山陽新報 昭和十一年一月三日 (金曜日)
十勝地巡り その二 吉備津彦神社 青本生
老松杉參差として
幽寂荘嚴の神域
新造營に誇る拜殿本秋竣工
岡山市の西南一里、御津郡一宮村に吉備津神社を訪ふ。中鐵一宮驛から南へ折れて、鐵路を跨げば風説に朽ちた花崗石の大鳥居がくつきりと蒼空に俗塵を隔てゝ屹立してゐる。
吉備津彦神社の社の池の水のどにぞみゆる春立つらしも
幕末の歌人平賀元義が詠んだ神池は明玉の如く澄んで楚々たる楓の冬木立と、龍蛇の如くくねつた老松の影を宿して左右に廣がり、仰げば飛雪舞ふ
真冬にも青嵐ゆるゝ千古の緑を秘めて幽邃崇嚴を誇る吉備の中山の松杉、參差と枝を交へて社頭に神の黙示を説き、雲衝く三十六尺の大燈籠は二千年の神夢を抱いて兩側に峨々と聳え立ち、靈氣迫る神國日本の活きた畫幅を繰廣げてそゞろに我が身の穢を捨てゝ神に還り神を見る悦びが全身に溢れた
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加藤宮司の案内で楓の病葉を織り交ぜた吹雪の華散る境内を逍遙しつゝ神嚴な氣を踏みしめて石段を登ると、造營中の建坪百四十坪の
拜殿の礎石が幾何學的な線を描き、木の香も新らしい建築用材が山と積まれてゐる
『隨分、素晴らしい拜殿が立ちますな』
『お陰樣で竣工の曉は關西に誇るべき社頭を現出しますよ』
と加藤宮司は熱意をこめる。吉備津彦神社は古くから備前一宮神社として、歌枕で名高い吉備の中山の底ッ岩根に宮柱太く立ち崇神天皇の御宇四道將軍として西海道に遣はされた吉備津彦神社を主神として奉祀し歴代朝廷の御尊崇厚く神功皇后三韓征伐の御砌は牛窓港に
船を寄せられ幣帛使を遣はされたことがあり、一條天皇の長保六年には大江清通をして社殿を造營せしめられ、御神威は愈輝かしき正殿、本宮、拜殿、舞殿、樂殿、清涼殿、不老門、百八廻廊等五十餘の堂宇を櫛比し近郊に比類なき輪奐美を誇り當時、中國旅行者は『鏤金琢玉、中國旅行第一壯觀』と激讚したが、永祿之軍、災火に逢ひ、その後岡山藩主池田綱政公が一藩をあげて造營に從事、同十年完成、明治五年縣社となり、昭和三年今上陛下の御即位の
大禮に當り國幣小社に列格、昔日に倍して御神威は輝いたが、昭和五年末、再度の炎上に逢つたので、今や國費二十餘万円、氏子崇敬の寄附數十万円を以つて大造營中で本秋十一月には全部の完成をみ全國に誇る宏大な社頭を現出すべく約束されて居り、更に十勝地當選を機に境内に神苑の造營、山上部落へかけて數万本の梅樹を植ゑ梅の名所として淺春、行樂人に呼びかける外境内にグランド及び休憩所の設置、吉備津神社への
參道の改修、頂上、吉備津彦命の御陵への道路開設によつて小伊勢の宮の現出が目論まれて居り、附近には先住民族の古墳や原始民族の祭祀遺蹟として、我が國では北海道以外には求めることが出來ないとされてゐた『環状石籬』が松林の奧深く散在して、神秘な日本民族を説いてゐる。かくて吉備津彦神社を中心に神道精神をもつて色彩られた附近一帶の景勝地は凡ゆる角度よりみて、備南觀光ルートの關門として決定的な條件を備へるわけだ。
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同社が殷賑を誇る八月二、三兩日の御田植祭、十月二十三日の
例祭はあまりにも有名であり、祭典後は古式に則る流鏑馬神事も行はれ、神人和樂の豪華な祭典繪卷を繰廣げるのである。西の名君池田新太郎光政公の誕生に因縁の深い子安神社を始め、二十宇に埀々とする末社並び立つ境内を點綴、彩色するものに吉備津彦八景がある。權大納言藤原公緒が詠んだ。
しら木綿の色も榊もみなくれてあまた櫻の咲ける瑞籬
金紫光祿大夫益通がみたてた。
紅の梢を色にをりかけてあやなす波の清き岸かげ
などの外、六首の古歌が表徴する風致、今猶ほ
往古の名殘を留め、梅、櫻、楓が古色蒼然たる松の緑に溶け込んで清光、薫風衣襟を拂ひ、楓樹■蒼胸奧を衝いて超俗、清雅な詩魂をもつて文人墨客を招いてゐる。神域の南端に苔蒸した甍で覆はれた古風ゆかしい村役場と駐在所がある。これはその昔、天保八年から弘化へかけて約十年間、情熱の歌人平賀元義が身を寄せて詩歌に耽つた、宮司大藤内大守隆公の館ださうだ。
吾妹子に別れてゆけば眉引の横山の上に月ぞ殘れる
と、元義が神域の松林から遙かに万成山を望んで愛人を偲んだ歌や
吉備津彦神社の社の紅葉ばはいやますますに色濃くなりぬ
もとしげき吉備の中山櫻散り青葉茂りぬ春盡さんとす
等
數多の歌を遺してゐるところをみると、幕末の新興歌壇に一分野を開いた元義の才華爛發の詩■に、此神域一帶の幽幻な風光が如何ばかり深い感興をもつて迫つたかゞ偲ばれる。神前に敬虔な黙祷を捧げて、田口神官と共に吉備の中山に登つて振返りみれば、視野は開けて寒田に民家の影を宿した備前平野が坦々と擴がり、南面すれば兒島灣を隔てゝ海上雲遠きところに豫讚の峰巒が
微かにけぶつてゐる。枯芝を分けて『環状石籬』を探ね、御陵に參拜して、記者は又、飛雪を衝いて次のコースへ急いだ