕らえられる。この間にも国民党軍は東北軍の空爆を始める。結局、蒋の命を救ったのはスターリンであった。スターリンは14日午後、中国共産党に指令を発した。「連蒋抗日政策をとり、10日以内に蒋介石を釈放せよ。」これまでの説明ではスターリンは登場せず、西安を訪れた周恩来が張に釈放を命じたことになっていた。エドガー・スノウは宗慶齢(孫文夫人蒋夫人、宗美齢の妹)の話としてスターリンの電報に接した時の毛の様子を「彼は真っ赤になり、悪態をつき、足を踏み鳴らして怒った」と紹介している。

 西安事変によって、タナボタ式に最大の利益を受けたのは共産党である。事変発生当時、共産党は延安東方70キロの保安など、山間の四つの県を占拠するに過ぎなかったが、張学良の東北軍が、政府軍の攻撃に備えて南下した後を引きつぎ、一挙に支配地域を4倍に拡大した。その中には陝北の要地、延安が含まれる。「毛沢らは事変中の12月20日ごろ延安に進出、以来、延安は戦中、戦後を通じて国民政府転覆を策謀する根拠地となった。」

 西安事変が日中関係に及ぼした影響も大きかった。日本は事変の経過から、国民政府の抗日政策は、一段と強化されるに違いないと読み、華北侵略のテンポを速めた。日本は事変の直前、ソ連を仮想敵国とした日独防共協定を結びソ連封じ込め路線を固めつつあった。これで日本は、ソ連に気がねなく華北に手を出すことができるようになった。事変の7か月後、盧溝橋事件が起きた。西安事変は日本の中国侵略を本格化する結果を生んだのであった。


蒋介石の実像?

遠藤誉の『毛沢東 日本軍と共謀した男』には、親日政権を建てたことによって中国にとっての裏切り者として歴史に残る汪兆銘(汪精衛)のほか、党内の親ソ派実力者の王明、さらには知り過ぎていた男として共産党史から抹殺された藩漢年についての妥当と思われる評価が興味を引く。幹部のほとんどが実は中共地下党員か中共のスパイだった日本の「岩井公館」の役割にも謎が残る。しかし、最も論争を呼び、かつ詮議に値するのは蒋介石の評価であろう。

遠藤の著書は材料が豊富である一方でページ数が少ないために(新書版で285頁)混乱させられるが筋道は一貫している。これまでの通説を覆す必要から、さらには事実を裏付けようとする意欲が強いあまりに、材料が次々と出される。そこでここでは汪兆銘、王明、藩漢年などについての評論は割愛して、遠藤誉の描く蒋介石の人物像を紹介しておきたい。

おそらく歪められたままの中国革命史が、反論のないままに、多くの人に信じ込ませてきたのは「偉大なる指導者」として神格化された毛沢東の人間像であろう。毛沢東を「日本軍と共謀した男」としてクロースアップさせた遠藤誉もかつては毛の神格を信じた一人であった。彼女は長春を出る前にロシア軍人による横暴を目のあたりにした後に、八路軍(共産軍)の略奪も身をもって体験している。しかし彼女の家に派遣された趙という若い兵士は、市街戦のとばっちりで負傷していた彼女に毛沢東への信頼を植え付けた。市街戦で血を流した彼女を「小英雄」と呼んで彼女を励ましてくれた。チャーズを逃れてから通った天津の小学校で日本人として虐められている時もこの「小英雄」という言葉に励まされて過ごした。しかし、チャーズの中では「趙兄さんの嘘つき」、「何が毛沢東だ。何が紅い太陽だ」と心の中で闘わなければならなかった。紅軍と入れ替わりに国民党軍が入り込み、それをチャーズの外側から包囲して紅軍が長春を兵糧攻めにしたのだった。

『毛沢東 日本軍と共謀した男』の資料を調べる過程で遠藤は「趙安博」という名前に突き当たった。毛沢東が日本からの客人に会う時に廖承志のほかについたもう1人の通訳の名前である。ネットで調べると趙安博は1945年10月に長春で満映の接収事業に関与していた。ほとんどが農民出身であった八路軍の中にあって趙兄さんは日本語が話せるインテリだった。当時27歳、東京帝大に留学の経験があるらしかった。これで遠藤の目から鱗が落ちた。趙兄さんが誰であったかわかったからではない。あのせっぱ詰まった時代、趙兄さんがそうであったように、「彼ら(中国の民)は本気で『革命』を信じ『毛沢東』を信じていた。この私でさえ、趙兄さんの一言で染まり、一生涯もがいてきたのだから。」

