【12】 宇甘溪

山陽新報 昭和十一年二月十一日 (火曜日)

二十秀地を巡る 【十二】 梶浦生

南宋畫の宇甘溪

溪流美の延長豪溪を凌ぐ

嶄然頭角を現はさんこの景勝

近く川魚料理を名物に

中國線金川驛から加茂行バスに乘車、金川町で旭川に合流する宇甘川の清流に沿うて上ること二里半、約三十分ばかりで、教化指定村御津郡宇甘西村に達する、こゝから約一里の間

加茂山の翠巒を仰ぎ蜿蜒とつゞく溪流に沿うてゆく、この溪流こそ縣下二十秀に選び出された宇甘溪である、そゝり立つ山は千本櫻が松や檜や楓などを交へて豐な林相を描き溪流に浮ぶ青銅色の奇岩怪石の布置、こゝはこれ南畫の天地である、春によく秋によく、晴れによろしく雨によろしく、雪また佳、溪流に沿うて逍遙すれば中空に屹立する烏帽子岩、神の鋸に刻まれた遊猿洞

奇態を誇る木靈岩、毘沙門■など我を忘れしめる奇勝、こゝ宇甘の溪流美はその距離、その長さにおいて遙に豪溪をしのぐものがある、今を去る四百年前、伊賀家隆、虎倉に城を築き、その子久隆の死後数ケ月、天正十六年の冬、久隆の子與三郎は居城立退を命ぜられ、播州駒山城の長船越中守代つて城主となつたが、間もなく家臣石原新太郎に刹せられつづいて新太郎も自殺し、遂ひに城廓を灰燼に歸したと傳へられ今も僅かに殘る

石崖や石礫にその址を偲ばせてゐる、宇甘神社はこれらの戰禍の祟りを除くために建立されたもので、三十八大明神が祀られてゐる、こゝ宇甘溪は曾て營林署が關西の景勝地として寫眞を天覧に供し奉り、また内務省では脇水、國分兩博士を派遣して調査を行つたし、觀光局では既に海外へ紹介もしてゐる、然るに今日までなぜ近縣の觀光地として嶄然頭角と伸ばしてゐなかつたか、それは、一部識者の間にのみ知られい一般大衆の間に宣傳されてゐなかつたためではなかろうか、廿秀に選ばれたのを機會に往時盛んだつた

鵜飼の宇甘川を鯉や■、鮎、■の川料理で賣出すべく、目下放流の計畫中とあり、現に宇甘溪橋畔の旅館でも川魚料理の準備を勸めてゐるさうだから、宇甘溪がその景勝と川魚料理で觀光客にデビユーする日も遠くはあるまい