【6】 矢上山寶島寺

山陽新報 昭和十一年一月十七日 (金曜日)

十五景地を巡る 【六】 大森生

酒の本場連島の誇

寂嚴で名高い寶島寺

壇浦、那須與一の矢が流れ着いた矢上山

山頂からの眺め頗るよし

十五景第六位の矢上山寶島寺は酒の本場備中連島の誇りである、倉敷、西阿知、玉島、何れの驛からもバスで約二十分、矢柄部落で車を棄て千石酒屋の大きい醸造倉がいくつも立並ぶうちを北へ二三町ゆくと

矢上山麓に古けた丹色の仁王門が見える、眞言宗の巨刹寶島寺の正門である、兒島高徳の寄進といふものもあるが確證はない、塵一つ止めぬまで清掃された庭を拔け客殿で三十七代の現住職子寛丈師から寺の古事を聞く、梵學の泰斗、書の大家として名高い第三十一代住寺寂嚴師が書遺した卷物によると

貞觀年内聖寶尊師が開基し境内は今の山門から南一町位までもあつたが池田公の■迫をうけ、また慶長年間には火災にかゝり堂宇、寺院、典籍、古記など一切燒失し殘つたのは聖寶尊師眞臨の華嚴経一卷と

日本に七幅しかないといふ尊師作の弘法大師像のみで本尊阿彌陀如來は空意上人が紀州根來寺から迎へたとのことである

寶島寺を語るに高僧寂嚴を忘れてはならぬ、いや寂嚴によつて寶島寺の盛名の七八割を占めてゐるのである

寂嚴は元祿十五年(今から二百三十五年前)足守藩士安富家に生れ、九歳の時宮内普賢院に弟子入りし十九の時倉敷市圓福寺に移つた、その後梵學を研ぎ、書を究め四十で寶島寺に入り、寺域を擴め巨石を整理し、遠く成羽に材木を求め、或は一文講を起して堂宇を修理し、寺の經營につとめるかたはら全國各地に布教講説を續けた、六十六の時、高弟文敞に讓るまで

二十餘年の努力は今日の寶島寺の基礎を成してゐるのである

寺にある寂嚴贊文の畫(弟子の寂津大円が描く)によつてみると寂嚴は頭の頂が三角に尖り額にしわを寄せ鼻は天狗のやうに飛出で箪笥の引手のやうな口には犬齒がが二本のぞいてまるで面でもかぶつてゐるやうだ、“これが寂嚴か”と思ふほどであるが一世に並びなき碩儒と聞いては敬意を表せざるを得ない日本一の書家を以つて任じてゐた

寂嚴の逸話に高野山弘法大師九百年忌で卒塔婆を書いた時“關東に何人ありや”と聞いたそうである

明和八年玉泉寺で大往生をした七十歳の絶筆屏風一双は兩界曼陀羅二卷、涅槃像二幅、円山應擧の幽靈と共に寺寶となつて居り、近く寂嚴堂を建て他の遺墨と共に散逸を防ぐことになつてゐる

何分現寛大師は東京から寺寶を國寶にすべく調査に來た際“二百や三百の金を貰つて世話をするのは却つて煩い”と斷つたといふ恬淡さだから……

寺を辭し保勝會片山三宅兩氏の案内で裏の矢上山に登る、僅か

百米餘りの小山で中腹以上は道らしい道はないがやがて寶島寺公園として櫻も育ち登山道も改修され寺を訪れる善男善女の展望台としてデヴユーするであらう

眼下に連る美田、連島新田はもともと内海の一部で連島は周圍二里ばかりの一孤島であり福島といひ兒島郡に屬してゐたが慶長五年福島正則が備後福山の城主となつた時、氏と同名であるのを避けるため連島と名付けたのである、また矢上山の名も源平の戰に壇の浦で那須與一が扇の的を射た鏑矢が流れ流れてこの浦に着いたことから起きてゐるともいはれてゐる、その矢は未だに寺に保存されてゐる、いろいろ説明を聞きながら

頂上に出ると東は倉敷岡山兩市は指呼のうちにあり、北は疊々たる山岳相連り、南は内海の諸島が一幅の名畫をなしてゐる、この眺望、この傑僧を生んだ名刹、一日の清遊にはもつてこいのところであらう