圧倒的、そして一方的な英雄譚によって飾り立てられていた毛沢東を見る目が厳しくなるにつれてその宿敵であった蒋介石の評価が底辺から立ち上がってくることは避けられない。しかし、遠藤氏の蒋介石の評価はそれをはるかに超えた驚くべきものであり、俄かに信じがたいが、少なくとも毛信仰に並べてみる価値はありそうだ。蒋介石と言えば、毛に対峙する悪役の宣伝が行き届いていたばかりでなく、われわれ日本人にとっても太平洋戦争が始まるまではパブリック・エネミー・ナンバーワンであったことは子供であった私でも記憶している。

遠藤氏はまず事実関係を以下のように述べる。1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送の1時間前に蒋介石は「抗戦勝利にあたり全国軍民および全世界の人々に告げる書」という世界に向けた勝利宣言の中で、これが世界で最後の戦争となることを希望するとともに、日本人に対する一切の報復を禁じた。これが有名な「以徳報怨」演説である。

9月9日、投降調印式が行われ岡村寧次支那派遣軍総司令官は投降書に正式に署名した。蒋介石は岡村らが味わっているに違いない屈辱感への配慮から、岡村らを捕虜と呼ばずに「徒手官兵」(武装していない将兵)と呼んだ。そして元日本軍(100万人強)と中国居留日本人(130万人強)を日本に引揚げさせるべく岡村を「日本官兵善後総連絡部長」に任命した。

その後約1年間にわたる復員と引き揚げ作業のために列車や船を総動員したため、終戦後ただちに始まる国共内戦に、国民党軍は遅れをとってしまった。蒋介石は、敵軍捕虜をここまで保護して1年後には100万に上る捕虜を全員本国に送り届けた例は、世界史上初めてのことだろうと後に書いている。遠藤はこれに加えて、この1年間のロスが疲弊していた蒋介石軍を弱体化させたことが中国共産党を政権に導いた原因の一つであったとしている。

大戦後ソ連は国際的に有利な地歩を占めるがそれが中国共産党の力を増したことはもちろんである。国民党軍を支援し続けたアメリカはどうだったろうか。アメリカのルーズベルト政権は、しばしば戦後処理問題でソ連に譲歩し過ぎたと非難される。それは対独戦でのソ連の犠牲を認めて、その後に来る冷戦構造でソ連を優位に立たせる結果をもたらしたからである。政権内の有力者、ハリー・ホワイト財務次官(戦後の国際通貨制度の構築でケインズ案を退けたことで知られる)はソ連のスパイ、少なくともシンパだったとする見方が有力だが、遠藤氏はホワイトを明らかなソ連のスパイ、ロークリン・カリー(Lauchlin Currie)大統領補佐官(注2)と並べてルーズベルトは彼らに篭絡されていたとしている。

 国共内戦において中国の東北地方(満州)は内戦の死活を制する戦場であった。ソ連は、対日参戦を望んだルーズベルトとヤルタ会談で結んだ米ソ密約に従って、日ソ不可侵条約を破棄して日本領土に攻め込んだが、8月9日未明には満州へも侵攻した。

遠藤誉が幼女期に巻きまれた長春包囲戦はその後に続くものであった。『チャーズ』には、共産軍の包囲戦が始まるまでの長春へ、まずソ連兵が攻め込み、次いで共産軍、そして最後に国民党軍が共産軍に入れ替わった様子が描かれている。北方の国共内戦では長春や瀋陽を中心とした遼瀋戦役、その南方面の平津戦役、准海戦役が主だったものであるが、この長春陥落によって戦局は逆転し、中共軍は一気呵成に全中国を制覇し、これまで支配の及ばなかったすべての「点」である都市を手中に収めたのであった。

遠藤の著書で最も印象的な箇所は彼女がスタンフォード大学フーバー研究所に秘蔵されている蒋介石直筆(毛筆)の日記を読むくだりである。著者はこの日記を読んで「電撃のようなショック」を受けた。そして言う。「志の高潔さ、本気で国を思う責任感。それは一文字一文字の毛筆からにじみ出て、深い感動を与える。彼は本気で『中華民族』のことを考え、国を憂い、民を第一に置いていた。」

