福山城址

撮影会(予定)

山陽新報 昭和十年十一月九日(土曜日)

各觀光地の

撮影競技會

全面的宣傳を目標に

倉敷地方觀光協會の新計畫

倉敷地方觀光協會内にある酒津水門、福山城址、寶貴山(安養寺)、柳井原遊水池、連島寶島寺、本莊村通仙園(兒島)などは本社の新選名勝投票に大活躍をなし、觀光時代の活溌な動きを反映したが、同觀光協會では更に明春の觀光シーズンに備へて全面的に區域内の宣傳紹介に力瘤を入れるべく近々評議員會を開くことになつた、打合事項は多方面に上つてゐるが、その中で注目されるものは撮影競技會で、右は本社倉敷支局が今夏主催した備南風景と産業寫眞競技會に、交通、季節等の都合で撮影洩れとなつた箇所を主として舞臺に入れ、懸賞つきで競技を行はうとするもので詳細は評議員會で確定する筈である

祝賀会

山陽新報 昭和十年十一月十七日(日曜日)

山手村で

祝賀宴

十勝福山城址

山麓の祝賀會

夕刊所報の如く十勝當選の奉告祭を行つた福山城址保勝會では十六日午後七時より都窪郡山手村西郡公會堂で當選祝賀式をあげ、村内より百餘名出席、友野保勝會長開會の辭についで會員より當選祝賀の辭があり、祝賀宴を開いて午後十時散會した

十勝當選の喜び

【下】當選標識の大旗から臨んだ福山城址

奉告祭

山陽新報 昭和十年十一月十七日(日曜日)

十勝福山城址

けさ奉告祭

學童國旗行列で登山

山頂に萬歳を三唱

備中福山合戦六百年慰靈祭と記念事業に力瘤を入れた岡山縣都窪郡山手村ではさらに六百年の潮に乘つて本社主催の岡山縣新選名勝投票に華々しく『福山城址』を名乘つて躍り出し保勝會が中心となつて血と汗との票を集めること四百三十万票遂に堂々縣下十勝の榮位を獲得した、發表のあつた十六日朝は擧村沸き返るばかりな歡びで即日福山山上に十勝入選奉告祭を執行することに決し、午前十時から山頂本丸址の大國旗塔のもとに祭壇を設け友野村長、岡田小學校長、杉生、宮岡、劍持、井上、高杉、その他福山城址保勝會幹部をはじめ保勝會員、一般村民ら多數參列、學童たちは國旗行列をして登山して祭典に加はり、齋主宮岡亮行氏(御崎神社々掌)、祭主は友野宇太郎氏(村長、保勝會長)となつて嚴肅に祭典を執行、山靈に奉告し、史蹟福山城址の万歳を一千尺の山頂から三唱して散會した

ハイキング(案内)

山陽新報 昭和十年十一月二十六日(火曜日)

市の主催で

市民ハイク

◇‥‥合計十本のコースを計畫

第一回を來月一日に

颯爽、ハイキング時代讚仰の音頭を市役所がとつて、倉敷市主催の第一回市民ハイキングを來る十二月一日の日曜日(雨天なれば八日の日曜日)に決行することになつた、市民大衆のための心身鍛錬、史蹟踏査、風景探勝並に現地講演といふのが目的で、第一回後順次コースを開拓して倉敷市を基點に徒歩三、四里を限度とし、乘物若干を加へた程度で合計十本のハイキングコースをつくり市が指導奬勵に當たるといふ明朗颯爽たる新計畫であるが、第一回のコースは左の通りで本社の新選投票で堂々十勝の榮位に座した備中福山城址、同じく十五景を獲得した寶貴山安養寺を頂點とする北部史蹟廻りである、他のコースは目下學務課で調査立案中で第二回は新春早々に行はれるのであらう、第一回の行程は左の通リで市民多數の參加を希望してゐる

