山陽新報 昭和十一年一月十四日 (火曜日)
十五景地を巡る 【三】 青本生
吉備の中山おしなべて
千歳の松の深き色
鎌倉文化の樣式を誇る建築
吉備津神社は史家愛敬の境
中國線吉備津驛から東方を望むと濃緑色の鱗を着た巨大な鯉に似た翠巒が見える、それは往古から
歌枕で名高い吉備の中山の胴腹で、山容が鯉の形をしてゐるため一名『鯉山』といはれてゐるが、二千年の日本文學史を秘めた眞金吹く吉備の中山はこの鯉山を中心として備前、備中に跨る一帶の山岳群である。
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常盤なる吉備の中山おしなべて千とせを松の深き色かな
と天暦の昔、主基松名歌が謳つてゐるように、吉備の中山には風雪に朽ちた古松、老杉、鬱蒼と茂る幽邃森嚴な風致と數多くの史蹟名勝に惠まれ、中でも
四百年の社歴をもつ吉備津神社はその麓に我國美術建築上類なき巧妙精緻な鎌倉文化の樣式を誇り、社頭高く樹間に聳え、本殿から攝社、本宮社に至る蜿蜒二百三十間の廻廊は史家の絶大な愛賞を買ひ、吉備の中山の指導精神となつてゐる
常盤なる吉備の中山ながく經て細谷川にすみにけるかも
藤原朝臣家經の詠んだ細谷川は廻廊の南端、蒼苔深く布いた幽寂な溪谷に松、杉、楓の根を洗つて、潺々と
仙境の譜を奏でゝゐる、この溪流に沿ふて約三町ばかり登ると、文政の昔、吉備津神社の宮司であつた國學の泰斗藤井高尚が櫻と紅葉によせた春秋二首の和歌を刻んだ歌塚があり、そこから約二町、峻嶮な茶臼山の山腹を攀ぢ登ると、大吉備津彦命の御陵がある。
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面積五千餘坪、高さ八間、杉の生籬を繞らした二つの小丘からなる御陵は外部に防火堤が築かれ、正面には白砂が一面に布きつめられて神々しく
御陵の前から南面すれば、藺草田が緑の縞模樣を描いた備中平地が開け、遠く内海の島山を隔てゝ四國連峯が雲煙の間にウインクしてゐる。
春は神垣雲洞に
昔をしのぶ夜櫻や
乙女耻ぢらふあで姿
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百夜を通ふ松原の
戀の闇路に飛ぶ螢
思ひ亂れて歸るさの
明のみ空に時鳥
これは新作吉備津小唄の一説だが附近には古代の石棺だといはれる『石船』、榮西禪師の誕生地跡や
鹿ケ谷の密議暴れ清盛に追はれた藤原成親卿の墓、豐太閤鎧懸の松等の舊蹟を始め、藤井高尚が頼山陽等と共に詩歌に耽つたとい云はれる『■頭園』明治大帝御駐蹕所、眞金一里塚等の史蹟があり、古くから婦人が攝食すれば、男子を分娩すると傳へられる御山の蕨は昭和七年春、畏くも皇室へ奉獻の光榮に浴し、奇しくも翌年皇太子殿下が御降誕遊ばされた
至高の誇りを持つて居り、浪漫的な興味をそゝる『宮内の螢』『有木の梅林』玉椿、丸木橋等の景勝點在し、外苑には清貧政治を説く木堂翁の銅像も立つてゐる。そこは宛然、活きた郷土博物館であり、一大公園である。
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梅林の清香微かに匂ひ、黄鳥樹間に春を謳ふ頃、さては細谷の溪流が紅葉に映え、千本しめじが落葉をかつぎあげる秋、■等よ、此處には杖を曳いて生活の垢を拭ひ給へ。遊び疲れたら憩ふにほどよく、並び立つ旅館と料亭が粹を凝らして招いてゐる。
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眞金町役場藤井熊太郎氏の話によると目下、保勝會、奉贊會の手によつて近代的な色彩を織り込んだ諸施設が目論まれてゐるとのことだから、國文學史と、日本神道史を秘めた吉備の中山の麗容は更に一段の清新さを加へ備南觀光ルートの中樞神経となるであらう。