泣菫詩碑

泣菫詩碑について

泣菫詩碑は倉敷市連島町西之浦にある厄神社の境内に建っています。

屏風のように配置された6枚の御影石のうち、右の2枚に備前焼の陶板がはめこまれていて、その陶板に薄田泣菫の詩「ああ大和にしあらましかば」が刻まれています。

ああ大和にしあらましかば

薄田泣菫

ああ大和にしあらましかば、

いま神無月、

うは葉散り透く神無備の森の小路を、

あかつき露に髪ぬれて往きこそかよへ、

斑鳩へ。平群のおほ野高草の

黄金の海とゆらゆる日、

塵居の窓のうは白み、日さしの淡に、

往にし代の珍の御經の黄金文字、

百濟緒琴に、齋ひ瓮に、彩畫の壁に

見ぞ恍くる柱がくれのたたずまひ、

常花かざす藝の宮、齋殿深に、

焚きくゆる香ぞ、さながらの八鹽折、

美酒の甕のまよはしに、

さこそは醉はめ。

碑の側にある説明板には、

薄田泣菫詩碑

六枚の乱れ屏風の形よりなり、左から鋭角、直角、鈍角で、鋭角は、泣菫の初期、直角は中期、鈍角は、後期の作品を表現している。

その後期の部分には泣菫の直筆で詩集白羊宮にのせられている代表作「ああ、大和にしあらましかば」が伊部焼として刻まれている。

詩碑の中央からやや左手に筆塚がある、これは、橘太夫の厨子を最も単純美的に表現したもので、その地下には泣菫が生前つかっていた筆を納めているこの詩碑は乱れ屏風の御影石の白と更緋折壁石でできている、黒い筆塚のポイントは詩碑全体のバランスの美しさを示し太陽の移動によって創られる陰影の変化は面白く谷口吉郎博士の代表作の一つでもある。

(詩碑裏面一枚目の日夏耿之介先生の碑文参照)

詩碑の裏面を見てみると、読みづらいですが文字が刻まれています。

右下には、

設計 工学博士 谷口吉郎

撰文 文学博士 日夏耿之介

賛助 芳名壱万余人

工費 約七拾萬圓

後援 毎日新聞社

竣功 昭和二十九年十一月

薄田泣菫詩碑建設會

常任委員 三宅千秋

松枝 喬

服部忠志

陶工 木村一陽

石工 連島石工組合

土工 大本組

左上に日夏耿之介直筆の撰文があり、

薄田泣菫名は淳介明治十年五月十九日岡山縣浅口郡連島町大江

に生る三十二年初て詩集暮笛集を公けにす三十四年ゆく春三十八年しら

玉姫及二十五絃四十年に至て白羊宮を上梓して一代の詩名こゝに定まる別に

美文集落葉已下十有餘冊の詩文集の外全集八巻あり昭和二十年十月

九日故山に逝く享年六十九歳まことに現代文学の先蹤とて明治新

體詩形の明治的なる完成は詩友蒲原有明上田敏二家と鼎起して

能く成就せしものに拘りその古典的浪曼詩風の藝術は我國近代文学史

上不滅不減の光芒を放ち炳として海東の千戴にかがやくもの也

昭和二十九年四月 辱知 文学博士 日夏耿之介

野田宇太郎『公孫樹下にたちて 薄田泣菫評伝』にも日夏耿之介の顕彰文が掲載されていますが、実際に泣菫詩碑に刻まれている文字と見比べてみるとところどころ異なるようで、『暮笛集』の出版年が明治33年ではなく明治32年だと指摘していますが、泣菫詩碑にはきちんと「三十二年」と刻まれています。

厄神社以外の泣菫詩碑(2組目・3組目)

泣菫詩碑にはめ込まれている備前焼の陶板は、厄神社のものの他に数組が存在し、建設委員会の三宅千秋氏と松枝喬氏が保管していたそうですが、現在(2017年)、厄神社の泣菫詩碑のほかに倉敷市内の3ヶ所に建立されています。

倉敷市立連島西浦小学校校庭(2組目)

昭和35年(1960年)に建立された倉敷市立連島西浦小学校の校庭にある泣菫詩碑。

石碑の裏面には、

昭和三十五年三月

PTA役員一同

代表 松枝 喬

薄田泣菫生家(3組目)

