カイザリアで獄中にいた2年の間にパウロはその市においてユダヤ人と異邦人のトラブルの事を耳にしたに違いない。カイザリアは異邦の市であったが、ユダヤ人であるこの市の創設者へロデのゆえに少数派ユダヤ人は特権階級を与えられていた。この緊張が暴動を引き起こし、フェリックスを介しユダヤ人の立場が不利なものへとなっていった。ついにフェリックスは双方のコミュニティーの代表者らをローマに送り、ネロのもと討議させた。フェリックスが総督を交代し最終判決が出た時はユダヤ人の立場はより悪いものとなった。結果、ユダヤ人のセカンドクラス落ち(二級市民)。ギリシャ人からの侮辱が始まった。
AD66年9月に勃発した対ローマ戦争の要因はこれらの問題ゆえであろうとヨセファスは考える。クラウディウスはユダヤ人に好意的であったが、カイザリアにおいてネロの決定によって帝政は監視されることとなった。これは熱心党への支援を強めた。
熱心党グループは60年もの間ローマを拒否し続けていたので前記のことがこの党の支援を大きくした。しかし、実際戦争勃発はエルサレムで起こった。
フローラスはこのあたりにおけるローマの総督であり、富を渇望していた。ついに彼は神殿宝庫に押し入り帝国任務のためにと称し17タレントを押収した。これが暴動を引き起こした。これに対し彼は、先導市民を無差別に捕らえ、磔にし、市の一部を略奪させた。
その返報として人々は、アントニアの要塞と神殿との情報伝達をやめ、兵隊による突然の侵略や神殿付近の占領を防いだ。シリアは人を送りこの問題の終止を求めた。アグリッパは人々に延滞金の支払いや神殿―アントニアの要塞間の交通修復を勧告したが、このことはローマがフローラスを退けるまで彼の配下で行われると聞くと、人々は思いを変えた。神殿隊長エレアザルは、祭司を説き伏せ、皇帝の繁栄のための日々のいけにえの奉げ物をやめるようにさせた。これはローマに対する抗議行動であった。元々深刻な事態を含んでいたが、暴徒がアントニアの要塞を襲いローマ警備隊を一掃してしまったことによって一線を越えてしまった。
ローマ軍からマサダを奪ったばかりの熱心党はエルサレムの反乱を聞き、こんどは自分たちの番だとした。マサダの武器庫から武器を取り、メナヘムとともにエルサレムを行進しその西側を占領した。
エレアザルは対抗者を望まなかったので両グループは争いはじめ、非常な暴動ののち、メナヘムは彼らの指導者らとともに捕らえられ殺された。それから逃れた者たちはマサダに戻りAD73年の春までそこに立てこもった。
AD66年の11月、セスティウス ガルスはユダヤの行政長官には手に負えなくなっていた反乱を抑えるためにシリアから南へ軍を進ませた。彼はエルサレムの北側区ベゼサを占領するとすぐに引き上げた。おそらく、エルサレム全域を占領するほどの人数を持ち合わせていなかったからだろう。北を行進中軍隊はユダヤ熱心党に待ち伏せされた。その場所はベスホロンの小道でユダ マカバイがかつての戦いで大勝利を収めたり、過酷な損失を被って苦しんだりした所である。
翌春、ヴェスペシアンが到着し、この状況のため任務に就いた。そして、ガリラヤ、ペレア、西ユダ、イドマヤに渡り腰を据え、仕事をした。彼がエルサレムを包囲する段階になった時、ネロの死(AD68.6.9)と市民戦争のニュースが入った。この一報により、ヴェスペシアンはその軍事行動を一時停止し、すべてのことの成り行きを見ようとした。
その間、彼ら自身の中から、エルサレムにて3人の指導者が立てられた。エルサレム市にはシモン バル ギオラ、神殿にはギシャラのヨハネ、内庭には熱心党の指導者シモンの子エレアザル。
