【4】 明王院
山陽新報 昭和十一年一月十五日 (水曜日)
十五景地を巡る 【四】 大森生
春は櫻に秋は紅葉明王院山頂眺望絶佳由緒ある寺歴と園庭の美山陽線鴨方驛から南へ五、六町
山陽線鴨方驛から南へ寄島行きの縣道をゆくこと五六町、Yの字になつた分岐點に高さ一間以上もある石柱が立ち『岡山縣十五景地』の額が道ゆく人の目につく、淺口郡の
新名勝地天台宗の淺口郡總本山明王院、眞岳山大護寺の入口である、春ならば菫、たんぽゝ咲亂れ胡蝶招く道を右にとりだらだら坂を二三町も行けば大護寺の遍額浮ぶ山門がそびえてゐる、車を降り老杉茂き參道を拔け、枝ふりゆかしく手入れの行きとゞいた松に目を配りつゝ奧に進めばいよいよ明王院である
龍王山の尾根が北に長く尾をひいて鴨方町に迫るその山麓に抱かれて本堂、觀音堂、客殿、護摩堂、不動堂等の堂宇相並び地方には珍らしい大寺である、五六十坪もある池を中心とした前庭は
天然の美と人工の妙を極め水石の配置遺憾なく、掬せども盡くせぬ雅趣をたゝへてゐる
案内を乞ふと六十餘にしてなほかくしやくたる方丈は記者を客室に迎へ入れ古びた書類をめくり寺の由緒を語つてくれた
年代は不明であるが傳教大師の草創したところで、三代後の慈覺大師の時勅願寺となり、淺口郡中天台宗の本山として僧侶を養成し密教を授け、王法將軍國主の安福と■民■■を祈祷したもので、末寺五十、坊三千もあつたといふから當時如何に威勢を誇つてゐたかゞ判る、寺領はもと十石て少いやうだが
將軍家康時代には後月郡西江原に十石貰ひ、池田繼政公時代には御蔵米十石をもらつてゐる、西江原の寺領については古くから傳はる地圖があり、その多くが米麥無納のため竹槍など押したてゝ寺僧が徴収に出向いたこともあるとのことだ
かく備南に並ぶものなき權勢を張り一王國をなしてゐた明王院も寛永十九年の第一回炎上により相次ぐ再三の火災に堂宇は勿論、御諭旨、御朱印(秀吉公)などの寺寶は烏有に歸し、かてゝ加へて山崩れに遭ひ、國守の壓迫を受け、檀家は割れ、寺僧は血のにじむ辛苦を嘗めさゝれたものである
寺寶といはれる慈覺大師作の本尊、智證大師作の不動明王、弘法大師作の毘沙門などの保存にもどれだけ心を痛めたことであらう
榮枯盛衰は世のならひとはいへ元祿年間に現在の明王院を再建した第二十二代住職天祐師の苦勞は筆舌に盡し難いものであらう(本堂のみは次の住職の時建立す)
明王院の眞價は由緒ある寺歴と園庭の美のみではない、寺有の裏山(古城山又は地王山)一帶四五丁歩は櫻、紅葉、つゝじなどが植ゑられ春は万朶と咲き亂れ花霞をひき、秋は錦繍を織りなして雅人飄客招迎の明粧をこらすのである、更に切り開かれた散歩道を登り、地王山の山頂に立てば一望遮るものなく内海の絶景が眼前に展開する、青く光る
水島灘に東は下津井西は神島までの數々の島々が墨繪の如く浮び、しばし我を忘れて夢幻境に遊ぶ思ひがするであらう
六條院町の成功者姫路■一氏を會長とする明王院保勝會では町公園として開發すべく登山道の改修、頂上へ休憩所の設置、花木の植付け等種々の計畫をめぐらしてゐる、“無學者の代表で貧乏人”といひながら檀家の力も借りず境内を擴張し參道を整美し墨客を遇し寺の開發をはかる現住職も相當のものだ
花吹雪を浴びてうしようを交はし山頂に立ち浩然の氣を養ひ降つて
寂境に雅懷をのべるも面白い、住持は“左利き”でも奧さんは抹茶の一服位味ははせてくれるであらう