薄田泣菫顕彰会の『薄田泣菫生家保存の発端と経過』によると、この陶板は松枝喬氏の庭にあったもので、平成14年(2002年)に松枝喬氏の子息から倉敷市へ寄贈されたものだそうです。碑の裏側には何も刻まれていないので建立年などは不明ですが、生家が一般公開された平成15年(2003年)であろうとのことです。

特徴としては陶板が石にはめ込まれていないので、陶板の厚さがわかります。


また、この陶板は松枝喬氏が寄贈したものということなので、連島西浦小学校の泣菫詩碑は三宅千秋氏が保管していた陶板と推測されますが、PTA役員代表として松枝氏の名前が記載されているので、松枝氏が小学校の詩碑建立に提供したのちに、三宅氏から松枝氏へ委譲したことも考えられるため、確証が得られない現時点では不明です。

この記事を書いた2017年6月2日時点では、泣菫詩碑の陶板は3組のみが存在し、厄神社の泣菫詩碑、三宅千秋氏と松枝喬氏が各1組ずつ保管していたのだろうと思い、どのように融通しあって結果建立されたのかを解明しようと試みましたが、調べていくうちにもう数組あることがわかり、連島西浦小学校の陶板も松枝喬氏が保管していたものかもしれませんが、現時点では不明です。

4組目・5組目の泣菫詩碑

薄田泣菫顕彰会の『薄田泣菫生家保存の発端と経過』によると、泣菫生家の陶板は松枝氏が所蔵していたものであり、設置の経過についての概略が掲載されています。

また『薄田泣菫生家保存の発端と経過』には陶板について、出来の一番良かった「厄神社」のものの他に、「連島西浦小学校」に設置されたもの、「倉敷市中央図書館」に寄贈したもの、松枝喬氏が所蔵し「泣菫生家」に設置されたもの、合計4組の泣菫詩碑が存在しているような記載がありました。

倉敷市立中央図書館(4組目)

『薄田泣菫生家保存の発端と経過』によると、泣菫詩碑と同じ陶板が数組作成され、「倉敷市中央図書館」にも陶板を寄贈したと書かれていたので、現在どのようになっているのか、倉敷市立中央図書館で確認してみましたが、現在所蔵はしていないようで、そもそも寄贈があったかどうかについても資料がなく不明であるとのこと。

薄田泣菫顕彰会に何かしらの情報があるかどうか泣菫生家へ訪ねてみたところ、事務局長さんから以前、倉敷市立中央図書館の職員の方から、図書館で所蔵されているという話を聞いたことはあるけど、実際に確認はしていないとのことでした。

4組目については、まず最初に図書館へ陶板が本当に寄贈されたのかどうかを確認する必要がありそうです。

倉敷市立連島東小学校(5組目)

4組目の陶板について薄田泣菫顕彰会の事務局長さんから話しを伺っているときに、三宅千秋氏の旧宅を整理している際にもう一組の陶板が発見されたことを教えていただきました。事務局長さんはまだ現物を確認していないようですが、いずれ連島東小学校に設置されるのではないかということでした。思いがけず、5組目の陶板の情報を入手しました。

複数作成した陶板のうち最も出来が良かったものを「厄神社」、松枝喬氏が所蔵していた陶板は「薄田泣菫生家」だったので、「連島西浦小学校」のものは三宅千秋氏と推測していましたが、三宅千秋氏所蔵の陶板が設置されず存在しているようなので、連島西浦小学校の陶板は誰が所蔵していたのか、そもそも陶板が何組存在していたのか、疑問が増えました。

番外編:JR児島駅前の公園にある泣菫詩碑風の文学碑

JR児島駅西口から民話通りへと進んでいると南側に小さい公園があります。そこにある文学碑が泣菫詩碑と同じような六曲屏風の意匠で建立されています。もともとは倉敷市立児島図書館(児島小川町3672)の敷地内に建立されていましたが、児島図書館が平成23年(2011年)に現在の場所(児島味野2丁目2-37)へ移動したため、この場所に移設したようです。

実際に泣菫詩碑を意図したものかは不明ですが、とても似ているのでここに載せておきます。

ライオンズクラブ国際協会/編 『万葉の歌碑建設完成記念』を読んでみると、大伴旅人についての解説などが掲載されていましたが、碑の意匠については何も載っていませんでした。

