【16】 木綿崎山

山陽新報 昭和十一年二月十六日 (日曜日)

二十秀地を巡る 【十五】 青本生

山上に飜へる教旗

靈地金光の木綿崎山

上古は瀬戸で航行者の難所も

今は精神文化の中心地に

山陽線列車に乘つて、靈地金光を通過するものは南の小山の大鐵柱に金光教々旗のはためくのを見るであらう、二十秀の一つ木綿崎山である、木綿崎山が金光教本部の一部であることは今更紹介するまでもなく

金光教を離れで木綿崎山は語れない、上古この一帶が瀬戸をなし暗礁横たはり航行者の難所であり大宰府に下る大貳高遠をして“神のます浦々毎に漕ぎすぎてかけてそ祈る木綿崎の松”と詠ませた木綿崎神社の古祠も今は僅かに老松の切株が舊蹟地たる名殘りを留めてゐるのみであるが大金光教の鵬翼に抱かれた靈域として或る意味で中國精神文化の中心地ともいへよう、この點全く二十秀十五景中の異分子であり變わり種である

文化十一年金光町占見の里に生れた教祖は少年時代から信神、孝心篤く

勤勞を無上の喜びとし大患に罹り危篤に瀕して靈驗に浴し心眼開らけ天地の視神より神傳を受け、神人一致の大道を傳へてから七十八年、求信の徒日毎に加はり教勢海外にも及び山陽道の一寒村にすぎなかつた大谷の地は商家相連り邸百■以上と呼ばれる繁榮ぶりである、山の北端に在る教祖の奧城に詣ですぐ下の立教聖殿を見るもの誰れしも教祖が幾多の迫害と闘ひ俗世濟度の神意實現につとめた偉徳を偲び石も貫く大靈に胸打たれるであらう

本部の數町南の龍王山權現は教祖で占見の里から朝夕參詣し敬虔の念を愈深うしたところ、また山の東手の小野光衛門氏舊宅は算數歴學を學んだところである

中腹には先生の墓もある、鍛冶屋谷に相並ぶ別莊地帶の如き文化住宅は先年の家督爭ひから閉鎖されてゐるが教師養成機關の教義講習所がおかれてゐた、一戸兵衛大將の書いた佐藤宿老の頌徳碑は講究所生修練の的である

大正十三年の大炎上以來そのまゝとなつてゐる大教會所を始め各建物も高橋教監就任以來復興委員會が設置され具體的計畫が進められてゐるからやがて舊に倍する大教會所も具現しやうまた

神苑としての木綿崎山修築も議に上るであらう