【14】 寶貴山
山陽新報 昭和十一年一月二十七日 (月曜日)
十五景地を巡る 【十四】 巖津生
佛教美術の大殿堂
平安朝以來の古刹寶貴山安養寺
國寶“日本一の毘沙門さま”
倉敷市から北へ三十町・櫻の名所
〽唯身一つは有木なる
謫所に月を眺めては
この世の縁も朝原寺
朝な夕なに響きくる
蓮合院の鐘の音は
諸行無常の悟りつゝ
昔に變る法の袖
筑前琵琶『有木の露』に出て來る朝原寺は今の寶貴山安養寺だ、安元三年卯月備前兒島に流謫の身となつた新大納言成親は備中福山の南麓安養寺で薙髪して法衣の人とはなつた。さうした悲劇の歴史も加はつて寶貴山安養寺は
吉備文化の奥底から根生えた由緒の深い平安朝以來の古刹だ。單に古刹名刹といふよりも現實に驚くべき佛教美術の殿堂として堂々全國に紹介していゝ寺院なのである。
安養寺自慢の毘沙門堂は十七本の圓柱で建てられた四間四面のお堂であるが、堂間を二分した佛殿の中には合計四十七躯の等身大の木彫佛像が安置されてゐる。
その中藤原期に屬する兜跋毘沙門天王(高さ六尺八寸、足下一尺一寸五分)檜造りの木像と吉祥天(高さ五尺六寸)檜造りの木像は明治三十四年に
國寶に指定されたものであり平安朝に屬する毘沙門天等身像十一躯は準國寶、ほかに平安朝の毘沙門天等身像三十躯、天平式のもの二躯、弘仁式のもの一躯、脇立一躯何れも佛教美術の傑作として殆ど健全に傳へられて來た
斯く一堂の中に多數の毘沙門天王を安置してゐるものに全國唯一つの例として岩手縣陸中平泉の達谷の窟があるが現存するもの二十餘躯で、しかも洞窟門の■氣のために甚しく潰朽してゐるのに比し、安養寺の毘沙門天
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(中央)國寶の毘沙門天(向かつて右)國寶の吉祥天(左)童子
は數も多く作品も優秀でしかも健全、まさに名實ともに
日本第一の毘沙門樣である、と一昨年修理に來山した奈良美術院主事の新納忠之介氏も立派に折紙をつけて行つた
なほ毘沙門堂脇の阿彌陀堂には高さ三尺の金銅阿彌陀如來が本尊として安置されてゐる、奈良新薬師寺の國寶阿彌陀如來像と酷似してゐる唐佛で目下國寶調査員の手で慎重に調査中だ
山陽線倉敷驛から北へ三十町、菅生村大字淺原の北壁をなした備中福山の山つづき淺原山に南面して靜寂な淨地を劃した寶貴山安養寺は、境内の風致もよく、眺望もいゝ、さびた法堂をめぐつて數百本の吉野櫻と
八重櫻が繁つてゐるので、既に地方で知られた櫻の名所でもあるし、青葉の頃には杜鵑がよく啼く、秋は滿山の紅葉、冬は南陽を一杯に受けて淺原谷の到る處に紅梅や白梅が咲き匂ふ
しかもこの秀れた自然の中に、僧空海の來山した話、淺原一山四十有餘坊の榮■物語、さては延元の昔福山合戰の飛沫を喰つて足利直義の兵に燒かれた五重塔の礎石も歴然と殘り、附近には阿部晴明の雷封じの珍蹟などもある、毘沙門樣は不景氣克服家業繁昌の万人力を有してをられるので、毘沙門詣での客は年々
遠近から増加してゐるが、福山或は酒津と連ねてハイキングにももつて來いのところだ、終りに■の庵こと長岡徹定和尚自作になる淺原小唄を一つ二つ紹介しよう
ゴンとさびある鐘の音さへも
かすむばかりの寶貴山
月は滿月花みりやさかり
盛り愛でたき八重櫻
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月がないたか麓か峰か
時雨そぼふる寶貴山
夏はなやまし毘沙門樣に
あまへつくよな時鳥
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萩をぬらして紅葉染めて
石の階段二人づれ
サツとぼかして淺原山の
雨が描いた安養寺