泣菫詩碑と同じく右側から、鈍角、直角、鋭角となっています。

この文学碑には、万葉集の歌が刻まれています。

一番右には万葉集第六巻(966)に載っている筑紫娘子の歌、

筑紫娘子児嶋

倭道は雲隠りたり

然れどもわが振る袖を

無礼と思ふな

倭道者 雲隠有 雖然

余振袖乎 無礼登母布奈

右から2番目には同じく万葉集第六巻(967)の大伴旅人の歌、

大伴旅人

倭道の吉備の児島を

過ぎて行かば筑紫の

児島思ほえむかも

日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者

筑紫乃子嶋 所念香聞

一番左の石の表面には、

尾崎芳郎 謹書

裏面には、

ライオンズクラブ国際協会336-B地区

第26回(1979~80年度)地区年次大会

の記念事業としてこの「万葉の歌碑」を

こゝに建設す

1980年10月 吉日

1979~80年度336-B地区

ガバナー 尾崎芳郎

キャビネット 幹事高畠 退策

大会委員長 洲脇勝太郎

大会事務局長 高畠信明

番外編:津山市長法寺の泣菫詩碑

津山市井口にある長法寺にも泣菫の詩碑があります。

今回はせっかくなので公孫樹が黄色くなっている時に合せて行ってみました。

この詩碑には「公孫樹下に立ちて」の一節が刻まれています

薄田泣菫詩碑

公孫樹下にたちて(一部)

泣菫

銀杏よ、汝常磐木の

神のめぐみの緑り葉を

霜に誇るに比べては

何等自然の健兒ぞや

われら願はく狗兒の

乳のしたゝりに媚ぶる如

心弱くも平和の

小さき名をば呼ばざらむ

絶ゆる事なき戦ひに

馴れし心の驕りこそ

永き吾世の存在の

榮ぞ、價ぞ、幸ぞ

この碑の背面や側面には何も刻まれていないようです。

碑の脇には、薄田泣菫についてのものと、名木百選についての説明板があります。

薄田泣菫先生

(ススキダキュウキン)本名は淳介

明治十年、岡山県浅口郡連

島町に生る(現在倉敷市)毎

日新聞学芸部長となる。

記者としてよりも詩人とし

て有名なり。

昭和二十年十月生家で其の

生涯を閉ぢた。原作は明治

三十四年十月三十日、当寺

近辺を逍遙、大公孫樹を見

た時の作、彼二十五才の時

なり、詩の全文は三章百行

に亘る大作なり。

名木百選

長法寺のイチョウ

イチョウ(イチョウ科)

津山市井口

推定樹齢 二〇〇年

明治の詩人薄田泣菫が

その名著「二十五絃」に

出した長詩の一節の

モデルといわれている

イチョウである。

番外編:「作の七日」を辿る

上記の津山市にある泣菫詩碑を見に行ったついでに、薄田泣菫が明治34年10月に津山市を訪れた際の日記、「作の七日」を参考にしながら津山市を探索してきました。

明治35年1月発行の雑誌『小天地』に「公孫樹下に立ちて」の初出と、泣菫が津山市を訪れた時の日記「作の七日」が掲載されています。

→「作の七日」を参考に現地を辿ってみる。

参考資料

松村 緑/著 『薄田泣菫考』 教育出版センター 1977.9

野田 宇太郎/著 『公孫樹下にたちて 薄田泣菫評伝』 永田書房 1981.3

谷口 吉郎/著 『谷口吉郎著作集 第4巻 作品篇1』 淡交社 1981.12

野田 宇太郎/著 『野田宇太郎文学散歩 第21巻(上)山陽文学散歩』 文一総合出版 1982.7

松枝 喬/談話 『泣菫詩碑建立の思い出』薄田泣菫顕彰会 2001.3

満谷 昭夫/著 『泣菫残照』 創元社 2003.1

黒田 えみ/著『薄田泣菫の世界 (岡山文庫245)』 日本文教出版 2007.2

『薄田泣菫生家保存の発端と経過』 薄田泣菫顕彰会 2015.3

『小天地』 金尾文淵堂 1902.1

ライオンズクラブ国際協会/編 『万葉の歌碑建設完成記念』 地区大会記念事業実行委員会 1980.10

更新履歴

2017年 6月 2日 作成
2017年 7月 2日 追記 4組目・5組目の泣菫詩碑
2017年11月2日 追記 JR児島駅前の文学碑
2021年6月
8日 新しいGoogleサイトへの移行に伴いレイアウトを変更