コロナの季節の
拾い読み(付録2)

P大島昌二:2020.10.29

 私はつい先ごろまで文化大革命に関する本を読んでいたが文革当時の日本のジャーナリズムや読書界の雰囲気を十分に思い出せなかった。ところが今になって拾い上げた西義之著『変節の知識人たち』(1979年12月)は当時の思想界の雰囲気を如実に伝えていることに気がついた。当時は新聞記事に毛の生えたようなものと思いながら読んだ記憶があるが、今見ると教えられることが少なくない。

当時、東大教授であった西義之は知識層を対象とする論壇ではアンチ左翼の少数派であった。実名を挙げて多くの文化人の論調の軽薄さを批判するのであるが、その代表的な一例として朝日新聞で論壇時評を担当していた長洲一二(横浜国大教授)が上げられる。長洲は「自分は文化革命について何もわからない」と言いながら彼が時評で取り上げた論文を丸山真男の著名な論文に匹敵すべきものとして持ち上げている矛盾を指摘している。

文革が日本の論壇の地殻を揺るがせたことは疑いない。多くの論者が文革に賛成か反対かの旗幟を明らかにしたのであった。当時は日共と反日共の抗争が激しかったがそれが学界にも波及し「北京シンポジウム論争」というのも起ったという。自主独立路線の「日共派は、高橋磌一、原善四郎、平野義太郎らの諸氏で、これを迎え撃ったのが、井上清、安藤彦太郎、新島淳良の諸氏であったという。」中国文学者として盛名をはせた竹内好は沈黙を続けていたが、67年1月になって「文化大革命は自分の力にあまる。自分は今後とも発言しない」と述べたがその後に編集した『講座、現代中国』の寄稿者の中には「文革をできるだけ理解しようという人たちの顔ぶれが並んでいる」という。

ここに数人の名前を並べたがこれは西の著書に登場する人物のほんの一部である。またこの文章は文革がどれだけ日本の知識人を動揺させたかを示すためのもので、文革を支持した学者の業績全般を否定するものではない。伊東光晴氏の「革命後の中国を論じた人は多く傷ついた。歴史と政治への善意の思い入れが復讐されたのだった」と言うのが名言なのはこのあたりの事情を見事に言い当てているからである。いずれにしても「世は文革万歳一色となり、まもなく大学紛争が胎動しはじめる。」

文革が日本における「紅衛兵騒ぎ」に転化したのは1967年であるがその年の2月28日には作家の川端康成、石川淳、安倍公房、三島由紀夫の4人が帝国ホテルで記者会見し「中国文化大革命で、同国の学問・芸術の自立性が侵されていることに反対する」声明を発表して「…学問芸術を政治権力の具とすることに一致して反対する」と述べた。このニュースは私も記憶している。この声明がなぜこの4人だけのものであったか不明であるが今はその理由を知りたいものだと思う。この声明は今でも大書して張り出すべきものであるが、当時はあえて文革の文脈で発言して、火中の栗を拾うことを避けた人が多かったのではないかと思う。政治的発言を邪道として避けた文学者もいたことだろう。

ここで時代をさかのぼって小平の一橋寮の寮生大会でのシーンを舞台に上げてみる。戦中の言論統制に議論が及んでいたかもしれない。誰かが「文学者は軟弱だから」といったような発言をしたのを寮監の山田欽一教授が聞きとがめて「文学者は弱いですか?」と口を挟まれたことがあった。何をもって強い弱いというかにもよるが、これら4人の文学者は見るべきところを見ていたと言うことができる。山田教授は「ヤマキン」の愛称で学生に親しまれすべての生徒の顔と名前を記憶していると言われた。私は偶然のことであったが国分寺で「しなそば」(先生の用語)をご馳走になったことがあった。ロンドンの日本料理店ではわれわれの頃は講師だった未来学の坂本二郎さんが一人でおられるのを見かけて挨拶したことがあった。

1968年はわれわれの卒業10周年に当たり、如水会館で記念大会が開かれ、当時の増田四郎学長の出席を仰いだ。正に文革の最中で日本の学生運動もミニ文革のさなかであった。一橋の学生は免疫が強いのか感染するのが遅く、学長会議などで増田学長は他の学長から「一橋はいいな」と羨ましがられたという。ところが一橋もまもなく学校閉鎖へと進み、学生による吊るし上げが始まった。四、五人に囲まれた立ち話であったが、あの温厚な増田さんが学生を「あいつらは…」と言うのを聞いて驚いた記憶がある。「それに比べれば君たちの頃はよかった」というのである。「あいつら」は今その頃のことを覚えているのだろうか。それから数年して、私はロンドン・東京の機中で隣席の男性が夜通し眠らなかったのに気がついた。「眠らないのですか」と聞いたら「私は学生との団交で眠らない癖がついてしまったのです」という。東北大学の細谷という教授だった。その人の訃報を新聞で読んだのはわずか数年後のことであった。  

