【10】 由加山

山陽新報 昭和十一年一月二十三日 (木曜日)

十五景地を巡る 【十】 平井生

其昔の歡樂境由加

玉垣、石燈籠に見る古の繁栄

春は滿山花、新緑のころは杜鵑の聲を

交通に惠まれて再興近し

宇野線が開通するまでは四國へ渡る要津であつた兒島郡琴浦町田ノ口の港頭に石の

大鳥居がそゝり立ち、常夜大燈籠は海拔一千數百尺“朝は日輪早く照し、夕は神靈に遊ぶ”といふ靈地由加山に鎭座する瑜伽大權現の表參道を照してゐる、いまは昔、藩主池田公の奉幣使が綺羅びやかな行列を整へて參進し、九州から關東、奧羽から瑜伽大權現の神威を慕うて相衝いだ善男女の旅姿を“由加へ××丁”と苔に埋れた石のみちしるべで偲びながら――いまでは王子ケ嶽から

由加山へ拔けるハイキングコースとなつてゐる――登ること一里半で由加山に達する。

些か時代は古いが、人皇第四十五代聖武天皇の御宇に僧行基が“この島の中分に幽地あり、山高く巖深重にして靈木森々たり”とのお告げを神人から夢に受け由加山を開發、皎々として輝いてゐる大香木のあるを發見して十一面觀音像を彫り安置したのが、こゝ靈地由加の縁起、降つて桓武天皇の御代には坂上田村麿が神明佛陀の被加力で惡鬼阿黒羅王討伐に武功を樹てたといふやうな由加山に纏る物語りは書けば際限がない、がいまさらその必要もあるまい。

さて、幾基かの鳥居をくぐり、

幾百段の石段を上りつめると眞正面見るからに神寂びた神殿に鎭り給ふのが海上の守護神であり、火難、盗難除けの守護神として讚岐の金刀比羅大權現と相應じて崇敬される瑜伽大權現、その向つて左に幾棟かの古色を帶びた甍を連ねてゐるのが國寶守利の太刀をはじめかずかずの寺寶を有する眞言宗御室派準別格本山蓮台寺、右には縣社由加神社をはじめ觀音堂、大師堂、多寶塔と堂塔伽藍が建並び、玉垣に石燈籠には時代を異にした

寄進者の氏名――なかには芝居で名高い鹽原多助の名もみえる――が無數に連り古の繁榮を物語つてゐるそれに幾百年の年數を經た松杉が境内を埋め、その幹を透して西は鷲羽山から東は小豆島、對岸の讚岐富士までも望まれ、内海國立公園の展望臺をも兼ねてゐる、折柄吹いてゐる木枯にも靈地由加の山はしいーんとしづまり返り山に籠むる靈氣は寒いまでに迫つて來るといふ、自然の妙境に神佛の靈氣を織込んだ

法樂の聖地はよそでは見ることが出來ぬ、由加の山ならではと感じた。やがて來る陽春のころには聖地由加山もまた櫻、躑躅で滿山のメーキヤツプをほどこし、參道兩側の數百千株の櫻は花のトンネルをつくる、そして夏は萌え出づる新緑も由加の靈氣に霑うて一入濃いものがあるといはれ、老木茂る木立で聞く杜鵑の一聲はこれもまたよそでは■けない、都會の雜鬧から逃避して薫風に

清涼の氣を味はふによく秋は松茸狩にそして冬の雪景色にもまた勝れてゐるといふ餘りにも惠まれた地でもある。

“榮枯盛衰は世の慣ひとは云ひますが、宮内と由加だけに歡樂地帶が許されてゐたころの殷盛さは偲ぶよすがもありません”と御神燈を掲げた茶店の老婆は茶をいれながら記者に語つた一節だが、聞くまでもなく靈地に殘る一物一事はすべて由加盛衰の歴史を傳へ今日では南兒島で一千萬圓の生産をみせる織物もそのはじまりは土産物として賣出した腰紐から發達したといふ一事でも偲ばれる、だが由加の靈地は歡樂境の再現を必要としない、幾百千年間絶ゆることない由加の法燈をもとめて訪れる人達が俄に増しつゝあるといふのを見ても由加は靈地由加として健全な再興をはかるべきではなかろうか。

さあれ宇野線から、下津井鐵道から、田ノ口から宇野港からバスの便はよく、由加山保勝會でも觀光客の誘致宣傳につとめてゐる、繁榮の過去と觀光地として素晴らしい素地を有するだけ由加靈地の再興は遠い將來のことではあるまい。