『蒋介石秘録』に見るように蒋は、国共合作は国民党軍が日本と戦っている間に、共産党を強大化させるためのコミンテルンの策略であることを見抜いていた。しかしここで一つの疑問が生ずる。西安事件が起きたのは1936年12月であり、日中が全面戦争に入る導火線となった盧溝橋事件が起きるのが1937年7月7日である。やがて本格的な戦争が始まるだろうということをコミンテルンが事前に知っていなければ、蒋介石と日本を戦わせようという案がどこから生まれてくるだろうか。(蒋介石は日本との戦争を望んでいなかった。)遠藤はこの時系列上の整合性のなさが気になっていた。確かに一方においては紅軍が滅亡寸前という緊急な状況はあったが、事前に日本がやがて日中戦争に入る極秘の動きをしていたことを知っていた人物がいてそれをコミンテルンへ通報したに違いない。遠藤はここに「ゾルゲ事件」として知られるリヒヤルト・ゾルゲと尾崎秀実の情報網を置いてこの二つの事件の時間的逆転を説明している。蒋介石は西安にいた張学良に「最後の5分の戦い」を命じた時に張が動かなかったことに腹を立て僅かな部下を引き連れて西安に向かい張に拉致監禁されたのであった。

このような礼賛に近い蒋介石論を読むと当然ながら国民党政権下の苛烈な事件や腐敗ぶりが思い起こされる。中でも際立っているのは「史上最大の環境破壊戦争」とされる黄河堤防決壊事件である。1938年6月、南京、徐州を落した日本軍は次に戦略的要衝である鄭州を目指した。これに対して中国国民党軍は黄河の堤防を破壊し、洪水を起こして日本軍の進撃を遅らせた。堤防の外に流出した黄河の水は河南省・安徽省・江蘇省の3省にまたがる11都市と4,000の村々を水没させ、農地はシルト(沈泥)の堆積によって不毛の地と化した。1994年の中国当局の発表では、この事件による死者数は90万人、難民数は1,000万人近くとなっている。より最近の学者の推計では死者数は40万~50万、また難民数は300万人とされる。

疑問を抱える中国現代史—歴史に終りはない

「毛沢東は何人の中国人民を殺したのか?」というのが遠藤の著書の最終章の題である。結論を先に言えば「少なめに見積もって7,000万人、いや5,000万人であったとしても、古今東西、人類の歴史上、一人でここまで多くの自国民を殺した者は、毛沢東をおいてほかにないのではないだろうか。おまけに、これは戦争が終わった後に殺した自国民の数である。」そうしてその後で彼女の著書の主題に戻って言う。「この事実ひとつから考えても、日中戦争時代に『中華民族を日本軍に売り渡す』くらいは、平気でやったであろうことは容易に想像がつくだろう。」

新中国(中華人民共和国)は1949年10月1日に誕生した。中国人民の殺戮は新中国誕生以前1941年から45年初頭まで展開された延安整風運動に端を発する。その殺戮の残忍性は、のちに生存者から聞き取って記録した『赤い太陽はいかにして昇ったのか』(高華著)が余すところなく描いているという。この整風運動では1万人強の党員と市民が惨殺された。この延安整風は成功例とされ新中国建国後も執拗に実施されていく。

1951年からは「三反運動」(汚職、浪費、官僚主義に反対する)が開始され、52年にかけて「五反運動」(贈賄、脱税。国家資材の横領と手抜き、材料のごまかし、経済情報の窃盗に反対する)へと発展していく。これをまとめて「三反五反運動」というが、逮捕投獄された者の総数は200万~300万人とされる。この運動のねらいは朝鮮戦争で動意をみせた国民党系列の者を粛清することが目的だった。「もちろん、ほとんどが獄死した。」

1956年2月のソ連のフルシチョフ第一書記のスターリン批判の後には、どんな批判でも自由に発言してよいという「百花斎放、百家争鳴」運動を起こした。(私はこの標語の美しさに感銘したことを忘れられない。)しかしこれは巧妙な罠にすぎず、翌57年には「反右派運動」を展開して自由に意見を述べた者を一網打尽に逮捕投獄した。公式の発表では50万人とされるが遠藤の友人である生き証人によれば300万人は粛清されたとのことである。

