天王山

『岡山縣十勝地』鋳銅標識有り。

現地に行ってみると、意外と地味。本当にここが十勝地のひとつなのかなと思いました…。

天王山は和気郡和気町衣笠にある標高60メートルほどの小高い山で、山頂には『素盞鳴神社』が鎮座しています。

明治2年(1869年)に改号して素盞鳴神社となりましたが、もともとは牛頭天王宮と呼ばれていたようで、それが天王山の名称の由来なのかもしれません。

昔は降居の宮と呼ばれ、和気町大田原にある由加神社の御旅所として永正元年(1504年)までは由加神社の祭礼の時には神輿が渡御し、駒競べや流鏑馬などが行われ、寛文年間(1661年~1672年)には池田光政が天児屋根命を相殿し、社殿を造営したそうです。

本殿は流造。

本殿の脇にある石碑に、

“御本殿造營寄進者芳名

昭和三十一年四月竣工”

と書いてあるので、今ある本殿は寛文のものではなく、この時なのかも。

この石柱の裏(右側)にある石碑には、

“一金五拾圓 寄進者 神崎善蔵”

とあります。

これに関連するのかどうか不明ですが、境内の南西隅にある石碑には、

“御本殿奉納 三ッ石 神崎稔”

とあり、気になって検索してみると、二人とも備前市三石で石筆・煉瓦で功績のあった加藤忍九郎に繋がりそうですが、未調査なので今後機会があれば。

狛犬は比較的新しいものみたいです。鳥居も新しいものでした。

神社の裏手にあった鳥居の残欠は交換された前かと。刻銘の存在を確認しておけばよかったです。

当時の新聞記事によると天王山のセールスポイントのひとつは、神社の東に広がる約1ヘクタールの天王山グラウンド。

JR和気町駅前の観光案内所で天王山の事を尋ねたところ、あそこには何もないけどグラウンドがあると教えてもらったので、今もグラウンドとして利用されてるのだろうと思います。

大正14年(1925年)に着工し、地元の本荘村青年団が延べ1万7千人で切り拓いたもので、ロサンゼルスオリンピック(1932年)の陸上男子三段跳金メダリスト南部忠平をこのグラウンドに招いて判断を仰いだところ高評価だったとのこと。

グラウンドの周囲には桜が植えられており、花の季節に訪れるとまた違った印象を受けるのだと思います。

素盞鳴神社のある山頂は『天王山古墳』でもあり、鉄製馬具、大刀2点、多数の須恵器が出土したようですが、正式な発掘調査はまだ行われていないそうです。

グラウンドを造成する際に6メートルほど切り下げたそうなので、古墳の形状もずいぶんと変わってしまったと思います。

天王山古墳の近くには天神山西麓古墳、稲坪天神山南麓古墳群があり、これらをまとめて『稲坪古墳群』として昭和51年(1976年)4月1日に和気町指定史跡になりました。

ちなみに左手奥に和気富士が見えています。

神社の脇に忠魂碑が建っています。元帥子爵川村景明書と刻まれています。

忠魂碑の脇には平成12年(2000年)建立の『戦没者平和の碑』があり、159柱の名前が刻まれています。

裏側には、

“ 私たちは、激動の時代といわれた過去百年の歴史の中で祖国安泰を願うため、戦禍に身を挺し散華された御英霊のお気持ちを察する時、胸の痛むのを覚えます

今、私たちがこの緑豊かな郷土で生活し、又、繁栄するのも御英霊の御加護と感謝しております

二十世紀末を迎えた本年、あたかも桜のつぼみの綻ぶ頃、この地に関係者ご協力のもと勇敢なる戦士の名を後世に伝えるべく「戦没者平和の碑」を建立する事は誠に意義深いものであり、これを楔機に御英霊の遺志とされました世界平和の確立に向け一層努力する事をお誓い申し上げますとともに、御英霊の安らかなるお鎮まりをお祈りいたします

合掌

平成十二年三月吉日 建立

社会福祉法人和気町社会福祉協議会

会長 藤本道生”

景色は素盞鳴神社の裏手に見渡せるように木が切ってあるところがあり、北東方向を中心に望めます。列車が通ると音も聞える山陽本線の向こうには、和気神社や芳嵐園のある藤野エリアを見ることが出来ました。

南側は衣笠山(写真の真ん中)や初瀬川と平成3年(1991年)に廃線となった片上鉄道の線路跡を整備した自転車道「片上ロマン街道」も見えます。

西側は吉井川が見えそうで見えない感じです。

麓から簡単に登ってこれる場所のわりには景色が見通せるいい場所でした。

天王山の南麓には、『黒住教教祖宗忠神御産屋』があります。

建物は小さいけれど、道すがら目に留まって何かなと気になるくらい綺麗に手入れがされていたので、大切に管理されてるのだろうなと思います。

軒先にぶら下がっている風鐸は灯りが付くっぽいです。

現地にあった説明板によると、

“黒住教教祖宗忠神御産屋由来

この御建物は安永九年(一七八〇年)十一月二十六日、冬至一陽来復の佳日、岡山市大元に於て、黒住宗忠神がご降誕された記念すべき御産屋であります。宗忠神はご孝心深く天照太神直授の天命を受け、あまたの人を救い導き、黒住教の教祖として、孝明天皇はじめ公卿達や幾多萬民の尊崇を受け、百世の師と仰がれました。その御産屋を当初、尺所の大国武須計氏が頂き、保存されましたが、故あって長期間解体され、このままではもったいないと、地元青年会が相諮り、神崎善蔵氏(現保氏)から敷地無償使用のご厚意を受け、大正十二年(一九二三年)二月、この所に復元されたものであります。しかしご移築以来数十年星霜を経て老朽甚しく、教祖神ご降誕二百年を記念して、本部管理のもと、衣笠中協会所と共に大修理を行い、ここに貴重なご宝物として後世に伝えるものであります。

昭和五十五年(一九八〇年)十一月吉日

黒住教本部

黒住教衣笠中協会所”

黒住宗忠は生前に何度か和気町を訪れていて、和気町尺所の大庄屋大国氏(当時は大森氏)との関係は天保2年~3年(1831年~1832年)の頃で、当時の当主大森武助が肺結核にかかり、治療や祈祷をしても効果が無く、宗忠を呼び説教や禁厭をしてもらい感激し信仰することとなり、数十日で全快。それ以来、毎月宗忠を自宅に招き、付近の人々が多くつめかける集会をひらいたそうです。

宗忠が晩年自宅を新築し、産屋を知人に与えたことを聞いた大森武須計は「一般の住家とするのはもったいない話だ」と、瓦葺きの家を新築して住人に与えて、代わりに産屋を譲り受けて和気町尺所の自宅に移築し説教所として利用していましたが、大国家の没落とともに説教所は閉鎖され、産屋は解体されて大国家の土蔵に保管されていたところ、大正12年(1923年)に黒住教衣笠教会所の脇に再建されました。

参考資料

私立和気郡教育会編(1909)『和気郡誌 全』山陽新報社

和気町文化財保護委員会編(1979)『和気町の文化財』和気町中央公民館

和気郡史編纂委員会編纂(2002)『和気郡史通史編下巻 2』和気郡史刊行会

山陽新報「十勝地巡り 三」1936年1月4日付朝刊(7)

最終更新日

2015年12月13日