拾い読みには昔の本だけではなく昔の新聞記事もある。単行本と比べて新聞記事は一過性のものとして読み捨てられる傾向があるが、出版はされたものの注目もされず、長く滞留しないまま消えてゆく書物も似たような運命にある。後世に残る本とは限らないが後になると忘れられてしまうような時代相、時代の雰囲気を伝えていて何かの拍子に見直される本もある。私と西義之氏の本は正にそのような関係性を持っていた。

最近、気になっているマンガの記事を見つけたので読んでみた。朝日新聞1983年8月1日の記事である。(私はそれを切り抜いておいたのでなく別の切り抜き記事の傍らに残っていた。)なぜ気になるかというと、新聞の論評やテレビでしばしば目にする新語(多くは短絡語やマンガ由来らしい)に幻惑されるからであり、マンガで日本語を学んでいる外人が良く質問するからである。

見出しに類するものは4つあって大きい順に並べると、「米国人の見る日本の漫画文化」、「国際的には鎖国状態」、「理解しにくい習俗・心情」、「紹介書を出版したショット氏に聞く」となっているこれでおよその内容は推測できるが、このほかにも小見出しが3つあって「『…』って何だろう」、「多いページに驚く」、「米へ影響の兆しも」となっている。

 インタビューされたフレデリック・ショット氏(33歳)は米国人で、日本の漫画に魅せられ、研究を続けてきて日本の漫画文化を“Manga! Manga!―The World of Japanese Comics “という著書を講談社インターナショナルから出版したところであった。今でも漫画で日本語を勉強している外国人が少なくないが、ショット氏も国際基督教大学に留学していた時に赤塚不二夫の『天才バカポン』などで日本語を勉強するうちに興味を引かれたという。「日本の漫画は世界に例がないほど発展しているのに、外国に全くといっていいほど知られていない。これは異様なことだと思った」という。37年前のコメントであるが今では信じられない。何しろマンガやアニメは日本を代表する文化だというのだから。

ショット氏の話の内容からすれば漫画は不可解なことだらけだが、その分かりにくさに引き込まれ、それを解明すれば日本の文化や日本人の心性に迫れると考えた節もある。簡単にいくつかの不可解を列挙すると: ダジャレが多くわからない: 鼻からチョウチンを出していれば居眠り、鼻血がドバッと出れば性的興奮: 去っていく侍の後ろ姿にセリフの吹き出しがあって中が無言の「…」になっているのも意味が分からない。日本人ならそこに言葉の呟きを感じられるのだろうが米国人は何だろうと思ってしまう: スポーツ根性物、サラリーマン漫画、少女漫画のほとんどは米国人には理解不能。スポーツに関しては日本人なら感動する場面を米国人はマゾ趣味、変態と受け止めかねない:テーマが人類にとって普遍的なもの、例えば中沢啓治の『はだしのゲン』など理解できる漫画も少なくない。Mangaにはやがてanimeが加わって、emojiと並んで世界の共通語になっている現在から見れば、時を経るにしたがって日本の社会も漫画も大きな変化を遂げたのかもしれない。

「なるほど」と思わせるショット氏のコメントはまだまだあるがこれだけにしておいて同書の序文にある手塚治虫の言葉を引用しておきたい。「漫画こそ民族、国家を超越した国際語で、誰にでも喜ばれ、だれでも楽しめる偉大な文化」だと言っている。当時なら我田引水の大言壮語と読んだかもしれない。だが今では反論するにしても、正面から受け止めなければならない。

私は手塚治虫の漫画を読んだ一世代前の漫画読者であった。(唯一の経験として歯科医の待合室で『アドルフに告ぐ』を途中まで興味をもって読んだことがあったがその医院とは間もなく縁が切れてしまった。)本の乏しい時代で、かなり前の「のらくろ」の古本は回覧されてくるのを競って読んだ。「日の丸旗の助」という題名も記憶にある。だが引き込まれて毎号待ち遠しかったのは戦後「少年クラブ」に連載された横井福次郎の『不思議な国のプッチャー』である。横井はフィリピン戦線に従軍してマラリアと結核を患い36歳で結核で亡くなったとウィキが教えてくれる。死後は小川哲男が彼の漫画の続きを引き受けたほどの人気だったが、絵の良さもストーリィの面白さも失われてしまった。

漫画は子供のもの、幼稚なものとされていたから、大人は「漫画ばかり読んでいる」と叱るのが常だった。私は「少年クラブ」を中学生になっても読み続けていいものかという疑念に捉われながらしばらくは祖母が手配してくれたものを読み続けた。中学を終えるまでには雑誌の数年分を纏めてリンゴ箱に保存していたがそれはいつの間にかなくなっていた。弟たちが勝手に読み散らしたのだろうと思っていたがつい最近になって当の弟から、母が運び込んだ物置小屋が野良猫のねぐらにされて猫の小便の匂いがひどいので母が廃棄したのだと教えられた。今もあれば値打ちものだということで弟と意見が一致したが、「コロナの季節」でも時代相を告げるものとして役立ってもらえる代物だった。