第一回(十二月一日)午前八時萬壽小學校集合、同八時二十分出發(合圖サイレン)▲寶貴山安養寺(約一里)午前九時半着、國寶毘沙門天拜觀その他、同十時半出發▲福山城址登山(二十町)十一時二十分着、福山合戰現地講演、岡田山手校長、晝食正午發▲幸山城址(六町)零時二十分着備中兵亂現地視察、同四十分發▲條里の遺制(西郡に於ける班田収授の跡)途中にて菅正十郎氏説明▲清音村大覺大僧正遺蹟(十五町)一時二十分着、輕部寶塔參拜、同四十分發▲同所王子權現埀乳根櫻(五町)一時五十分着參拜、二時十分發▲清音驛二時二十分着、同三十分發列車にて歸倉▲健脚者は埀乳根櫻より倉敷まで徒歩二里弱▲延べ徒歩距離約二里十町

辯当、水筒持參、汽車賃十三錢のほかは經費は要しない、參加者は來る二十九日までに市役所學務課、各小學校、在倉日刊新聞社、同支局に氏名男女別を記して申込めばよい、これは市から學校醫一行の救護班をつけることになつてゐる

ハイキング(報告)

山陽新報 昭和十年十二月九日(月曜日)

倉敷市民ハイキング

倉敷市主催の第一回市民ハイキングは八日の日曜日に決行された、雨模様のため豫定を一時間遅らせて午前九時萬壽小學校を出發、本社新選名勝十五景の一つ寶貴山安養寺に國寶毘沙門天その他佛教美術の名寶を拜觀、長岡住職の講演を聽いてのち、新選十勝地福山城址に登山海抜一千尺の山頂で岡田山手小學校長から南朝の忠臣大井田氏經奮戰の講演を聽き一同晝食を喫し、快晴になつた天候に勇■、幸山城址に備中兵亂の■を訪ひ、山上からは班田収受の跡を眺め、西に下山して大覚大僧正の遺蹟を弔ひ埀乳根から清音驛に出て、列車で午後四時二十一分と■■で無事歸倉した

(寫眞は寶貴山安養寺の一行)

奨励金の贈呈

山陽新報 昭和十年十二月二十一日(土曜日)

倉敷地方觀光協會から

新四勝地へ奬勵金

福山城址、酒津、寶島寺、安養寺

“廿秀”の二ケ所推薦

倉敷地方觀光協會では本社が曩に催した岡山縣新選名勝地投票が觀光地宣傳のために最も有意義なものとし、協會加入區域から晴れの十勝地に二ケ所、十五景に二ケ所當選し、他に二十秀地また淺口郡柳井原遊水池、兒島郡本莊村の通仙園の二ケ所が推薦され、豫期以上の成果を収めた、そこで最初發表した奬勵規定に基き左記四名勝地に奬勵金を贈ることに決定したのでそれぞれ受領方を通知した

十勝地 福山城址(山手村) 酒津水門(中洲村)

十五景地 矢上山寶島寺(連島町) 寶貴山安養寺(菅生村)

山上の整備

山陽新報 昭和十一年三月二十五日(水曜日)

福山城址に

觀光施設

花時を前に保

勝會で力瘤

昨秋六百年祭を擧行し一躍忠蹟の名を宣揚した都窪郡山手村福山城趾は、本社主催の名勝投票でも堂々十勝の榮譽に座り、益有名になつたゝめ本年の冬は雪中登山するものが多く、又陽春を迎へて日々登山客は激増し山頂を賑はしてゐる、このごろは自然林の中に野生の椿が花ざかりで登山者を喜ばしてゐるが、四月に入れば山櫻が南朝の忠臣志士の遺芳そのものゝ樣に全山至るところに咲きだす、そこで山手村の福山城址保勝會では日ごとに増す登山者の便を圖り、あはせて史蹟をこの上世に紹介すべく種々の計畫を樹てゝゐるが、近く山頂の城址に無料休憩所、賣店等を設備し、又案内標等も史蹟々々に建てゝ便を圖る豫定である

