山陽新報 昭和十一年一月二十六日 (日曜日)
十五景地を巡る 【十三】 大森生
處女地の大島みたけ
明粧、近く觀光線上に輝かん
雄大な展望植物昆虫は多種、多樣
酒男で全國的に有名な備中杜氏の本場淺口郡大島村に新しい誇りが一つ増えた、岡山縣十五景御嶽山である、“未だ何も知らない處女です、これからボツボツ化粧しますよ”と渡邊村長は曰ふ、實際大島みたけさんは
肩揚げの取れないほんの子供である、遠くの人が知らなかつたのも無理はない、然し天賦の麗容は漸く世人の注目を惹きそめた、育ての親、渡邊村長、島村助役を中心とした御嶽保勝會では大島杜氏を全國的にまで仕上げたあの粘りと努力で處女みたけさんを三國一の花嫁に磨き上げようと大童らである。
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標高三百二十米、登山口は西大島、大島中、正頭、鳥の江と四つある、昔芳烈公の命で手習所のおかれてゐたといふ西大島石砂口は最も道がよい、山頂の兩高寺盛大なりし頃の一坊であつた
岡御堂を見て石砂上池の畔に出ると神邊城主藤井高玄の石碑がある。
織田信長に通じてゐた廣玄廣貞父子は毛利勢のために追はれ御嶽山に籠つたが衆寡敵せず遂に池畔に討死した、廣貞は父の首級を此所に■し暗夜にまぎれて山を拔け再び神邊に花を咲かさんと畫策これつとめたが天運時利を得ず恨みを呑んだところだ
だらだら坂を登りゆくと迫門灣に臨む蜜柑の産地鳥の江に出る、ここから上は道らしい道はない、熊笹生ひ茂り難行此上もない、流れる汗をおさへて御瀧神社一の
鳥居をくゞると間もなく第一展望所に出る、四株の老松の下ベンチに憩ふと海峽の風光、神島の麗姿が眼下に展開する、もともと迫門灣は神武帝御東征の昔から内外交通の衝に當り吉備眞備、阿倍仲麿入唐の際波舟を留めて風光を賞で、又頼山陽、僧月照等もしばしば清遊を試みたところだ。
大王之遠之朝廷跡蟻通島門乎見者神代之所念(萬葉集)
ともすれば御嶽おろしの夕日かたあらぬ蝉門にさいのたつらむ(泰祥)
珍奇な草木を眺めながら赤土の急峻な山徑をよぢると間もなく龍王樣の鎭座まします山頂に出る、昔藩主の雨乞祈願所であり今も雨乞神事は行はれてゐる、南方円形の地は御嶽神社(權現樣、御瀧神社とも云ふ)の舊址で時折り掘出される古瓦が華かなりし平安朝時代の俤を偲ぶのみである。
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山頂の展望は内海國立公園中無二の絶勝である、多島海を誇る内海の風光が双眸のうちにあり翠巒碧水に浮ぶ
繪畫美は登行の痛苦も忘れしめるに十分であらう。
永祿の古戰場正頭浦、風光美の天王海岸、三ツ石の絶景、踊りに名高い白石、北木、仙醉島、大工の産地鹽飽七島、その他數々の島々が指呼のうちにある、更に眼を遠くやれば伊豫の石槌山、讚岐富士、五劍山、小豆島、伯耆大山等が■表に聳えてゐる。
雄大なこの展望に加ふるに植物昆虫の多いこと史蹟に富むこと他に比を見ないところだ、笠岡高女淺野教諭の調査によると高山植物も相當あるとのこと。
頂上を一周して鳥の江へ降る途中には觀世音三十三ケ所の靈場があり妙見の瀧と共に神靈いやちこなりと善男善女の參詣絶え間がない。
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御嶽山の南海岸には白砂青松の美しい長濱正頭、大工濱の汀が續いてゐる、枝ぶりゆかしい老松の木蔭に憩ひ遠く海波をかすめて吹き寄す清風を胸一ぱいにどれだけ爽快を覺えることであらう。保勝會では御嶽山頂の松樹鬱蒼たる私有地數町歩を買収し運動場を作り龍王社拜殿を改築して休憩所を兼ねしめ更に二間位のドライヴウエイをつけて南の濱と結び
海水浴と林間學校を併せた一大遊覽地とする計畫をたてゝゐる。
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山陽線里庄驛に下車して養狸場を視察し御嶽山頂を極めて雄渾の氣に浸り西に降つて名切部落の津雲貝塚を訪ね笠岡へ出るのは一日の清遊に面白い、“處女御嶽山”が明粧の日も近く大島杜氏以上に聲名を馳せるのも遠いことではあるまい。