倉敷新聞 昭和42年4月18日(火曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (1)
遍照院
遍照院は神遊山、神宮寺と称し、西阿知町にあり、寛和元年、花山天皇の命により智空僧正が開基した寺であり、本尊は十一面観音菩薩。室町時代の作で、ひのきの一木像、県の重要美術品に指定されている。
昔は備中の大寺といわれ末寺二十四を擁していたが、昭和のはじめ、末寺を分離、現在では真言宗御室派別格本山に列している。また境内には市内唯一の国指定重要文化財である三重塔もあり、現在は国費をもって修復中であるが、七月には新装成った塔が西阿知の地にそびえることになる。遍照院の西には鎮守の神として春秋の祭りでにぎわう熊野神社もある。見渡す限り緑の田園の中に、厳然と建つ三重塔や広大な境内、 堂々たる ”伽藍”などから格式高い遍照院の昔をしのぶことができ、住民の心のよりどころとなっている。将来計画としては境内のあき地三百五十平方メートルに遊園地を造成、市民に開放、文字通りのいこいの場とする。
(写真は西阿知町にある遍照院)
倉敷新聞 昭和42年4月20日(木曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (2)
由加山
由加山は瀬戸内海国立公園特別地域に指定されており児島由加にあり、児島の霊峰として、江戸時代から明治の初年まで由加大権現として全国から信仰を集め、讃岐の金比羅宮とともに海上の守護神として広く崇敬されて栄えた。また備前藩主、池田候も信仰があつく参拝の都度、使用した客殿はいまもあり、当時の隆盛をしのばせている。そのほか江戸商人、塩原太助が奉納した玉がきや知名の画家円山応挙の力作、精粋の建築など文化財も数多くある
こうした文化財を鑑賞しながら、春は桜、夏は避暑、秋はもみじと四季の風情にも富み、海浜に近いとは思えない深山の趣きも、また格別。最近では頂上まで大型バスが乗り入れできる道路も開発され、年々、ここを訪れる観光客はふえている。
(写真は由加山)
倉敷新聞 昭和42年4月22日(土曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (3)
酒津遊園地
酒津遊園地は高梁川が分流していた東高梁川をせきとめる大改修をし、大堤防に桜を植えたことにはじまり配水池の 雄大さと 相まって華麗な桜の名所として知られ、春の観光地として近郷の行楽客が多く集まったが、いまでは桜も老令化したため、春の行楽より五、六月の薫風の候がよくなってきた。若葉のトンネルの下を歩きながら人生を語る若いアベック、しばふのはりつめた堤防に腰をおろして、流れる川の音を聞きながら手づくりの料理に舌づつみをうつ家族連れなど。
また湖とまがうほど雄大な配水池では、若いカップルがすいすいとボートをこぐ姿もみられ、まさに「水郷酒津」といったところ。しかし、酒津のながめは、高梁川に浮かぶ八幡山から。頂上に登れば眼下に高梁川の清流が雄大に流れ、東には複線化の工事が進む伯備線が走り、はるか西には船穂橋、山陽線鉄橋、中国随一といわれる霞橋などがのぞまれ、南には倉敷レイヨン倉敷工場をはじめ広々とした遊園地があり流れる水の音とともに、市民のいこいの場となっている。
(写真は春の酒津遊園地)
倉敷新聞 昭和42年4月25日(火曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (4)
熊野神社
熊野神社と五流尊滝院は児島林にあり、昔は熊野権現といわれ、奈良時代、紀州熊野権現から 遷座さ れたものと伝えられ、本殿は室町時代の明応元年に再建され、当時の代表的な建物として国指定の重要建造物になっている。ほかに県や市指定の文化財も多くあり特に五流尊滝院の三重塔は造園の美と相まって、深山にたたずむ雄姿は、安楽浄土を現世に出現した聖地の感がある。
熊野権現の鎮座はすぐれた紀伊文化の導入であり近くには後鳥羽上皇が北条氏に敗れた際、第五皇子であった冷泉宮頼仁親王が、この地に流され、宝治元年になくなり、親王を葬ったと伝えられる墓所もある。
(写真は国重要文化財に指定されている熊野神社)
倉敷新聞 昭和42年4月26日(水曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (5)
向山八光台
