【5】 和意谷

山陽新報 昭和十一年一月十六日 (木曜日)

十五景地を巡る 【五】 小寺生

清明幽寂の境和意谷

池田家累代墳墓の地

山峽、清冽な水を流して

“颯爽とハイキング”に恰好の地

山陽線吉永驛を降りて西へ十町にして藤野村吉田、そこから更に

山峽を北へ約一里半、そこに和意谷がある、正確に言へば和氣郡神根村大字和意谷、池田光政公が權勢と財力に飽かせて造營した池田家累代の墳墓の地敦土山の和意谷である、藤野村吉田からの道は金剛川の上流が山峽に清冽な水を流して『颯爽とハイキング』に恰好の道、今は新道もつき自動車も通るやうになつたが昔はこの溪流を左右に渉ること十八回、俗に

十八川と呼ばれて道々一層興趣深いものがあつたといはれる、舊下馬の石の大鳥居をくゞつていよいよ山にかゝるのだが、緑鬱蒼の樹々の間を縫うて、お茶屋の趾、お茶屋水井戸などを經て木鳥居のある追分までの參道八町を上つて辛つと、そこから二つに岐れた墓道がそれぞれの『御山』に通じてゐる、輝政公をはじめ歴代の

墳墓は『一の御山』『二の御山』等々―とすべて七つの塋が老松老杉はじめ千古の樹木の間に各々獨立して建てられ、寛文五年の修築當時河石をこの山上まで運ぶのに一石に米一俵を要したと口碑に傳へる二千個の踏石を敷き詰めた墓道がこれを繋いでゐる、塋域は何れも山上の樹間とはいへ流石に廣闊に取られ、長い石垣を繞らした中に何れも丈餘の巨石で造つた碑石が立つてゐる、一切の

石材は犬島から運ばれた花崗岩だが、中でも輝政公の碑石、この碑石を載せた龜石、それに利隆公の碑石などの大石は片上港から和意谷まで引揚げるのに日子三十九日を費したといはれ、瑩所の規模の宏壯雄大を裏書する豪華な語り草となつてゐる、數百年の華やかな封建の夢の幾つかが眼前に髣髴として來る――が、墓前に一拜して靜かに頭をあげれば、小高い土饅頭に草は青く、たゞ一基墓は白い、大樹巨木の蔭暗い山は閑寂なら

岩清水の音もさやかな谷は幽邃、たゞ時々鳥の影が落ちて來るばかりのこの山上にこれまで、そしてこれからの幾十百星霜を雨露にさらして、墓は冷たく白い、封建の豪華はまた一轉して、芭蕉の『夏草や――』の一句に一脈通ずる異つた詠歎を以て偲ばれる、季節はたゞ豐富な常緑の他に四季折々に春は櫻、躑躅と諸々の花、秋は紅葉と

多彩な手向けを忘れない、世塵を離れた清明と幽寂のこの桃源境は一日の清遊で俗腸を洗ふのに絶好の地である