山陽新報 昭和十一年一月五日 (日曜日)
十勝地巡り 【4】 青本生
幽寂な仙境に懸る
高松“常昌院の瀧”
眺める瀧よりも打たるゝ瀧
淺春譜を唄ふ老鶯
中國線高松驛から東北へ十四町、寒鴉の群とぶ霜枯れた田圃を縫うて進めば、冬木立に凩の吠える石井山と、小松林が黄緑色のウエーブを刻む鼓山の間を清冽な水を湛へた妙見川が■々の音を立てゝ流れてゐる。山容漸く迫る
山懐に怪鳥が翼を擴げたやうな老松の高木斑に立ち、楠の木の緑葉が常緑樹の孤節を誇り■に枝を張つた閑雅清爽な盆地がある。
ゴウと、松が枝を揺がして北風が過ぎてゆくと、香の匂がプンと鼻をつく。冬呼ぶ寒太鼓の音が讀經の聲に和して浄地の詩を奏で淙々、■々、飛瀑の音が松籟の絶間を縫うて聞えてくる。
そこは吉備郡高松町字立田、往古から妙見瀧として知られた高松常昌院の瀧である、古淡幽雅な本堂妙見宮、庫裡、參籠堂が曲りくねつた矮松に包まれて點在する傍らに『縣下十勝地高松常昌院瀧』と
墨痕鮮やかに記した丈餘の白木の標柱が立つてゐる。
常昌院瀧の由來はまた古く安政二年備中庭瀬の藩主野崎庄兵衛なる人が妙見大師を信仰すること厚く、北辰妙見大菩薩の尊號を岩上に刻し、同氏と共に日夜開運勝利を祈ること久しく、偶々明治三年五月丹波の聖人足立月祥が靈地たるを知って、領民に荒■を開拓せしめ一草庵を建立したもので、それ以後は近傍からの參拜者は四季を通じて踵を接し、香煙縷々として絶ゆることなく、當時人々は妙見瀧と呼んでゐたが、越えて明治二十六年三月、月祥の遺弟、門奈日惠聖人が甲州身延山の末寺として妙教山常昌院の寺號を請稱したと傳へられてゐる。
この瀧は妙見堂の傍らに老松槎牙と枝を交へ、楪、楓、櫨などの冬木立が銀の翼を擴げ奇巖、怪石の間に蘚苔類が黄緑色の絨氈を布いた幽寂な仙境に懸つてゐる。丈餘の飛瀑は、妖蛇の正體の如く岨り立つ岩頭に猛然と落下して、岩より岩に躍り、岩壁より岩壁に砕け、飛沫は霧となり、雨と降り、日光を捉へては燦然たる金糸の色に輝き落下しては碧潭となり、流れては龍神の怒りを偲ばす奔流となつてゐる。院主藤田自然師と共に瀧の邊に立つた僕は思はず『快哉』を叫んだ。
かう寒くては瀧見物でもありませんが、脂汗の滲む土用の日にこゝで、打たれて御覽なさいそりやあ
素的ですよ。この瀧は見るよりも打たれる瀧ですからなア
と自然師は得意さうに僕の顏を覗き込んだ。梅林の清香微かに匂ひ鶯が林間に淺春の譜を唄ふころから、つゝじが小笹の間に紅い帶をちらづかせ櫻花が全山を包む陽春、さては炎熱岩を燒く盛夏のころ、こゝに杖曳けば山峭、岩壁の突兀たる山肌、閑雅、艶美な四周の奇勝と、鬼氣迫る奔潭飛瀑の洗禮をうけて五体に巒氣迫り身を遙な仙境に運び去るに違ひない。
せまりて暗き峽より
やゝひらけたる深山木の
× ×
葉末を深くかきわけて
谷の彼方に來てみれば
いづくにゆくか瀧川よ
青き巖に流れ落ち
藤村の『深林の逍遙』が謳ふ詩の中の人となつて瀧壺から老松の根を洗ふ溪流に
沿ふて小笹と落葉を踏みしめ約一町ばかり登ると、十五万石の水を湛へてゐるといはれる水源地『長池』が、小松の根を浸して哲人のように長く横たはつてゐる。池といふよりも寧ろ沼に等しく魔魂を秘めて明鏡の如く澄んでゐる。仰げば林相美を誇る『平山』が褐緑色に妖しく搖れる。万象口を噤んで洞然と暮れてゆく眞冬、山の理性は深い眠りに陷ち、大自然は死せる沈黙の中だ。僕等の姿を倒影した水は今にも沼潭の妖性を現はしさうだ。山と水の玄妙な洗禮をうけた僕は急いで坂道を降りた。梅もどきの實が■り赤く輝く庭園を前に本堂の縁側に腰を下した自然師が徐に語る將來の計劃と抱負はかうだ。
新たに組織された常昌院瀧保勝會が音頭をとつて瀧壺の下に長さ五十メートル、幅二十メートル、のプールを作り夏季は水泳場に當て、冬季はローラースケート場とする外、本堂裏の荒地を開拓してグラウンドをかねた夏期林間學校を開設附近の生徒兒童達に紅塵を拂つた、草の上の教育を施さうといふ計劃が進められて居り、嵐山附近の景勝に酷似してゐると、曾つて田村博士が激稱したことのある沼澤點々と散在する同院より平山を越えて稻荷山に通ずる山路を改修して最上稻荷と、高松城址、常昌院を繋ぐ三角形のハイキングコースを新設、四季の遊覽客に呼びかけまた境内を中心に、附近一帶の櫻、萩、楓等の増殖、保存に積極的に乘り出さうといふのだ。
石井山の中腹には曾て、秀吉が清水城攻撃の際、腰を掛けたと傳へられる太公腰掛岩があり、皷山の麓には毛利の
密書を杖の中に仕込み持つて、盲人に化けてゐた敵の間者を秀吉が看破して斬つて捨てた場所だと傳へられる盲目岩など附近には血腥い戰國古戰場の秘史を藏して居り、神奇妙異な天然の峽谷美と、風致美に惠まれた高松常昌院瀧は人工の施設と相俟つて、縣南部有數の遊覽地としてデビユーすべく將來への大きな期待がかけられてゐる