【5】 少林寺山

山陽新報 昭和十一年一月六日 (月曜日)

十勝地巡り 【5】 田中生

松の操山を背景に

輝く五百羅漢少林寺

名物は“羅漢”と“庭”と“曙椿”

得意の頂上宗猿和尚

少林寺の和尚さんは、今、得意の絶頂である。

皇紀二千五百九十六年の、惠に溢るゝ天日が、寺にも羅漢堂にも、サンサンと降り注いでゐるからである。その、あたゝかい天日が、只、自分の寺山の上ばかりに降りそゝいでゐるやうに、和尚さんをすつかり嬉しくさせてしまつてゐるのである。

これが十勝に入つた山かと思つて、常磐木の少林寺山を仰ぎ、やがてポツポツと綻びるであらう

梅林の梅の梢をつゝきながら、和尚さんはいま境内のお手入れに餘念がない。

自分の命よりもと可愛がつた寺が……、山が……、五百羅漢が……、五百万票に埀んとする投票によつて、岡山縣十勝に入選したのである。

南日の容赦なくさし入る本堂の縁側には、お茶人たちの所望で描きなぶつた白隱張り自畫贊が、數限りなく並べられて、隙間風にふわりふわりと動いている。

『十勝に入つてからあんなものでも貰ひ手が殖えたのぢや』

和尚さんはそんなことまでが自慢の種である。

やがて山の中、屋敷の中に、獨立した茶室の二つ三つ位設けられるであらう。

十勝に入つてから茶室を寄附しようといふ人が殖えて、和尚さんはこのごろ、場所の選定のために、暖かい日にはかうして境内のあちらこちらと物色して歩いてゐるのだとのことであつた。

大宮御所の茶室の設計を承つた木津宗匠から三猿公記念の茶室の設計書も先だつて届けられ『ひねくり廻つて樂しんでいる』との話である、設計通りにすれば何万円もかゝるだらうが、まあそれは五十年の後として、さしあたりほんの一部分だけを『ヘソクリ金で取りかゝらうか』などゝ

子供が自動車を買つて貰ふ時の樣な嬉しさである

『先だつて京都からこんな本を送つて來たがのう。この通リちやんとうちの庭のことが書いてあらうがの』

和尚さんは重森三玲氏の『林泉』を持ち出して來て、寫眞の載つてゐるところを開いて出す、それにはかういふことが書いてあつた。

國富山少林禪寺は岡山市の東北操山々麓國富に所在する臨濟宗妙心寺所屬の一名刹である。…當寺の庭園は書院の東庭として作られたもので、書院から本堂裏にかけて築園せられたものである、其の地割は大略短形地占めてゐる、本庭は眼前に聳える操山を背景として作られたところの

借景式純觀賞園である、初當庭の作庭年次については、此れといふ文書記録は見當らないから、明確にはされない、併し傳説によると後樂園の作庭家と同一人によつてなされたといはれてゐる、即ち後樂園は貞保三年池田綱政公の命によつて、家臣津田佐源田永忠が奉行として工事を綜括し、貞享四年十二月から着工し初めて以來、前後五回、元録十三年に至る十四年間に作庭せられたことが知られる、此の津田永忠によつてされたとすると、當寺が現地に移建されたころは廿一歳の青年で、日々國事の爲に東奔西走せる折なれば、此の頃には恐らく庭園趣味などはなかつたのではないかと考へられる、又一面移建早々築庭されたか、四十年餘の間に漸次作庭されたか、或は元禄前後になつて修築又は改作されたかは不明である、然し樣式から云ふと、江戸初期も少し遅い處、即ち元禄前後にもつて來るのがよいのではないかと思はれる、だからといつて永忠に結びつけるわけではないが、此の時分にされたとすると、或は

綱政公等の庭園趣味よりする援助があつたかも知れない、といふわけは、忠興と綱政は親類の間柄であり、且伯父と甥の子との關係なれば、伯父が發狂し遂に己が領内にて、淋しく去つて行かれたのをはかなみ、其の靈を慰めるために、其の菩提寺である當寺(少林寺)の造營といふことも考へられないことはない……

と、細々と庭園増築の年代と作者とを詮索してある。

『田村博士も此庭を見て、後樂園と同じ作者の樣に思ふから、形を破さずに、大事にしてくれと云つてをられたのぢや』

と庭のご自慢一くさり、『あけぼのが咲き出しましたね、もうソロソロ芭蕉庵や翁軒の

羊羹に不自由なしといふ處ですかな』と尋ねると『そうぢやそうぢや、十勝に入つたら、今年からあけぼのも羊羹二箱に値上げぢや』とは、何處まで十勝が利くことか……?

『五百羅漢は何時ごろの作ですか?』と尋ねると

『天明四年當山七世能嶽和尚の願力での、一體出來たらそれを背中に負ぶつて市中を歩いて寄附を募つて作つたのぢや、この石垣や石段もみんな和尚が自分で作つたといふ、力の強い坊さんぢつたのぢや、道を求めて集まる雲水も時には二百餘人におよんだといふのぢや、まあ

お寺の自慢といへば、この五百羅漢と庭と曙椿と、それからこの上の山の中にある大岩は、ほんとに眺めのよい岩ぢや』『それからも一つ、お手近の名物は宗猿和尚さんですか?』と尋ねると『それ、それ、この通リ頭のよい坊主ぢやでのう』とテカテカの流線型を自分で押へてござる。

ふりかへれば、『さようなら』と挨拶したい樣な、操山が降り注ぐ天日の中に眠つてゐる。

さんさんと冬日さし入る寺山はなべて赤松木のほそりたる