明治35年(1902年)1月発行の『小天地』に掲載されている「作の七日」を参考にしながら津山市をうろうろと。
薄田泣菫が明治34年(1901年)10月29日の夜に降り立った中国鉄道津山駅。
現在は無人駅で、JR西日本津山線の津山口駅と改称されています。
当時から存在しているのか分かりませんが、生い茂る雑草の下に古いホームが残っています。
泣菫生
これは丑の歳の秋十月美作津山に遊んだをりの日記、手帖へ書きなぐつたのを其の儘にこゝへ。
八年ぶりに津山にある姉を訪ねて行くので。
初めての中國鐵道の旅、路ぞひの景色をも飽くまで眺め度いと念つて居たが、岡山を立つて金川に來た頃日は最う全然暮れて了ひ、朝より降り續きの雨は、夜に入つて風さへ添はつたらしく、折々聞ゆるけたゝましい外の騷ぎを氣に仕ながら、閉め切つた一室に唯ひとり悄然と外套の襟を掻き合せて何くれと無く空想に耽つて居るうち、驛夫の忙しない聲に誕生寺、龜甲は夢の如く過ぎ、次は津山と待つ身には何やら其の歩みの鈍つたらしくも疑はれ、幾度か焦たがりし後、長く笛の尾を曳いて投げ出すやうに汽車は止まつた。
手早く荷物を纏めて廊下を傳うて來ると、薄暗い瓦斯燈の日影を横に浴びた顏が人待ちぶりに窺いて居る。姉だ、姉だ、見違ふものか八年前その儘な御顏を。
如何にして混雜を分けたであらう、自分は最う姉の肩に取り縋つたまゝ、歡び極まつて言葉さへ無いのである。
『甚く晩かつたのね、荷物は?。あ、挨拶してますよ、子供が、大きくなつてるでせう』
自分は今迄夫とは氣附かなかつた、否、氣附いた今も猶此程迄にとは思はれぬのを、強て八年といふ月日にかこつけても試たが、就中兄の――左樣さ、十二になるのが大人らしう莞爾として居るのを見ては腹の底より驚かぬ譯には往かなかつた。
自分を先に、子供二人を中に、姉は後に設けられた三臺の車は徐かに母衣を卸して眞暗な路へ出た。雨はまだしぶいて居るらしく、折々濕つぽい風が竊むやうに吹き纒はる氣味惡さに、幾度か帽を目深に押へながら氣遣つた程にも無く姉の御顏の健康らしいのに滿足して獨りで微笑んで居る。
橋より鍵の手に道が折れて、明りが一杯に窓へさした家の軒を過ぎると道は再び闇へ。河瀬の音が手に取るやうに聞ゑる。
十分の後は最う火鉢を眞中に、圍う環になつた七人、姉の次男が珍らしさうに、曾祖父樣、祖父樣、祖母樣、阿母樣、兄樣、謙と吾名をも數み込み乍ら、愛憎氣も無く自分を取殘すのは今歳八歳のまだ人見知をするのであらう。折柄の用事を田町までの歸途が遅いのは外へ廻つてかと案じられて居るのは四十九歳の今日まで處女の叔母である。
夕餐も濟んだ頃叔母は歸つて來て、姉の母を相手に媒介人めいた格で頻と二三の名前を繰返しては、釣合ふの釣合はないのと談しかけて居る、思ふに天下物の關係ばかりを考へてゐるものは枝間の蜘蛛と婦女の外に多くは有るまい。
談話の興が進むにつれて『笑聲』と『驚駭』がのべつに入り代つて來るうち十一時が鳴つたので枕についた。
明日も雨か知らぬ。
昨夜の空を氣遣ひながら、今朝起きて見ると一點の雲も無く晴れ切つた模樣は、全で虚言のやう。
九時頃城趾に登るべく姉に隨つて門を出た、母は焦茶色の肩掛に括まつたまゝ門に立つて見送つて居る。好い空合だ、遊ぶには勿体ない程の上日和、道添の柿の木の葉が納得したかのやう徐かに飜れるのを樂しさうに眺めながら、程の三丁も來たかの隔りに不圖振回つて見ると、門には未だ焦茶の肩が見ゑる。
