山陽新報 昭和十一年一月九日 (木曜日)
十勝地巡り 【8】 巌津生
六百年の昔を偲ぶ
忠蹟備中福山城址
山頂本丸跡に飜へる大國旗
“山陽道の大望樓”
赤松のすくすくと伸び茂つた山の尾根づたひに新しく福山登山道が切り開かれた、開かれた新道の道ばたにぼろぼろに錆び朽ちた
槍の穗や刀の切れつ端が赤土に交つて轉がつてゐたり古墳土器の破片が露出してゐたり、山頂に近づくと平安期を物語る巴瓦が發見されたりする。多くの古戰場がけろりと昔を忘れた自然の風情に復つてゐるうちに、備中福山ばかりは、合戰後六百年を經た今日、山肌一重剥げば神武延元の頃の山地戰の跡が蒼然としてわれわれの肺腑に迫るのだ、そして一山十二坊などと古い記録に誇大して殘されたと思はれた福山寺一山の莊嚴な法堂伽儖の跡が礎石に、發掘物に歴々と古記録や口碑を證明し、山岳佛教旺なりし頃の華やかな
面影をしのばしてくれる――岡山縣都窪郡山手村大字西郡の一里の松(一里塚)にほど近い舊山陽道に沿ふ登山口で自動車を乘り捨てゝ海拔三百三十米の山頂まで十一町登るにつれてしみじみと古戰場といふ感じが高潮する。たいていな古戰場は俗化してしまつたが、備中福山ばかりは掘り起されて此の世の空氣に觸れたばかりの古戰場だ、山頂本丸跡に昨年建てられた百尺の鐵塔に、大國旗がまぶしく飜つてゐる。
福山城は山頂にあつた福山寺の建物に城砦設備を加へたもので永山卯三郎氏の調査によると中央本丸に相當するところが南北四十間、東西二十間の廣場として殘り、北につゞいて南北五十五間楕圓形の廣場があり
本丸の南には東西三十間の幅員で南北二十間、十五間、百間の三段に分れて石垣がほゞ形を留めてゐる
延元元年四月十九日新田義貞麾下の勇將大井田式部大輔氏經が若冠十九歳でもつて二千騎を叱咤しこの山に攻め登り、足利方の將莊、眞壁らを降參させて籠城、南朝方の第一線を固めて尊氏直義兄弟の東上を待ち受けたが、同年五月十五日足利直義の率ゐる二十餘万騎が山陽道を東上して福山の麓に殺到したので、氏經は籠城の兵、福山寺、國分寺、淺原寺らの僧兵一千五百ばかりを提げて、福山の天嶮を利用し三日間に亘つて激戰、遂に
百對一にも足らぬ兵力量の差をもつて敗れ、殘兵百五十騎を纒めて三石に退いた。あまりにも悲愴な湊川合戰の前哨戰、南北兩軍の大勢を決した福山合戰は、不幸にして草に埋れたまゝ六百年を過ぎて來た。それで六百年を機會に地元山手村に福山城址保勝會が生れ建碑、祭典、山上施設、登山施設と昨年一年の間に嚴肅な姿を整へて縣下第一の忠蹟として世に出されたのであつた。
直義に燒かれて灰になつた本丸趾(福山寺跡)には忠靈を稱へる碑がいくつも建てられたが、足利方の戰死者二萬餘の亡靈を弔ふ『寄手追靈碑』も建てられた、山上には同じ
日の丸の國旗塔の下に恩讐を忘れた平和の愉悦が漲つてゐる
山頂からの眺望は非常に廣い、南には兒島半島の山端れから瀬戸内海が輝いて見えるし、北には國分寺の五重の塔や、三須の作山古墳や大化新政の遺制條理の跡もはつきりと眺められる、西は猿懸城阯あたりまで、東は兒島灣をさへ、『山陽道の大望樓』の名に背かぬ景觀だ(寫眞は城址本丸から瀬戸内海方面を望む)