城跡の調査

山陽新報 昭和十一年三月二十八日(土曜日)

史蹟調査員萩原博士ら

岡山県十勝地福山城址調査

“史蹟”の指定も近きか

十五景地寶貴山安養寺へも

文部省史蹟調査員文學博士荻野由之氏は文部■佐藤久雄氏同伴、本社選奬岡山縣十勝地、備中福山城址調査のため岡山縣社會教育課山本修治氏と共に二十六日午前九時自動車で岡山縣都窪郡山手村西郡に到着、福山城址保勝會岡田副會長及び同村守安助役、守安金作氏らの案内で北登山口から徒歩で福山に登山庚申堂で休憩の上頂上に至り、六百年前南朝の忠臣大井田氏經が死守した福山城の跡を約三時間に亘つて調査し、特に城砦に使用された福山寺の土壁の礎石とか、一千尺の山頂に掘り拔いた井戸などについては最も入念な調査を遂げた、も早やこの由緒ある古戰場福山が史蹟に指定されて國の保存となるのも時日の問題となつたが、荻野博士は

南朝の史蹟としてはこの地方に稀れに見るものだ、史蹟保存にするには福山全山を指定した方がいゝと思ふけれ共、山中に花崗岩の採掘場所もあり、これを禁止してしまふと採掘者に氣毒だから、山頂だけに限つた方が適當かも知れぬ、史蹟保存をする場合は遺蹟の原形を移動させることが禁物で工作物もなるべく手控へて置いた方がよく忠靈殿前に計畫中だといふ拜殿とか休憩所のやうなものも先づ天幕張り位で間に合せておいてもらひたい

と語つてゐた、荻野博士一行は午後一時山頂を出發南側に下山して山つゞきの菅生村淺原に至り、本社選奬十五景の寶貴山安養寺を訪ね、長岡住職の案内で國寶安置の毘沙門堂や五重塔の礎石、往時の寺院の址等平安期から傳はる古刹を詳細に調査して引あげた

史跡指定の申請予定

山陽新報 昭和十一年四月六日(月曜日)

聖蹟、史蹟の

指定申請方慫慂

三蟠村ほか四ヶ所

早速県より申請せん

文部省國宝保存會荻野仲三郎博士は過般來岡、縣下の聖蹟、史蹟、名勝、天然記念物の調査を行つて歸京したが、今回文部省から縣當局へ對し明治天皇聖蹟として上道郡三蟠村、同古都村、都窪郡加茂村惣爪の三ヶ所、史蹟として備中松山、福山兩城趾に対し指定申請書提出方を慫慂し來つたので縣當局では書類の調整を急ぎ、遅くとも四月下旬ごろまでには提出の運びである、聖蹟については云うまでもなく松山、福山兩城址も史蹟として指定されることは間違いのないところとされてゐる

福山神社の創建計画

山陽新報 昭和十一年四月十日(金曜日)

福山神社創建

堀内中將を期成會長に推して

場所は舊城廓内の高臺

昨秋六百年祭を擧行した南朝の忠蹟岡山縣都窪郡山手村備中福山城址に紀元二千六百年を期して福山神社を建立すべく、地元に福山神社創建期成準備會が起され既に熱心な運動に着手した、發願の中心は福山城址保勝會副會長宮岡亮行氏(御前神社々掌)で

委員に眞邊英男、高杉剛、高杉勇、劍持正雄、守安納平、友野猛雄、三宅靖哉、井上清嗣、高杉鋭治諸氏

を擧げてゐる、八日には宮岡氏や保勝會の總務劍持定太郎氏、友野書記等が城址に登つて實地の踏査を行つた結果、舊城廓内南端の高臺を社殿の建設地に選定した

祭神は福山合戰の主將贈從四位大井田氏經卿とこゝに戰死した南朝方の忠臣志士一千三百五十三人で、社殿としては本殿、幣殿、拜殿、社務所、神饌所の各建物、大鳥居、玉垣等一切を備へ、基本財産を合せて建設費總計一萬五千圓と計上されてゐる

