【6】 井原の櫻

山陽新報 昭和十一年一月七日 (火曜日)

十勝地巡り 【6】 大塚生

花は櫻よ、櫻の井原

“ボクの春”や近し

豪華・小田川堤花のトンネル

廣範圍の新觀光地

“春は櫻よ 小田川づつみ 郷社神苑も 花のくも 井原乙女が ゆききの袖に ちらりちらりと 雪がふる”

岡山縣十勝の『櫻のまち』井原を訪ねて、山陽線笠岡驛に下車、こゝから井笠鐵道のスマートな

流線型レールカーの人となつて北行すること約四十分、井原に入る、こゝぞ『花は櫻よ、櫻は井原』として全國に誇る櫻花の名所地だ。

先づまちの南端に鎭座まします郷社足次山神社に詣で、神前に額づき、皇國の隆昌を祈念して、神苑を見亘せば常磐の緑をたゝへた老松の間には數百株の櫻樹がさんさんと輝く新春の陽光を浴びて『ボクの春』や近しと迎春譜を奏でゝゐる。

冬來なりなば春遠からじ――やがて淡雪が消え春霞のたなびくころとなれば境内は一面櫻花の雲に包まれ、四月四日の恒例郷社大祭を中心に十數日間に亘り

夜櫻祭がとり行れると共にこの間には招魂祭、分墨祭、先哲祭、福神祭などが連日連夜に亘つて執行される、また相撲その他あらゆる催もの、興行などがあり、近郷の善男善女は櫻の郷社を目ざして殺到し殷賑を極めるのである。

郷社の大鳥居の下を通リ拔けて進めば『櫻花のトンネル』として天下に喧傳されてゐる小田川堤に出る、

千古の後月文化史を瀬音に秘めて北から南へ流れる小田川の清流に沿うて一筋に走る堤の櫻こそは井原のみが有する獨特の

美觀だ足次公園の前面から新橋橋畔の舞鶴公園に至る二十餘町に亘る長堤の兩側には移植後三十年の歳月を閲し、成長の頂點に達してゐる櫻樹が枝には木枯の音を響かせながらも『次に來るもの』わが代の春よ近しと待ち構へてゐる、

花の開くころともなれば長堤は全く花のトンネルと化し、井原全町は花の雲に包まれる、對岸の廣い芝生は毛氈と變じ、町内の料理店、カフエーなどはこゝへ臨時出張所を設け、美人を揃へて花見客に呼びかける、こゝの出店はいづれも『安くて飲ませる』ので有名だ、芝生一帶は花見の團體客の

歡樂境と化し飲めや歌への大騒ぎが展開するのだ

川には數條の板の假橋が架けられ下戸は芝生に寢ころんで、ポカポカと暖かい春の陽を受けながら清流に映ずる櫻を見るのも悪くない。日が西山に傾けば二十餘町の長堤の櫻につけてある數千の雪洞は一齊に電光が輝き不夜城を出現するのだ、花の雲が電光に映じて小田川の清流にあでやかな姿を寫し出す美觀こそは井原情調の春宵一刻の眞價であり、井原櫻の眞の姿である

地元保勝會では井原の櫻を永遠に保存するために古樹は若木の増殖によつて補充して行くと同時に足次公園以南の出部村七日市の日芳橋までの

堤にも増殖することになり目下準備が進められてゐる、また對岸西江原町の堤にもまた櫻樹を植ゑ小田川の兩岸一里餘總べて櫻花のトンネルと化すべく計畫中である、また町有林の權現山を開拓して觀光道路を新設して展望台を作り一里餘に亘る小田川堤の櫻を一望のうちに俯瞰し得るやうに目下諸種の觀光設備と相まつて工事が進められてゐる、

新橋橋畔の舞鶴公園も近代的美化工作が完成してゐるので今春の櫻の咲く四月を期して二業組合は勿論商工、保勝會も一齊に『花は櫻よ、櫻は井原』と大々的に宣傳し、中國第一から全國第一の大躍進をなすべく

大規模な觀光百年の大計を立案中だ

この附近には芳井の天神、蛇の穴、龍頭の瀧、猿鳴境、道祖溪、高山寺、鬼ヶ嶽などの名所が多いので井笠鐵道の後援の下に觀光ルートを作り新人ハイカーに呼びかけることになつてゐる、これらの廣範に亘る新觀光地こそは新時代の先端を進むべき新しきハイキングコースとして絶好のものとなるだらう