二人とも押默つて製紙會社の横手を、石段を拾つて往くと、日向ぼこりでも仕て居たものか、鼬が一つ慌たゞしう小ぽけな頭を擧げて崩石の間から遑々見まはして居たが、急に首を縮めて脚下の孔へ滑り込んで了つた。
壯なものだ。城の位置は市街の東北隅にあたらう、本丸東西七十二間、南北六十九間。二の丸東西七十間、南北百間に餘る廣さ、嘉吉の昔山名範清が初めて築き揚げたのを慶長に入つて國守森忠政が改修し、九年の經營で創めて出來上つたと傳へられてある。土地の高さは百五十尺、南は銀のやうな津山川の水を隔てゝ伸び上つてゐる國境の連山と差し向ひ、西北は遠く背合せの山陰道の山脈が顧られる。
暫らく埓に凭れて居た姉がやをら身を起して、言葉しづかに、何日も心に煩ひの出來た折は唯獨りこの城趾に登つて來て神に祈祷を捧げると、語るのを聽いた自分は覺ゑず肅然として振り回つた、姉は瞬もしないで今津山の市街を横に青い空を石山の方へ飜へつて行く鷹の一羽をみつめて居る。
姉がこの十年の苦衷を知りぬいて居る自分は、此の場合慰さむべき言葉をだに持たない。斯くても幸福とあきらめねばならぬのであらうか、姉は義しき事のために苦められて居る、夫に死別れて以來二人の子供を育てあげる傍ら、宗教の傳道に女子の教育に有らん限りの力を揮つて、己の主義の下に勇ましく世と戰つて居るのである。地の榮華と名利と姉の前には殆んど道傍の名無し草の花にだに若かないのを見ては、自らの性を忘れて殆んど崇高いまでの其心を祝福せざるを得ぬ。が本來涙脆いその性質は、面にこそ現はさなけれ、事に觸れては如何程にか世の路の險しいのにあぐんだことであらう。
『祈るべき神と場所とを持つてゐるものは尚しも幸福です。』
姉は纔かにうなづくのである。
鐘が鳴り出した。――天主閣の趾でもあらうか、小高い岡の鐘樓に老人が撞木を手に立つてゐる。その昔この城か成つた折、祝賀にと細川忠興が大鐘を鑄て贈つて寄したに、其形が似て居るので後には朝顏の半鐘と綽名で稱れたと聞いて居る が今鳴るのが夫れであらうか。撞く人も以前は斯の藩に誰知らぬ者もない家柄であつたとか。――鐘は十一を撞いて納まつた。
城の北側、爪下りの坂を、姫蔦の這ひ下つた石崖に挾まれて下りると、最う一面の稻田で、野中の細道を三町も來れば此處は西苫田村の衆樂園と謂つて舊藩主松平の庭園を其儘に今は公園となつて居る。水に橋あり岩に樹あり、櫻樹紅葉を程よく交へて春秋の錦を此方に見渡すべき亭が建てられてある。土地自慢と云ふのであらう、姉は頻りと樹のたゝずまひ、橋の反り工合を講じて、世に二つとは見られぬ庭園の見事さを誇つて居るのであるが。惜い哉、見巧者ならぬ自分は今那の楓樹の枝に止つた小鳥の如く、却つて麓の雜木林が氣が措けないで好ましい位に思つてゐるので。
歸途に町を眞向に、田畝を隔てゝの石山が間近う手の達きさうなのは明日の雨かと、姉は稍屈託顏に見ゑた。
午後は幼いのを二人并せて石山へと登るのである。野の小路樅の並木に棹を渡して掛稻を乾したのは、秋の今日この頃何處の田舎へ往つてもついぞ眼前に隱れた事は無いが、其間を拔けて往く吾ら四人の樂しい笑ひ聲に、例に無く物珍らしう興がられるのである。
