【4】 上寺山

山陽新報 昭和十一年二月一日 (土曜日)

二十秀地を巡る 【四】 山谷生

東備一の展望臺

南朝六百年の史蹟を背景に

物靜かな社殿と伽藍と寶物

備前八景上寺山

塒にいそぐ一群の鳥が彼方に消えて茜色の斜陽は田の面に長い影を引くころ、聞くともなく聞こえる晩鐘の音を

海こしのひゞきやいづこ夕風のたよりに傳ふ入相の鐘

と池田綱政公は詠じてゐる、備前八景の一つ“上寺の晩鐘”は昔を今にその靜寂を傳へてゐる

裸祭の奇觀に名高い、金陵山觀音院から吉井の清流隔てて東に鬱蒼たる松林の丘上に層塔が空を突くのが見えよう、それが上寺山なのである、その山は海拔百メートル餘で丘と言つた方がよいかも知れない、西大寺町から十七、八町、隙もなく伸びた松林の影を引く山路にかゝれば、程なく春の日を一ぱいに浴びた社殿と伽藍とが物靜かに點■する古色蒼然たる山上に達する、社殿は郷社豐原北島神社、伽藍は天台宗上寺山餘慶寺六ヶ院である

紅塵を知らぬ幽寂境は自ら敬虔の念を抱かしめ、古ぼけた築地の色も古雅の味を持つてゐる、頭を上ぐれば遠くは常山、金甲山、近きは熊山、芥子山の翠緑を臨み、脚下に吉井川の清流、雄町米の主要産地、秋は稔り豐な千町田を下瞰する、まことここは東備平野の展望台である、暫し頭を垂れて六百年の古を偲べ、南朝の義臣和田一族の忠魂、■■として浮び來るであらう

餘慶寺は人皇四十六代孝謙天皇の勅許により天平勝寶年間、報恩大師開山の備前四十八ヶ寺の一つであつて、大師自作の千手觀音を本尊とし、國寶藥師如來、正觀音菩薩がある、豐原北島神社は佐々木高綱の鎧を國寶としてゐる、幕末の國学者業合大枝がこゝの祠官であつたことはあまりに有名である、名高い寺鐘は直經二尺、上り二尺六寸、明人寄進の名鐘のために安政二年の鐘潰の厄を免れたといはれてゐる

上寺山の保勝會は大正十一年に出來たが發會式も閉會式もせず解散したさうだが、定光院の住職葉山祐晄師は二十秀入選記念に保勝會を復活して近代的遊覽施設を加へ、史蹟を背景とする上寺山の自然美、人工美を廣く世の中に紹介するのだと意氣込んでゐる