一昨日(10月27日)はBS放送で映画「ニコライとアレクサンドラ」(1971年、フランクリン・シャッフナー監督)を見た。インターミッションを入れて3時間の長編なので、昼休みに半分だけでもと思って見初めてそのまま最後まで見てしまった。いくつもの劇的な事件を無理なく織りあげた作品で私はそれぞれの劇的要素を知っていたので飽きずに見続けた。ロシア革命をめぐって、ニコライ2世の専制政治、背景の日露戦争、サラエヴォの一発の銃声(1914年6月)、レーニンが帰国する封印列車、皇子アレクセイの血友病と怪僧ラスプーチン、ロマノフ家の最後などどれ一つをとっても一編の映画になる事件を切れ目なく紡いでいて見ごたえがあった。映画に関心を払っていた時期のこの映画を私は全く知らなかったので大きな拾い物をした。

神の摂理の下に皇帝の地位にあると信じて部下の進言に耳を貸さないニコライの圧政が多くの悲劇の因となった。映画では最後に、ひざまずいて妻に赦しを乞うシーンがある。1960年代の英国での記憶であるが当時はまだ皇帝一家の殺害の場所も明らかではなく、生死不明であった皇女アナスターシャが現れるに及んでその真贋をめぐって論議が酣であった。アナスターシャの謎については夏休みに英語の学習にヨ―ロッパからきていた同じ下宿の女子学生たちから教えられた。日本でも同様で「アナスターシャ」という歌までが流行したはずである。

ソ連が崩壊して秘密文書が出回るようになってどれだけの事実が世に顕れたか分からない。だから拘束されてからの皇帝一家の運命を私は眉に唾をしながら見続けた。小説を読むようなもので、そこに描かれたどこまでが事実かは今でも分からない。ラスプーチンについては納得がいった。私は彼の詳細な伝記を読んでいた。

后妃アレクサンドラをジャネット・サズマンが演じていた。それに気づいたのがこの映画を見ることにしたきっかけでもあった。彼女のどんな作品を見ていただろうと調べてみたが、ない。私が良く見たと思って記憶しているのはテレビ・ドラマだったのだろう。この映画はアカデミーで賞を貰ったので彼女にはハリウッドの女優として飛躍するチャンスがあったというがあくまでも舞台女優として留まることを望んだという。

私が知らないだけのことかもしれないが、映画王国でもあったお膝元のロシアでこれだけの材料のあるドラマを映画化している様子がない。『ドクトル・ジバゴ』は優れた映画作品が2編あるがいずれも外国の作品である。まだまだタブーは多いのだろう。反革命軍で戦ったコサックの運命を描いた『静かなドン』の作者ショーロホフが生き残って、作品は映画にまでなったのはスターリンがこの作品を愛読したからだというがこれもまだ謎といってよい。

『人間の土地へ』を読了しました。同書の写真で見ても小松由佳さんは小柄で可憐な日本女性にすぎません。そんな女性が才能も勇気も十二分以上に備えていることがわかります。K2からの生還がどのようなものであったかは第一章の僅か30頁で言い尽くされています。その後にはカメラを胸に遺跡の町パルミラからシリア砂漠に入り、内戦状態に入ったシリアの大家族の運命と喜怒哀楽をともにします。昨日まで何事もなく平穏だった人々がどのようにして難民になるのか、イスラムの女性になるとはどういうことかについても多くを学ぶことができます。


写真説明

0282 「少年クラブ」昭和24年(1949年)新年号の付録は「不思議の国のプッチャー」だった。(後に「冒険児プッチャー」になった。)横井の念頭に「不思議の国アリス」はあっただろうか。

0284 一冊だけ残っていた「少ク」49年11月号では小川哲男(ラジオの頓智教室の常連にもなった)がプッチャーを引き継いでいる。

0286 戦雲急を告げる昭和20年5・6月合併号の表紙と裏表紙。モノクロの新聞紙大のものを裁断して購入者が自分で一冊にまとめた。全32頁、金35銭也。今神田で、あれば3,000円。待ち遠しかった大佛次郎の「楠正成」は中断された。表紙絵は斎藤五百枝。

0288 同上昭和24年11月号の表紙。伊原宇三郎画。裏表紙は広告。102頁、金65円なり。ただし地方売価68円(運賃諸掛を含む)。インフレは進む一方だった。

佐々木邦の「僕らの世界」の連載がある。楽しみだったが何故か理由なしに中断された。勘ぐれば検閲か?

セルビアの銃声:1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者、フェルディナンド大公夫妻が暗殺された事件が第一次世界大戦の発端となった。

サラエボの事件の現場はこのMuseumの前の通りである。橋の上で正面を向いているのはセルビア人のガイド。2015年6月25日事件後101年目に撮影。