向山八光台は自然公園から羽島法輪寺の 台地一帯 の総称で、公園学の権威者、田村博士が推奨したところ頂上からは大原美術館、倉敷民芸館、考古館などの連なる倉敷川付近の美観地帯が柳の青とともに眼下に広がり、倉敷発祥の地、鶴形山のながめも手に取るように望める。四季のながめもきわめてよく、桃の花見、わらび狩りなどピクニックに最適。
南には瀬戸内海経済圏の中核として脚光を浴びている水島工業基地や多島美を誇る瀬戸の内海がのぞまれ、東には児島湖、金甲山が一望に見わたされ、市民の いこいの 場としての利用度は年々、ましてきている。
(写真は向山八光台からながめた市街地)
倉敷新聞 昭和42年4月27日(木曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (6)
竜王山
児島の中心部、味野の背後にそびえる竜王山は瀬戸内海国立公園特別地域に指定されており、頂上からの展望は一段と広大でパノラマのすばらしさは絶対。
特に東、南、西に大きく広がる瀬戸内海の島々の美観と四国連山の美しさは格別。また西北には県下に誇る水島工業基地が一望におさめられ、眼下には流架式製塩のささがあたかも林のごとに連なり、山間にかこまれた市街地が開ける。遠くからながめる山の姿も美しく自然の力強さを感じさす
(写真は味野の背後にそびえる竜王山)
倉敷新聞 昭和42年4月28日(金曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (7)
へら取神社
へら取神社は連島町西の浦にあり、天武天皇の白鳳年間、海であった同地区の入江に 神紋 があらわれ”ヘラ”の字形になったので、当時の都羅神社をへら取大権現と改めたと伝えられ盗難、水難、火難よけの神として名高く、春秋の大祭には近郷の善男善女でにぎわった。
へら取神社を中心としたへら取公園一帯からのながめはすばらしく、開け行く水島工業基地を眼下に望み、多島美を誇る瀬戸の内海や遠く四国の連山を望むことができる。また梅、桜の名所として知られ、シーズンには連日、万余の観光客でにぎわう。最近では町内会が汗の奉仕で自動車道を建設、楽々と頂上まで車で登れるとあって、シーズンオフでも観光客がつめかけている。
(写真は桜の名所として知られているへら取神社)
倉敷新聞 昭和42年4月29日(土曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (8)
西岡山
西岡山は菅生学区の西岡部にあり、昔から神仏の霊地としてあがめられていた。一帯には十二か寺院があったが、焼失して現在では行願院、竜昌院のニ寺と当時の規模をしのばす仁王門が残っているだけ。
頂上に登れば、眼下に田園が開け、あくせくと働く市民のいこいの場として 最適で 桜、つつじも植樹されており、自然公園としてしたしまれている。山の東の一角には県下で初の”老人いこいの家”も建設中で、年末までには新装なって、老人のいこいの場となる。
また愛刀家になじまれている青江刀も、この地でつくられたもので、名刀をきたえた古井戸も現存している
(写真は西岡山に鎮座する行願院)
倉敷新聞 昭和42年5月3日(水曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (9)
王子が嶽
倉敷市の東南端、玉野市と連なるところ、海岸からきり立った巨岩りゅうりゅうとして、山がく連なり、懸がいそびえた雄大さは男性的でひきつける美しさはほかに類をみない。頂上、二百三十一メートルからの展望は、まったくすばらしく、備讃瀬戸の大景観を一望できるとともに、遠く児島半島の連山、またはるかに、岡山平野ものぞまれ、大自然の美観地として、瀬戸内海国立公園特別地域に指定されている。
頂上には巨岩、怪石の自然の妙を縫って、桜、つつじなどがあり、名所として知られ、四季を通じて観光客にしたしまれている。
泣菫詩碑
泣菫詩碑は明治十年、連島町西の浦に生まれた詩人、薄田泣菫をたたえて、地元有志によって三十年に厄神社境内にたてられた。
泣菫は上田敏、蒲原有明らとともに、明治新体詩形を完成、浪漫的な近代詩形として日本の近代文学史に不滅の光を放っており、詩碑は六曲のびょうぶに筆づかがある。びょうぶには、代表的な詩が刻まれている。
境内からの展望もよく、水島工業基地を眼下に、遠く多島美を誇る瀬戸内海の山山を望むことができ、丘を回って詩情をそそる梅林があり近くには生家もある。