1958年には急進的な社会主義路線を実現する自らの能力を内外に示すために「大躍進政策」を打ち出した。その結果は周知のような大敗北で「数千万人」といわれる餓死者を出した。さすがの毛沢東もその責任を取り、59年には国家主席の座を追われ、劉少奇が毛にとって代わった。劉の権威は日増しに上昇し、党内では毛をないがしろにする空気が強まった。毛にはこれが面白くなかった。

1966年には文化大革命が発動される。劉少奇は激しい暴力と屈辱を受けた後、69年に獄死する。文化大革命は毛が死去した1976年になって終息する。1978年12月13日、葉剣英(全人代常務委員会委員長)は「文革により粛清された者の数は1億人で、死者の数は2,000万人、損失は8,000億人民元にのぼる」と発表した。以上が、毛沢東がその膝元で起こした同胞殺戮のあらましである。この損失8,000億人民元は何を指すのであろうか。これまでに紅衛兵によって破壊された文化財について触れた記事は目にしていないが、これに含まれているとも思えない。

延安整風運動で死刑執行人を演じたのは、毛の死に至るまでの側近であった康生である。彼はソ連に留学し、スターリンの死刑執行人として悪名をはせたラヴレンチ―・ベリヤからその手法を学んだと言われる。1943年には「救済活動」という「他人を密告すれば、あなたは救われる」という密告制度を奨励した。この密告制度がどのようなものであったかは鄭念の『上海の長い夜』に余すところなく描かれている。遠藤誉は、中国には今もなお「密告文化」が深く根を下ろしているという。これと軌を一にすることを竹内実はその著書『毛沢東』(岩波新書、1989年9月)で次のように述べている。「中華大陸の住民は権力に敏感である。それは、社会が権力を軸にして回転しているからであろう。むかしから、官吏になるのが、ひとびとの夢であり、追求の目標であった。権力を掌握している人間には敏感に反応するのである。逆に、権力を失った人間には冷淡になろう。」

文化大革命の末期1976年には周恩来、次いで1989年には胡耀邦と、それぞれの死を悼む二つの天安門事件が相次いだ。とりわけ人民解放軍の大規模な介入を招いた1989年6月4日の「六四天安門事件」は未だに中国現代史の禁断の地にあって、その霞の中に巨大なランドマークとして聳えている。その間にも歴史は遮二無二進行し、今や中国はアメリカと並立する大国となった。「チャーズ」から立ち上がった遠藤誉氏は「中国問題研究家 遠藤誉が斬る中国問題」というブログで、すでに先へとつき進んで行く中国の諸問題に取り組んでいる。

以上を書き終えた後に伊藤忠商事の社長、会長を歴任した後に2010年6月から12年12月まで民間出身として異例の中国大使を務めた丹羽宇一郎氏の『中国の大問題』(PHP 新書)を読んでいたことを思い出した。私はそれを読んで「日本の大問題」と題する書評をある書評欄に載せていた(2014年10月26日)。今、同書の目次を読み返してみたが、網羅すべき「中国の大問題」を捉えて、それぞれに的を射た解析がなされていることを再認識した。以下にその私の書評を再録して中国問題に関心を持たれる諸兄に同書を推薦したいと思います。

「標題は「中国の大問題」だが日本人が読めば中身は「日本の大問題」である。昔ながらの「愛国」精神が先走ると日中間の難題の多くは中国が一方的に引き起こしたように見えるらしい。その視点から著者である丹羽宇一郎前中国大使は「親中派」であって中国の代弁者、さらには著書や発言は見苦しい自己弁護であるという論評まである。「中国の大問題」という表題、さらには「中国の弱みに石を打て」という腰帯の宣伝文句はそのような批判を気にした出版社の弱腰のなせる業に違いない。評者は丹羽氏の講演(注、新三木会主催でした)を聞いてから本書を購入した。講演を聞いてなかったらこのような、きわもの的印象を与える本を読むことはなかったろう。

ところが標題に関するかぎり、名は体を表していた。確かに政治的安定という点で中国は幾多の難問を抱えており、安定が揺らぐと政権は求心力を維持するために反日に走る傾向がある。この限りでは日中間の政治的抗争は中国に端を発しているが、日本側の拙劣、あるいは挑発的な対応も際立っている。日中間の目下の外交的行き詰まりの原因となった尖閣三島の国有化宣言はその代表例である。野田首相が「可及的すみやかに尖閣三島を取得する」と発表したのは、胡錦濤主席が自重を求めたとされる「立ち話」外交(12年9月9日)の翌日のことであった。発表の前日、駐中国大使であった著者は国有化の中止、ないしは延期を本省に求めたが無視されたという。