恐ろしく長い蛇が道を横つて、古梅の根を括んだ熊笹の繁みへ隱れて了つたので、眼を一杯に驚いて、最う來年の春は熟れて居たとて、この梅の實は取る氣が無くなつたと子供二人は可愛らしい事を言ひ合つて居る自分は平生より其勝氣な性質につけても、姉の健康を氣遣つて居るので、今日の山ぶみには夫と無く、疲勞の容子を察ておかうと、前へと勸めても姉はいつかな殿の役目を渡さない。が而し巓に登つて祠の縁へ休んだ折の平氣な顏色で見ると稍心安う思はれるのであつた。
那か――今し方まで登つて居た城趾を横抱に突伏したかのやう、津山の市街は河に沿うて細長う擴がつてゐる、山は茶、野は黄、水は白、秋の光は一杯にこの邦の上へ浴せかけて、萬象おのづから沈着いた調子で、誰ひとり今日の如き日に腹を立てる者も有るまいと思はれる。
一片の白い雲が因幡境へと徐かにすべる。
祠の後は雜木山で、風も無いのに何か面白さうにかさこそと囁くのが聞ゑる。
あゝ幸福だ。
椎、楢、白樫、くぬぎ林、
漆樹の小枝よ、栗の幹よ、
返照よこさに金をひきて
神領なりやと惑はしむる。
自然の清興胸にわきて、
山ぶみ殆ど歸る如く、
姉弟感謝の言葉しらず
よろこび極まり涙ながる。
實落ちて裂けたる苞に盛るも、
三つとは更へざる酒に醉ひて
土窟なる洞に騷ぎあへる
小猿よ、産れて何の幸ぞ。
われらは家路にだどるべきを
とるべき路をも忘れ去んぬ。
歸途には山の背をめぐつて鬼子母神の祠の前へ出た。突然に横道より頬冠で駈け出して來た少年二人の手籠には夥しい茸が盛られてあるので、夫れ!、と此方の子供等も追駈けてのぞき込んで、頻りと舌打を仕て居る。狹つ苦しい岩間を流れる谿水の餘り美しいのに、渇きもせぬ咽喉を濕らして爪下りの路を分けて來るとふと、脚下で讀書の聲がきこゑる、此樣な山に隱者でも有るまいと、見れば道側へ突出た岩のかげで今し方の頬冠二人が得意氣に、何やら軍物語を讀んでるのである。
湯に入つて歸る、間も無く太田石原の兩氏が訪はれた。枕に就いたのは十一時頃、叔母と姉とは夜半過まで頻りと談話を續けて居たらしい。
朝七時覺。空がどんより曇つて、石山の姿まで寢不足したかのやう眺められるのであつたが暫く經つと一重二重と薄ら雲も散ばり、軈ては花のやうに青い空が現はれて、今日も晴だと見られる。
學舎に授業があると云ふので姉は今し方教室の方へ往つた切り、自分は机に凭れて携へた書物など繰り擴げて讀むとも無しに見て居る。
正午過ごろ、靜まりかへつた玄關に誰か訪れたかの氣配がして、軈て、
『直に往らつしやる樣に』
と姉の言葉が聽ゑる。訊けば昨夜の石原氏が親切にも逍遙の道案内せうと謂つてよこされたとの事、待つ程も無く最う見ゑたので、行先は院庄と四人連立つて門を出た、その二人は例の幼いので。
路は西の松原へ入つて、これより先は伯耆街道、並木の間より左右に開けた稻田が一面に見渡される。秋なれやで、荷駄馬に跨つて東津山へと走らす、孰れは野良男の群までが、麥稈帽の鍔廣に煽られて謂はゞ武者振の甲斐/\しう見かへられる。那の鍔へ緋の樣な楓の一枝でも結ひ附けたならば、其處界隈に稻を苅つて居る娘等の戀ともならうものをなどゝ果しない事を考えてゐるうち、路は早いもの、此處は最う、宇那提森、――
『眞鳥すむ卯名手の森の菅の根を衣にかきつけ着せん兒もがな』と萬葉の昔に咏まれた跡で、今は五抱えもあらうと云ふ、椋の大樹が大童になつて蟠まつて居る。聞けば古くは此の樹の繁みに大蛇が住んで、人足の絶ゑた眞夜中には、靜かに身を延せて――隔りは百間にも餘らう――高野神社の石鳥居に取り纒いて、社の名の金塗の文字を嘗めて居たとの事、詳しくは如何も記憶が怪しいのでと、之は石原氏が銹びはてた幹を撫でゝの譚である。が兎に角古い物語は忘れて了つた所で秋も更けた此頃、霜に色づいたこの大樹が一夜神山おろしに動搖めいて、萬枝の葉を震ひ盡したならば、界隈の人孰れも恐ろしい神怪を感じない譯には行まい。總じて大樹は權威のあるもの、その蔭に立てば誰をも思慮に沈ませるものであるが、別ても宇那提森の椋の如きは、――
