【20】 明禪寺城址

山陽新報 昭和十一年二月二十一日 (金曜日)

二十秀地を巡る 【二十】 山谷生

操山續きの寂境

古戰場、明禪寺城址

岡山人には最も手近な散策地

常磐の松の茂りも深い操山の一角に位する明禪寺城址は三百六十有餘年の星霜を距てゝ昔日の姿はないけれども古城を髣髴させる物語を傳へ、こゝに新選二十秀地として登場した

岡山市の東郊、西大寺鐵道森下驛から二十分、同藤原驛から十分、軟かい春の陽を受けて歩を移せば花卉栽培と筍で有名な上道郡幡多村澤田に達する、微風わたる竹藪の傍らから登ると僅か十分で頂上を極める、操山の群峰に列して、岬の樣に北方に突出した峰は高さ海拔百六十八尺で、決して高い山とは言へない、しかし、東西の兩面ともに斷崖の屹立する峰にあつて、頭を回らせば東は芥子山、北には龍の口山、金山などと連結する

東備の盆地を見渡し、西方に旭川の清流を帶として烏城を中心とする城下町岡山市の姿を眺め、南方に峰の谷を越えて吉井河口一帶を遠望することが出來て視界は廣く大きい、山は寂として靜まり、聞えるは松籟のさゝやきのみ、岡山の近郊にかくも靜かな境地があるとは不思議にさへ思へる

城址は東方斷崖上に八間四方位の平坦なる台石があるのみであるが、巖頭にたゝずんで思ひを馳せるならば戰國の世にあつて宇喜多家の開祖直家が近隣を攻略して岡山城に據つた、彼が雄圖を達成する、素因となる、明禪寺大合戰は脈々として浮んで來るであらう

その昔浦上宗景の家臣となつてゐた直家は上道郡浮田村沼亀山城に據り、備中松山城主三村元親に備へて永祿九年出城として明禪寺城を築城した、元親は父の仇直家を討たんと翌十年春明禪寺城を夜襲して陷れた。こゝにおいて直家は備中勢の進撃に先んじて手兵五千騎を五段に分ち、同城を先づ奪還、ついで元親二万の大軍を原尾島、國富、高島、幡多の野に迎へ天の時地の利を得て之を一擧に玉碎したが、生還したものは僅に十分の二と傳へられてゐる、時に直家三十九歳であつた

古戰場一帶の平野に鬼と消えた備中勢を葬ふため毎歳舊暦七月十三、四、五の三夜追弔の万燈を點じたとあるが今はこれも廢れた、高松城の水攻めと對照されて縣下二大合戰と言はれる明禪寺古戰場は既に史蹟愛好家によつて熟知せられるところであるが、この古戰場が持つ味はこれだけではない、操山の尾根傳ひ、松林を行くハイキング・コースは春秋を通じて近代的魅力を十分に備へてゐる。なほ東西の崖下には城趾を背にして天台宗澤田山恩徳寺があり、竪石稻荷もある