和意谷

『岡山縣十五景地』鋳銅標識有り。

平成10年(1998年)4月に国の指定を受けた岡山藩主池田家墓所は数ヶ所指定されていて、そのひとつが備前市吉永町和意谷にある和意谷敦土山池田家墓所です。岡山藩主池田家墓所はここ以外に岡山市中区円山の曹源寺などがあります。

鳥居のある入口の前に駐車場やトイレ、説明板と案内板があります。ここから墓所のあるところまで、そこそこ距離があるのでトイレは済ませておいたほうが良さそうです。ただ状態を確認していないので綺麗かどうかは不明です。「三のお山」近くの休憩所にもトイレはありましたが、遠目で見ても綺麗とは言えない感じでした…。

説明板には、

和意谷敦土山岡山藩主池田家墓所(国指定)

岡山藩主池田光政が菩提寺の京都花園妙心寺護国院炎上を機に、備前国内に祖父輝政・父利隆の墓碑移転を決意し、1665年(寛文5年)2月津田永忠に墓所選定を命じた。永忠は墓域の適地を備前国内に求めること1年余、和気郡脇谷村のこの地域を候補地として上申、10月下旬光政も自ら検分して決定した。1666年(寛文5年)12月祖廟に遷葬のことを告げ、池田美作・稲川十郎右衛門等に遺骨受取りの心得書を渡して出立せしめた。一行10余名は10日着京、17日離京、伏見・大阪を経て海路明神丸で27日片上着。直ちに八木山の仮宮に遺骨を遷した。1667年(寛文7年)1月7日永忠に改装地造営の総奉行を命じ、諸般の作業は順調に進み、閏2月13日光政臨席のもとに輝政・利隆遷葬の儀を儒礼によって滞りなく行い、以後墓域を和意谷敦土山と称すべき旨を永忠に命じた。中途幕命による江戸城空堀普請奉仕のため一時中断したが、1669年(寛文9年)墓域工事を完了し、3月16日墓祭を執行、光政が参拝した。以後毎年3月下旬に墓祭を行い、藩主または池田家一族中が参拝を続けた。輝政・利隆の棹石2本・亀石1本を片上港より山上まで引上げ、実働日数は39日。他の各石材は吉井川を上って和気で揚陸した。改葬には、銀208貫余、延べ11万人余を要し、石材は全て犬島(岡山市)の石を利用した。また、1684年(貞享元年)墓所領として和意谷新田村を新設し、石高53石3斗1升5合の年貢米をもって墓所諸経費を賄い墓所永続の策をとった。”

どちらかと言えばこっちの方が重要かもしれないのが墓所配置図の案内板だと思います。

入口の石鳥居のところから「一のお山」まで1140mとそこそこの距離がありまるようです。一番遠い「七のお山」までは1720mなので、全部廻ってみるならば結構な時間がかかりそうです。ちょっと気軽にお墓参りというよりもハイキングです。

実際に歩いてみたところ、配置図に記載されていない道がありました。敷地内は広くて、迷わないためにも念のため参考にしておいた方が良さそうです。

石鳥居の前に建っている円形の碑。写真から文字を書き起こしてみると、

“祖考龍岳君之甍池舊封士民追思其徳去年四月相謀樹石製蘊表干墓門以荘嚴佳城英靈之喜可知也予大嘉其京卸之至情爰勤同志者三百有七人姓名干貞石以示来裔云

明治三十年五月十一日 侯爵 池田章政誌”

碑文以外に人名がたくさん刻まれていて、碑文の通りだと307名分あるのかも知れませんが省略します。写りが悪くて読みづらい文字があるので正確ではないですが、池田慶政追慕碑なのかなと。

