【9】 圓通寺

山陽新報 昭和十一年一月二十一日 (火曜日)

十五景地を巡る 【九】 大森生

内海の眺めも絶佳

良寛で名高い圓通寺

詩の町歌の町玉島の公園

お土産物にもすべて“良寛”の名を

水島灘が淺口平野に深く彎入して出來た天與の良港、玉島港を挾んで自然の暴風壁を成す東西の丘陵――その西手のが數多い内海景勝の王座を爭ふ

白華山円通寺公園である、丘陵の南■は一面田畑であるが、寺から頂上へかけて老松鬱蒼と生ひ茂り、巨岩、怪石その間を點■し、頂上の展は殊のほか秀麗である、眞帆片帆行き交ふ内海にはかずかずの島々自ら一幅の墨繪をなし、遠く眼をやると四國連峯が雲際に模糊としてゐる、夏海水浴で賑ふ上下兩水島は海上二里半とはいへ呼べば應へん風情である、町の東郊を悠々流れる高梁川には中國一の長橋霞橋(約六町)がモダンな姿を浮かべ、その河口には太陽レーヨン工場の大煙突が準市玉島町躍進譜を奏でてゐる、更に瞳を西に轉ずれば松の梢越しに靈地金光を眺め、西南には白砂美しい沙美の濱が指呼のうちに在る

詩の町歌の町として人情濃やか玉島に遊ぶ文人墨客が一度は必ず杖ひのはく円通寺公園である

この景勝の地を占めて昔そのまゝの苔むす甍を連ねて建つ曹洞宗補陀落山圓通寺は行基菩薩開創の靈區で、本尊観世音聖像はその■作である元祿の始め惡疫流行し地方民相次いでたふれ恐怖時代を現出した際、西來■の開祖徳翁良高禪師■■■■し來り、郷民のため觀音堂前で■疫消除の祈祷をしたところ靈驗あらたかに忽ち惡疫も終熄した、地方民は■喜して師の永住を乞ひ、元祿二年から同十四年へかけて圓通庵の

舊蹟を復興して圓通寺と改稱し高良師を中興開山第一祖としたものである。第十代住職國仙和尚の時には寺格を三等の随意會より一等の常恒會地とし法燈■に法輪轉じて堂々たる大■林で一度も兵■に見舞はれなかつたが、明治維新の變革から寺門漸く■え諸堂■りに荒■しその状みるに忍びざるに至り、大正四年地方有力者■■らが相謀り廣く■潮の■心に訴え大修理を加え、更に數年前保勝會を組織され寺域を擴張、鐘樓、寶物館、茶室の新築等名刹の面目維持から更に興隆進展計畫を進めてゐる

圓通寺を語るに、また詩歌の町としての玉島を語るに良寛禪師を忘れてはならない、公園に立つてゐる記念碑の碑文(寺寶である良寛の書を擴大したもの)

自來圓通寺 不知幾冬春

門前千家邑 更不知一人

衣垢手自洗 食盡出城闉

曽讀高僧傳 僧可可清貧

の一詩は良寛の眞面目を現はしてゐる。越後國出雲崎の勤王家に生れた良寛が十八で出家し二十二の時円通寺第十代の大徳國仙和尚が越後巡錫の際その學徳にうたれ遙々師を慕つて來玉、刻苦精勵ひたすら宗法の奥義探究に精進した、玉島に在ること十有七年(二十年ともいふ)身を雲水の安きにおき

『霞立つ長き春日を子供らと手毬つきつゝ今日も暮らしつ』

と童心もて小兒らと毛毬、ハジキ、かくれんぼをして遊び『墨染の我衣手の廣くありせば世の中の貧しき人を覆はましものを』と

大慈悲心を持ち、氣候温和、風景絶佳の玉島に松籟を天樂と聞きつゝ敬虔なる祈りと感謝の心もて日夕の課業に服し廣く八宗兼學の讀書に耽つたのである、その後恩師國仙師と實父相次いで他界するに及び、良寛師も飄然寺を出で

濱風も心して吹け千早ふる

神の社に宿りせし夜は(明石)

山おろしいたくな吹きそ墨染の

衣かたしき旅ねせし夜は(赤穗)

思ひきや路の芝草をりしきて

今宵も同じ假寢せむとは(唐津)

と野宿をしながら托鉢を續けたのである、師の托鉢姿を眞似た良寛餅を始め、せんべい、羊羹、状袋、玩具、壽司などすべて“良寛”の名を冠せ

玉島の誇りとして円通寺と共に末長く傳はるであらう