このような著者の進言に対して野党(自民党) からは大使更迭を求める声が上がり、世論も大使に批判的であった。「学者や批評家、ジャーナリストなど識者と言われる人たちから、私の立場を擁護する言論はついに出ることはなかった。」これら一連の日本側の対応から著者が感じ取ったことは「日本の知的衰退」だった。日本の誰が、なぜ、国有化を決定に持ち込んだのか、著者は今でも分からないという。

 第一章の「14億人という大問題」は、共産党一党独裁の組織、人脈から始まって、その抱える多分に日本とは異質の、したがって日本人の思考過程には収まり難い大問題が指摘される。習近平(総書記)体制が取組んでいる腐敗摘発運動は一党支配体制への信任を担保するために欠かせない状況にある。著者はまたアジア、アフリカ、中東の独裁的政権と同様に中国でも軍が政権に銃口を向ける可能性を否定しない。「社会的な騒乱の抑止力となる人民解放軍の支持を得ることが最優先となるため、軍寄りの政治が続くだろう。」また「経済が不安定になると社会主義的な国家統制を強めて行くと同時に、国民の支持を得るために、対外的には強硬策に出ざるを得ない」という現実も指摘する。著者を親中派として片付けたがる論者はどこを見ているのだろうか。

著者の真骨頂は間接的な見聞や多数意見に寄りかかるのではなく、自らの足で現場を歩き、現実的な判断を求めるところにある。30年にわたって対中国ビジネスに真剣に立ち向かった。大使として赴任してからも可能な限り党中央の要人はもとより地方行政区のトップとの面談を求め続けた。変動してやまない中国の理解には動的に対処しなければならないことは明らかである。そのような努力は著者が、人口、経済、地域間格差、安全保障、教育などの諸問題を具体的に幅広く説き進む過程に一貫して明らかである。

表題の示す通り、本書は「中国の大問題」を正面から論じたものである。しかし本書から伝わってくるのは、中国の大問題はすなわち日本の大問題であるという事実である。しかも日中関係は今や日本と中国の2国間の関係だけで割り切れる段階を通り越している。著者の進言を無視して今日の危機を招いた政治家諸公が心して読むべき本である。」

 

(注1)『蒋介石秘録―日中関係八十年の証言』は、1974年8月15日から76年12月25日まで650回にわたって産経新聞に連載され、全15巻の単行本として発行されたものを上下2巻の改訂特装販として編集刊行されたものである。原本の内容はすべて中華民国の公式記録にもとづいたもので資料の中には初めて公開される極秘文書も少なくないという。

(注2)ロークリン・カリー(Lauchlin Bernard Currie)。ブレトン・ウッズ会議ではハリー・ホワイトがアメリカを代表して表に出ているがカリーはホワイトと協同し、その貢献はホワイトに劣るものではない。ルーズベルト大統領の経済顧問として大恐慌時のニュー・ディールの金融政策を説得、推進したのはカリーであった。日中戦争時には中国に派遣され、中国空軍の強化、育成を図った。すでに1941年(昭和16年)5月に、中国空軍の強化はシンガポール、ビルマ回廊、フィリピンの防衛に資することを強調し、軍事統合本部はその案を了承した。カリーはまた、日本に対する中国からの戦略的爆撃の可能性を探る一方で対日経済制裁の強化を図った。カリーのこれらの活動は日本を真珠湾攻撃へと推し進めた一因であるとする見方がある。

戦後はホワイトと共に、ソヴィエトのスパイであるとする疑念が深まり、非米活動委員会の査問を受けた。1954年には米国の旅券の更新を拒否され、コロンビアに国籍を移して同国で活躍した。ホワイトは査問の3日後に心臓発作で死亡している。(以上、カリーについては、長文の英文ウイキペデイアに拠った。)

(注3)郭沫若の『抗日戦回想録』には次のような淡々とした記述がある。黄河の堤防は開封の西北の数か所で同時に決壊した。「わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。わが伝統兵法―「水、六軍を淹(ひた)す」だった。しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。」

(注4)この竹内実の指摘を引用しながら日本はどう違うかを考えないではいられなかった。日本社会には「忖度」と名付けられた小さな権力の歯車がある。小さな歯車はやがて大きな権力の歯車を動かす。官吏になることはが今でも多くの人の夢である。

2020.10.7

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