通路の真ん中に石が敷いてあるので、これを目印に進んでいきました。今回は「六」→「七」→「一」→「三」→「二」→「四」→「五」の順番で巡ります。

倉庫跡に建つ青少年自然の家を過ぎた右手あたりに“境標池田家墳墓地”の碑があります。

左側に石垣で囲まれた広い場所があります。説明板が無いのでよく分かりませんが、たぶん「藩主お茶屋跡」。竹がすごく生えてます。

なので、ところどころの石垣が竹の根っこの影響で崩れています。

手水鉢っぽいもの。

墓所のイメージと違って森の中をただひたすら登り歩いて行くだけなので、こういったものがあると多少は気が紛れます。でも、まだお墓らしいところにはたどり着きません…。

約15分で「お茶水井戸」(墓所配置図から730m)に到着しました。

お茶水井戸

学問のお殿様として知られ天下の三大名君と謳われた池田光政公がこの地和意谷敦土山墓参の際必ずこの茶水井戸の水で茶を立て心新たにして世の中を見つめ地方知行を行い常にこの茶水井戸のお水を愛飲され又重宝されました。現在では入学就職時には他府県より多くの方々がこのお水を愛飲しております。(頭の良くなるお水として)また原因不明の病気等の方々も非常に多く汲みに来られております。”

井戸の底に澄んだ水が溜まっていましたが、用意されていた柄杓では届かなかったです。

井戸の所に和意谷への改葬についての説明板がありました。

文字が薄く消えてる部分がありますが、入り口にある説明板に記載のある心得書についての内容です。

改葬にあたり使者池田美作、稲川重郎右衛門等に渡し 光政の覚書(抄)

一 牧野佐渡殿家老■て、小堀屋を以て内証物語可仕候。其趣には妙心寺内護国院に有之墓所、備前へ曳取申に付使者差上せ申候 か様に付、佐渡様へも御案内申入可然事に候哉。但其儀には及不申事に候や難計御座候間、各迄申談御内意承候様にと可申入事。

一 佐渡殿へ御案内申入候はゞ、口上之趣には京都妙心寺の内に先祖の墓所有之候 先年も致炎上候へば、以来之儀無心元存候に付■度引取可為申 使者■せ申候

一 ■林へは御位牌無相■御置被成、御合力只今迄之通可被遣儀可申■候事 護国院墓所之儀、只今再興有之候とても、末々又炎上等の儀難計候へば、内々国許へ引取可申所存候

この外火葬の骨壷、土葬の柩の取扱い、伏見迄の道中の常の旅立ちの体であること、石塔 卵塔の荷造り運搬の方法、大阪出帆の様子を国許へ注進の事、本船、石塔卵塔積載の荷船共片上着船すべき事等細部にわたって使者に申渡している。”

お茶水井戸から200mほどで「木鳥居」に到着します。

入口の配置図には鳥居のイラストがありましたが、現地について見ると礎石しかありませんでした。

木鳥居のところに「一、六、七」と「二、三、四、五」の分岐点があります。ここから一番近いお墓は「三のお山(池田光政・勝姫)」です。

ここから5分ほどあるいて、

この分岐点まで来ると、六のお山はすぐそこです。

六のお山

六のお山の敷地や盛土に雑草というよりも木があちこち生えいて、なんだか荒れてるなという印象です。正面に取付けられていた木製の扉が無くなっていたり、取付けてあったとしても破損していました。

六のお山には左側から順番に、池田輝興、池田輝尹、池田政実、池田鋭子、池田恒元の5つと、少し離れた場所に池田政元の1つ、計6つのお墓があります。

池田輝興(諡号:作用津建輝興命)

慶長6年(1611年)1月15日、池田輝政の六男として姫路城で誕生。母は徳川家康の次女、督姫。兄で岡山藩主の忠継が死去し、兵庫県作用郡などの遺領を継いで元和元年(1615年)6月28日に平福藩の初代藩主となり、寛永8年(1631年)8月には継嗣がいなかった兄の政綱の跡を継いで赤穂藩2代藩主になりました。正保2年(1645年)3月15日に突如発狂して正室など数人を斬り殺す事件を起し、岡山藩主池田光政に身柄を預けられ、正保4年(1647年)5月17日に死去。享年37歳。

岡山市中区国富にある岡山県十勝地のひとつ少林寺に埋葬されていましたが、寛文7年(1667年)に改葬されました。

墓碑は寛文7年(1667)に池田光政によって建設され、表側には“従四位下右近太夫源輝興朝臣之墓”、裏側は“正保四年丁亥五月十七日卒”と書かれ、高さは六尺三寸(約1.9メートル)、横幅一尺五寸五分(約0.5メートル)、台石の高さも一尺五寸五分(約0.5メートル)で横幅は四尺一寸(約1.2メートル)だそうです。

池田輝尹(諡号:無し)

