【3】 高尾烏帽子岩

山陽新報 昭和十一年一月三十一日 (金曜日)

二十秀地を巡る 【三】 巌津生

奇岩中の記録破り

流石の太閤樣も手がつけられず

そのまゝにして今では展望台

高尾の烏帽子岩

高尾の烏帽子岩はとてつもなく大きな巖だ、それが折目正しく烏帽子岩を名乘つて新選名勝地に罷り出た景觀は、まさに新横綱男女川が紋付袴でのつそりと兩國橋に繰り出したほど

豪快味たつぷりである宇野線妹尾驛から西北へ十四五町、また山陽線庭瀬驛から東南二十四五町、都窪郡福田村大字山田字高尾(たこうと發音)は淳朴な農村で、名物烏帽子岩は小山つゞきの丘の上に乘つかつてゐる。

いや丘そのものが平地から生え拔きの一塊の巨巖で出来てゐて、標高ざつと三十餘米、上の面積が目測一反歩に近い、こんな花崗岩の丘を臺にして、今にも滑り落ちさうに乘りかゝつた岩の烏帽子は長さ十七八米、幅約六米

高さは約六米に及ぶ、凡そ奇岩中の記録破りである

烏帽子岩は有史以前に怪力の神樣が背後の山から轉がして來てこゝに乘せ、安定感がよくないので下に石の詰め木をして置いたといふ傳説があるが、臺石を承つた花崗岩の丘はところどころ打ち剥がれて、豐太閤が大阪城を築いた際に、お城の石垣にもつて行かれた、昔はこの烏帽子岩の近くまで海で、兒島灣の潮が湛えてゐたから、巨大な石材の積出しも容易であつたらうが、さすがに烏帽子岩だけは奇岩好きの

太閤樣のお庭にも持つて行かれず、依然として高尾の名物で今日に及んだのだ

烏帽子岩のある丘の上からは笹ケ瀬川に添ふ一帶の平野が滿々たる水郷氣分を湛えて見渡せるし兒島灣が銀色に輝き、金甲山の肩越しに小豆島が特異な姿を現はしてゐる、また岡山の市街も近々と眺められ、烏城の天主閣が操山を背景に大鳥瞰圖の一點をなして指呼される、北に向ふと金山から吉備中山も見え、易々として登り得る展望臺としても推稱するに足る

名勝地投票に中心となつて活動した高尾青年團では有志の應援を得て烏帽子岩を中心に遊園地計畫を樹て、附近一帶を

櫻林に仕立て、石材を採つたあとの窪地を利用して池をつくり、或は登山道や丘上の休憩施設をとゝのへ、岩上の山上大權現と不動明王の祠も改めて自然の匂ひ豐かな公園とするべく準備を進めてゐる

附近には坪井の梅林があり菅公の遺蹟腰掛天神もある