(写真上は王子が嶽の頂上から児島市街地を望む・下は六曲のびょうぶに代表的な詩が刻まれている泣菫詩碑)
倉敷新聞 昭和42年5月4日(木曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (10)
浅原郷
浅原郷は市の東北、浅原谷一帯を総称した名前で、建武中興のころ、大江田氏経が足利直義の大軍を迎えて奮戦した南北戦争の古戦場福山城し(趾)をはじめ、黒住教祖、黒住宗忠をまつった黒住教浅原大教会所などがある。浅原大教会所は六年に開創され、春秋の大祭には近郊の信者でにぎわう。
近くに神々の滝、天王池遊園地があり、池をめぐって桜、もみじがある。また最近、ラドン含有量全国第五位のラジウム泉を開発”倉敷の奥座敷”として温泉宿舎「朝光園」も建設され、静寂な自然環境と相まって、市民のいこいの場となっている
安養寺
安養寺は浅原地内にあり、奈良朝時代に創建された中国地方屈指の名寺で、南北朝時代、建武の兵乱で一帯のがらんはほとんど灰じんになったが、四十二体の「毘沙門天」「吉祥天」は焼失をまぬがれ、国重要文化財に指定されている。ほか、百九十六枚の「経瓦」も国指定の重文になっており、背後には三百メートルの福山がありゆかりの南北古戦場跡は、西にゆるやかな高梁川の清流が望め、南には倉敷平野瀬戸内海の島々が開けて自然環境のすぐれたところ。
休息の地として脚光を浴びている。
(写真上は倉敷の奥座敷として建設された浅原郷朝光園、下は福山城しを借景に創建された中国地方屈指の名寺、安養寺)
倉敷新聞 昭和42年5月8日(月曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (11)
種松山
種松山は粒江にあり、海抜二百五十八メートル、平家敗戦の史実を包む山として知られ頂上からは南に世界的規模で開け行く水島工業基地、東に児島湖、岡山市街が遠望でき、近年、ハイキングコースとして市民にしたしまれている。
泰永三年十二月、源頼朝の弟、三河守範頼が平家追討のため、九州へ向かう途中、帯江の高坪山に陣取り、海面をへだてた種松山一帯に布陣した平家の左馬頭行盛らと激戦両軍八百あまりが討死したといわれ、平家はこの戦いに敗れて屋島へ落ちのびた。当時の合戦を物語る乗り出し岩、鞭木、先陣庵腸川、浮洲岩、藤戸寺、経が島、篝地蔵、笹無山、引馬がたわ、誓紙の井戸などが史跡として残っており、水島工業基地の発展とともに、観光地として脚光を浴びている。
帯江観音堂
安産の守り本尊として霊験あらたかといわれる中帯江景光山観音寺は別名「不洗」=あらわず=観音ともいわれている。境内には一本の古松があり、見通しの周囲は二・二メートル、根本の周囲三メートル、枝張り周囲六十メートルに及んでいる。この古松が市重要文化財に指定されている「影向の松」
六十メートルの枝張りの格好が”影向”の名の通り、あたかも観世音ぼさつ(菩薩)が両手をさしのべ、慈愛のまなざしでみつめている姿ににている。
近郷には多くの信徒がおり春秋の大祭には植木市も開かれ、多くの参拝者でにぎわっている。
(写真上は種松山頂上の鏡池、下は安産の守り本尊として名高い帯江観音寺)
倉敷新聞 昭和42年5月9日(火曜日)
十五候補地紹介
観光倉敷十選 (12)
円通寺公園
その昔”良寛さん”が修行した寺といえば感銘も深い円通寺。入り口には「当国巡礼第二十一番弥陀山円通寺と大きな道しるべがあるが、曹洞宗の巨寺で聖観音菩薩を本尊にし、元録年間に徳翁良高師によって開基された。以来、良機、国仙玄透、覚厳などの高僧が住持し、現在二十六世二百数十年に至る。がらんは本堂開山堂、秋葉堂、宝庫、鐘楼堂、良寛堂、茶室、普門閣などからなる。
良寛は一七七九年、二十二才のとき、当寺十世の国仙和尚をしたい越後から訪れ、修行を重ね、子どもたちの仲間としてかくれんぼや手まりつきなどに興じ、無欲の天心な人格の逸話は広く知られている。良寛の足跡を踏みながら 老松の木の 間を登るとまず白華山の山骨が露出した自然石の庭があり、さつきの色どりが美しい。裏山に登ると一歩一歩、玉島市街や海の景観が展開し、すばらしい風光の展望が楽しめる。山頂には無形文化財人形作家平田郷陽氏作の良寛像がある。中腹には保養施設”良寛荘”も。
(おわり)
(写真は良寛さんの修行した円通寺)
2017年3月4日 作成
2021年6月8日 新しいGoogleサイトへの移行に伴いレイアウトを変更