【3】 天王山

山陽新報 昭和十一年一月四日 (土曜日)

十勝地巡り 【3】 小寺生

風景的デパートの

シヨウ・ウインドウ

山の附近一帶は史跡の寶庫

多彩豐富な天王山

和氣、本莊、藤野の三ヶ町村に跨る盆地の中央、菓子器の眞中に手際よく乘せた饅頭見たいに形よく納まつてゐる緑の小山、それが本莊の天王山である、山陽線和氣駅を降りて道を東南へ取ること數町にして麓に達する、驛から近距離なのが先づ何より手軽、松や雑木の

葉隱れ小径を爪先上りに約二町、しかも早くも頂上だ、足許に赤土の頂上が半ば以上綺麗な平面に拓かれて四方は目を遮るものもなく、濶達な展望が縱横に開ける、思はず深呼吸一つした途端に都會生活の鬱血が青空の中へみんな雲散霧消する、その切り拓いたところは立派なグラウンドなのだ、郡内の有力な運動會、陸上競技は大抵こゝで行はれてゐる、地元本莊村の青年團が大正十四年以來今日まで根氣よく拓いて來た粒々辛苦の二千五百坪、從業人員が延べで一万七千人、聊か驚異の勞作に成つたものである、南部忠平の

折紙もついて近い將來に公認運動場を目指してゐる位で、これは天王山に先づ近代的なスマート性を與へてゐる、それに登山道も現在の南口のほかに新しく西側からドライブ・ウエイを山頂までつけることになり、花の頃までに工費二千円を投げ出して間に合せるといふから輕快明朗、いよいよ『モデルン天王山』の出現だ、グラウンドの周圍には櫻の並木が植つて、春は數條の白線の上に躍るスポーツ圖繪が櫻色の額縁をつける、櫻のほかに山にはつゝじが多く山の春着はまた華麗だ、將來は更に植林を整備して

楓の林を作る計畫があるから秋の景物がまた一つ加はる譯である

眼を外に轉ずれば盆地の沃野を距てゝ遠近の山々が四方をめぐらす中に西南に秀峰、和氣富士の聳えるあり、その北に續いて方上山などを眺める、川は西南に吉井川、南に初瀬川、更に北から西へ曲つて金剛川の、三つの流れが清冽な水を湛へて、白く眩しく光つて見える、金剛と吉井の流れに挾まつて和氣富士の裾に群落をなしてゐるのが和氣の家並みだ

山陽線に沿うて眼を北に移せば方上山に由加神社、安養寺などの宮居や山門が樹間に隱見する、ずつと北に上つて遙かに櫻の名所芳嵐園が、春なら緑滴る背ろ山の地を一刷毛サツと淡紅色に撫でて、鮮かにそれと指呼せられる、南に廻つて片上鐵道を越えた山裾に見えるのが入田の藥師堂、藥師の西手初瀬川の堤防は眼下に見下されるが、この堤上に近く櫻並木を植えて櫻のトンネルをこさへることになつてゐる、――かく山頂に立つて身を僅かにクルリと

一廻轉するだけでこの盆地の間に氾濫する多彩豐富の風景美を一望に収め盡くす天王山、風景的デパートの、こゝはシヨウ・ウインドウだ、山は高からず深からず、だから幽邃も雄大も莊嚴にも乏しい、が、山高きを以て貴しとせず深きが故に貴からず、低くて淺きが故に明朗と陽氣と、率直と輕快としその近代性もどうやらシヨウ・ウインドウの屬性に似てゐるらしい

山の附近一帶は史蹟の寶庫でもあるらしい、無論和氣

清麿公に關係の史蹟で、數年前に天王山の西麓の『分地』から『正三位輔治能主』その他享年、年月日などを刻んだ墓石を發掘、研究の結果は明らかに清麿公の墓石と鑑定され、發掘場所に爾來塚を作つて祀つてある、『分地』は『和氣寺』といふ寺院の跡とされ、そこを掘ると古瓦が多數出て來る、一昨年秋の風水害には天王山上の五頭神社境内から石器、土器、刀劍等が現はれる、最近では方上山の由加神社の棟板に『大神主和氣朝臣勤行』とあるのが發見され、清麿公の子孫乃至一族に相違ないといふことになつた、――

相次ぐ公ゆかりの史蹟發見と日本精神宣揚の時代の波にも乘つて、『我が本莊こそが清麿公

史蹟の本家だ』とばかり昨今村人を擧げて考古學熱に浮かされてゐる、村人は顏を合すと先づ『出たか』『出ぬか』と村中を搜し廻つてゐる、都會では沈んだ船から金塊を探り出さうとしてゐるのに、この村では石ころや瓦のかけらを探し廻つて『清麿公』を探しあてようといふのだ、天王山の風はのどかに吹いてゐる、―都會から考古學者が足繁く訪ねて來て村人と一緒に走り廻る、

『入田のお藥師の尊像が行基菩薩の作だと、安養寺から出た文獻にあつたゾ』

『中山に石棺が二つのぞいてゐるゾ』……

そして舊臘には入田の藥師堂の木像が清麿公の像と判つた

景勝と舊蹟と、併せ得たり天王山の景、觀光天王山の行手にシグナルは『青く』光る