池田綱政の四男で延宝7年(1679年)1月1日に死去。享年6歳。延宝7年1月3日に埋葬されました。

池田綱政の四男には跡を継いで藩主となる継政もいますが、正確な四男が誰なのかについては未調査です。綱政には子供がとても多かったそうですが、和意谷には輝尹のお墓しかないのが気になります。ちなみに継政の生年月日は元禄15年(1702年)8月17日です。

墓碑の建設年月日は不明で、池田綱政によって建設され、表側には“池田新八郎輝尹之墓”、裏側は“延寶七年己未正月 日終”と書かれ、高さは五尺一寸五分(約1.6メートル)、横幅一尺四寸五分(約0.4メートル)、台石の高さは一尺3寸(約0.4メートル)で横幅は三尺二寸五分(約1.0メートル)だそうです。

このお墓が建てられてから和意谷の池田家墓所に明治時代になるまでの約190年の間お墓が建てられることがありませんでした。

池田政実(諡号:黍若入雄政実命)

池田慶政の長男で明治2年(1869年)8月7日に死去。享年20歳。明治2年9月3日に埋葬されました。

墓碑の建設は明治4年(1871年)8月に着工、池田章政によって建設され、表側には“池田鼎五郎政実之墓”、裏側は“明治二年己巳八月七日終”と書かれ、高さは五尺四寸(約1.6メートル)、横幅一尺七寸五分(約0.5メートル)、台石の高さは一尺5寸(約0.5メートル)で横幅は三尺八寸(約1.2メートル)だそうです。

この墓所には石燈籠が奉献されています。

池田鋭子(諡号:無し)

池田慶政の四女で明治3年(1870年)9月2日に死去。享年1歳。明治3年9月9日に埋葬されました。

墓碑の建設は明治4年(1871年)8月に池田章政によって建設され、表側には“池田氏鋭子之墓”、裏側は“明治三年九月二日卒”と書かれ、高さは四尺(約1.2メートル)、横幅一尺(約0.3メートル)、台石の高さは八寸五分(約0.3メートル)で横幅は二尺(約0.6メートル)だそうです。

池田恒元(諡号:宍粟識恒元命)

池田利隆の次男で光政の弟として慶長16年(1611年)に誕生。母は榊原康政の娘、鶴姫。慶安元年(1648年)に備前国児島藩の初代藩主になり、翌慶安2年(1649年)には播磨国山崎藩に転封し山崎藩主となりました。寛文11年(1671年)9月4日に死去。享年61歳。寛文11年10月6日に埋葬されました。

墓碑の建設は寛文12年(1871年)8月に池田綱政によって建設され、表側には“従五位下備後守源恒元之墓”、裏側は“寛文十一年辛亥九月四日卒”と書かれ、高さは六尺五寸(約2.0メートル)、横幅一尺九寸(約0.6メートル)、台石の高さは一尺六寸(約0.4メートル)で横幅は四尺一寸五分(約1.3メートル)だそうです。

池田政元(諡号:豊日舅主政元命)

この墓所は六のお山の墓域から少し離れた場所にあります。

池田恒元の長男として明暦2年(1656年)に誕生。寛文11年(1671年)、死去した父恒元の跡を継いで播磨国山崎藩第2代藩主となりました。延宝5年(1671年)1月8日に死去。享年22歳。延宝5年1月29日に埋葬されました。

政元が死去後に播磨国山崎藩の第3代藩主を継いだのは池田綱政の次男恒行で、諡号の舅という文字はこの関係からきてるのかなと。

墓碑の建設年月日は不明で、池田綱政によって建設され、表側には“従五位下豊前権守源朝臣政元之墓”、裏側は“延宝五年丁巳正月八日卒”と書かれ、高さは六尺四寸(約1.9メートル)、横幅一尺九寸九分(約0.6メートル)、台石の高さは一尺六寸(約0.4メートル)で横幅は四尺一寸五分(約1.3メートル)だそうです。

次は七のお山に向かいます。

参考資料

吉永町史刊行委員会編(1984)『吉永町史 資料編』吉永町

吉永町史刊行委員会編(2006)『吉永町史 通史編2』吉永町

和気郡史編纂委員会編纂(2002)『和気郡史通史編下巻2』和気郡史刊行会

山陽新報「二十秀地を巡る 五」1936年1月16日付朝刊(7)

更新履歴

2016年1月7日