聲がしないのは何處へと、振り回つて見ると、小供二人は草を毟つては餘念も無く道側の一軒小舎の窓へ臨ける、内よりは影の樣な者が徐と障つて引張り込む。さては新馬の小舎か、明窓を穿けてないこの奧に定めし氣も滅入るであらう、と寄つて鼻を撫でやうとすれば、驚いた風に跳ね上つて眞闇な隅所に隱れて了ふ。果ないかな、人の慈悲も枯草の一束に若かないのである。
砂の美しい馬場を行く事百間、高野神社の回廊をくゞる。古昔飛彈匠が手に成つたといふ、毀れかけたのを其儘に、新らしう二重に廊が構へてある。村の名は二宮村字高野原、社の神は鸕鶿草葺不合尊、古く安閑天皇二年十一月の創建で、後に繁山を負ひ、前に津山川の白い流れを隔てゝ久米の佐良山を見渡す廣い境内に本殿、釣殿、拜殿、神樂殿、神饌所など見るべき建築がある。
伯耆街道――何といふ趣のある名であらう。
干魚と醤油を擔いだ唇の厚いのや、乾鮭の頭がはみ出た藁苞を背負つた顎の長いのや、頬冠や、繼はぎの股引やの一群は、何處まで歸らねばならぬ身か、談話の模樣では、此所界隈の者とも見ゑぬを、これは又悠長な、皺の無かつた昔追廻の二階ではたいた財布の嵩比べなど誇り合つて笑ひ轉けて居る。
あゝ伯耆街道、往く人も歸る人も孰れは是に似交つたもの、茲に政治家の噂さと穿違の流行語を聽か無かつたのを心より感謝する。
高野神社より半里も來たであらう、道は細く右に折れて清眼寺の前へ出た。石を投げたならば達かうか、寺の門を斜に向へ畑地が稍嵩まつて、上に石碑が見ゑる訊けば那が嶋田母子の跡だと云ふので、豆の殼の取亂れた畝道を辿りついてその前に立つた。嶋田母子とは何人か、娘は淺野母は阿中と言つて勝山より連子で院庄村の嶋田馬之丞の許へ嫁いで來た、が貧は狡猾いもの、馬之丞は一日隣家の酒糟を盗んだのが、覺はれて牢獄に繋がるゝ身となつたので、妻子は罪を己に被せ遺書自盡して馬之丞の冤を官に訴へた。斯くて免された馬之丞は髪を剃つて佛弟子となつたといふ。
美しい人の情だ、此處は其住居の跡だと聞けば、日は暮れても去りとも無い氣がする。
作樂神社――備後三郎が櫻の樹の趾は清眼寺より三丁には足りまい、稻田の眞中で一町歩にも餘る境内の周圍には、松林がづらりと押並んでは居るものゝ、土地が廣い丈に重りかゝつた遠山の影が見越され、元弘の昔の行在所跡といふのへ建てられた本殿の建築すら、四圍の風物が餘りに洪濶に、はた森嚴なのに氣壓されて、頃は秋の夕暮、雨催ほしの鈍ばんだ雲の色さへ添はつて妙に心細う氣が滅入るのである。
大鳥居の後に伸上つた櫻の霜葉が散り殘つてあるのを後の紀念にと二葉三葉毟つて居ると直傍の小ぢんまりとした家の障子が靜かに開いて宮司の妻でもあらうか振仰ひで空模樣を見てゐる。
歸途ほど平凡なものは無い。道側の學校の門を出て來た女教師二人が繋いだ樣な御辭儀をして、西と東へ別れたのと、津山川で鯰が一つ釣り揚げられたとの他には何一つ眼を引くに足りるものは無かつた。
夜に入つて折柄來訪の三木氏夫妻と共にさる人(名は忘れた)得意の尺八を聞いた。(未完)
2017年9月26日 作成