神社建設に當つては堀内中將を期成會の會長に推し秋岡明治神宮權宮司、頭山滿、有馬大將、荒木大將、内務省宮地考證官等中央の名士および地方の名士を顧問とし、なほ都窪、吉備、倉敷、三都市の町村長にも參加を求めて、將來この範圍の人々を崇敬者とし、維持方法を樹てる段取である

記念祝賀会(予定)

山陽新報 昭和十一年四月十九日(日曜日)

福山城址の頂に

“十勝地”記念額

お城の礎石にはめ込んで

ちかく記念祝賀式

岡山縣都窪郡山手村にある備中福山城址は昨秋擧行した本社主催の新選名勝投票に堂々十勝地の榮位を獲得したが、本社から贈つた輝く記念額は福山城址保勝會の手で建碑工作を進めてゐたところ、このほど竣工、日を改めて記念祝賀式を擧行することになつた

碑は山頂本丸の一角、大國旗塔の近くに東面して立ち、福山城の礎石と思はれる自然石を自然の盤石の上に建てたもの、十勝地記念額をはめ込んだ下には御前神社々掌宮岡亮行氏揮毫にかかる“福山城址”の文字が深く刻まれてゐる

なほ忠蹟福山城址には陽春を共に登山者が激増してゐるので、山頂には休憩所、賣店なども出來たが、何分昨秋宣揚事業が行はれたばかりで何一つ土産がなかつたが、今回宮岡氏らの考案で安價で面白い福山土産が數種出來あがり登山客にお目見えすることになつた

何れも“忠蹟福山”に縁りをもつもので、城將大井田氏經の土偶人形、忠靈鳩、魔除け鈴に魔除刀、兜形盃、ハンカチ、或は福山に多い竹材木材で鶯笛、鳩笛なども造られ、エハガキも新製される、これらの賣上げ純益は福山神社創建費に繰入れられるものであると

福山合戦601年祭

山陽新報 昭和十一年五月二十日(水曜日)

福山合戰

六百一年祭

地元民三千

餘名參列

昨年備中福山合戰六百年祭を執行した福山城址保勝會(都窪郡山手村)では去る十六日午前九時から福山々上忠靈殿前に六百一年祭を盛大に執行、當日は友野保勝會長(村長)劍持總務、岡田山手校々長、高杉常務理事、小學校職員兒童、各種團體長、青年學校生徒一般村民ら合計三千餘名登山し、副會長宮岡亮行氏齋主となり井上清嗣室山和清氏ら祭員となって嚴かに祭典を行った、當日は本丸跡の大國旗塔に大中黒ニ引兩の大井田氏經卿の旗ニ旒を掲げ、紅白の吹流しで色彩り祭典後には青年學校生徒一同が劍持遠藤兩指導員に指揮されて往時をしのぶ模擬山岳戰も演じた

今後は毎年五月十六日(福山合戰の日)を恒例祭と定めて慰靈祭を執行し、一時的の記念事業に終らぬやうに務める筈である

史跡指定の申請調査

山陽新報 昭和十一年五月二十五日(月曜日)

史蹟の指定申請

明治天皇御野立所と

松山城、福山城址を

岡山縣當局では史蹟、名勝、天然記念物指定申請地について銓衡を行つてゐたがいよいよ縣下から上房郡高梁町松山城、都窪郡山手村福山城址の二箇所並に和氣郡三石町八木山、上道郡古都村宍甘、藤井都窪郡菅生村西岡、同加茂村惣爪、上道郡三蟠村江並の六御野立所、御少憩所を史蹟として申請するに決し、主管の社會教育課森定視學は書類調整のため二十五日松山城、二十六日菅生村以下順次歴訪、六月二十日までに文部省宛提出することになつた、大體縣當局の豫定では九月の文部省史蹟審査會にかけられ、指定されるものとしてゐる