【2】 鬼ノ城

山陽新報 昭和十一年一月十三日 (月曜日)

十五景地を巡る 【二】 青本生

直經六尺の“鬼の窯”

古跡と傳説の“鬼の城”

天へ立ちのぼる白龍の姿

山陵と溪谷を繋ぐハイキングコース

『鬼の城つてどこです?』

『あれ、あの山よ、新聞によく出てゐるぢあないの!』

備中足守驛から銀バスに乘つた僕は無案内のため、バス娘の紅い唇で、あられもなく、奴鳴りつけられたデス。紳士淑女よ、足守あたりで『鬼の城はどこだ』なんて訊く勿れ、山陽紙の面目にかけて叱りとばされる!ことほどさ樣に鬼の城はこの界隈、どつこい縣下の寵兒なんだ

窓から覗くと、なるほど左手に茶褐色の山肌をむき出した男性的な山がみえる。

山は一つのイズムだ。空想の花束を飾り、幻想の祭壇を築く、山は浪漫主義文學の舞台だ。ジヤズとネオンが神經を削る都會生活から拔けだして、遙かな青煙色の山肌に接する時、近代人は一樣に限りない憧憬に身慄ひするのだ。

鬼の城は足守驛の北方一里、備北から伸びた山岳群の尻尾に陣取つて、足守川と高梁川に袂を洗ふ

古典的浪漫精神を秘めた古跡と傳説の山である。

話は二千餘年の昔に溯るが、埀神天皇の御代韓土から渡來した王族『温羅』がそこに城砦を築き良民を苦しめ狂暴の限りを盡くしてゐたので、當時、人はその城砦を『鬼の城』と呼んでゐたが、偶々西海に遣はされた四道將軍吉備津彦命は吉備の中山に陣を布き鬼の城攻略の聖戰を起し、温羅は變化の玄術を持ち命は神力妙術をもつて互に秘術をつくすうち、命の放つた矢は鬼の矢と喰ひ合つて落下し、續く

第二矢は鬼の左眼に命中、流血淋漓、血汐は小川の砂を紅に染めたといはれ、その遺蹟を傳へるものに吉備郡生石村の矢喰の宮と、足守川の支流血吸川がある。

物語は更にお伽の世界に入るが、左眼を失つた温羅は雉に化け、命は鷹に化け追跡、温羅は最後の幻術をしぼつて鯉となり、血吸川に潛み、命は、鵜となつてそれを噛み殺したといはれ、都窪郡庄村にある鯉喰の宮はその遺蹟ださうだ。また一説には逃げ場を失つた鯉は山に化けたらしく、吉備の中山の胴體をなす『鯉山』がそれだと傳へられてゐる。如何にも

大きなスケールと深さをもつた傳説である。

服部阿曽村長の案内で傳説の山に登つてみると、時代のついた老松の點在する城址にはその昔、末寺八十八をもつて殷賑を極めた岩屋寺が孤り千古の山岳宗教を説いて居り、西方『新山』の山頂、山王宮の傍らには當時鬼の使用したといはれる高さ五尺、直經六尺の大釜が居然と大空に口を開けてゐる。

北方元結觀音の裏は急峻な絶壁で奇岩、怪石の間に楓と矮松が根を張り、紅葉が錦繍の裝ひを凝らす中秋の

溪谷美は殊によいさうだ。西方の雲を拔く千四百尺の高峰、馬頭觀音は南に吉備平野と兒島灣を隔てゝ銀波たゞよう玉島港を望み、北に山又山の突兀たる山岳風景を連ね、白銀衣を誇る中國連峰と對峙して霧の多い日、こゝに登れば天に向かつて濛々と立ち昇る白龍の姿を見ることが出來る。伏して傳説を探り、仰いで山岳美と海濱美を讚へる雄大な中備の大觀は鬼の城の持つ誇りだ。

〽鬼の城みたさに新山越えて山の色香で夜を更かす

〽元結觀音の紅葉が散れば戀の乙女がしのび泣く

色男鬼の城のために僕はこの與太節を贈りものにして山を下りた。目下村當局及び鐵道方面で大衆化と、近代化を指導精神として

城址を中心に山陵と溪谷を繋ぐハイキングコースと、景勝顯揚工作が目論まれてゐるので、傳説と史蹟の山、鬼の城の美學は近く根本的に改められるに違ひない。鬼の城がその古典的ロマンチズムを清算して新しいイデオロギーをもつて天下の遊覽宗徒に見える日を僕等は待望する。