ヴェスペシアンがローマに戻り、息子ティトスが反乱を終結させた。ティトスはAD70、四月に包囲を始めた。
これは、ユダヤの歴史上とても暗い時期であった。ティトスは過ぎ越しの祭りの期間も都を包囲し続けたので、都は多くの人でごった返した。およそ110万人が死に9万7千人が捕虜としてとられた。ユダヤ人の苦しみは大きかった。
一方、ティトスは彼の軍隊とともにエルサレムに近づき、彼らの目前にある土地を平らに均すように指示し、果樹を含む木々を引き抜き窪んだ地をそれで埋め鉄岩地を粉砕した。その間彼は騎兵隊を彼らと都の間に一列に並べ、作業にあたっている者がユダヤ人に攻撃されないようにした。その場を均すのに4日かかった。それでローマ軍は野営をしティトスは残りの兵隊を連れてきた。彼は兵を配置し、騎兵、歩兵、射手7~8人の隊列によって城壁を取り囲んだ。
ローマ軍はエルサレムの北側から攻めた。そこは3つの城壁がすべて通っており、外壁はアグリッパ一世によって立てられたばかりの物であった。シモンは上部の市に熱心党員1万人と、ともに戦うイドマヤ人(エドム人)5千人を持ち、ヨハネは神殿内に6千人、エレアザルには内庭に他の2千4百人の熱心党員がいった。この3グループはローマ軍に対してはともに戦ったが、それ以外の時にはお互いに敵対しあっていた。
ヨハネは神殿周辺を守り、シモンは上部の市を守っていたがその間に位置する土地は焼かれ戦場となった。市民戦争はローマ軍が都の外側へ到着した時も続けられていた。
ヨセファスは言う「彼らは包囲軍が彼らに望んでいたすべての事をやってお互いに戦った。ローマ軍から苦しめられたと言うよりむしろ、お互いに打撃を加えあっていた。暴動が都を破壊し、ローマ軍が城壁を破壊した。」実際にローマ軍が都を攻撃した時は、このグループは共通の敵に対して共に戦った。
ティトスはユダヤ人たちのことをこう言った「この狂気に操られているだけのユダヤ人たちは、すべてのことを注意深く、用意周到に行う。彼らは戦略を続け、伏兵を設け、従属的で強い意志を保持し、お互いに忠誠なので、幸運がその戦略に成功を与える。」
ローマ軍は兵器や破城槌、その他を立て都を攻めたが、ユダヤ人は壁を乗り越え破城槌のてっぺんに飛び降り戦った。ユダヤ人は全く軍から離れず、都を出入りして彼らと戦い、活動を妨げた。
しばらくして後、北外壁が壊され、ユダヤ人は内壁へ後退した。ローマ軍は門を開け壁を壊し都の内へ陣営を移した。
ティトスは第1の城壁を打ち破ってから5日後、第2の城壁を取った。彼は兵士に殺人や略奪を許さなかった。都と神殿を保存させておきたかったためだ。彼らに修復を約束したほどであった。ただ反乱をおさえることが目的で、エルサレムを破壊する意図はなかった。それで彼は第2の城壁を倒壊させないという誤りを犯した。ユダヤ人はゲリラ戦を展開しはじめた。彼らはその町の路地、通り等を知り尽くしていたので、飛び出してきては人を殺し、すばやく逃げ去った。戦いは悪化し、ローマ軍は後退しなければならなくなった。城壁が破壊されていなかったので、撤退はうまくいかず多くのローマ兵は命を落とした。ユダヤ人は城壁の破れに死体をつめて壊れた所を塞いだ。しかし、3日後ティトスは第2の城壁を完全に倒壊させた。この時までに既に多くの人々が都内で餓死していた。
ティトスは包囲をゆるめ、和平に務めたが、ユダヤ人は懐疑的にこれは陰謀だと考えローマ軍を信用しなかった。ティトスはこの戦いの一時停止期間を兵隊への支払いに利用した。ヨセファスが仲介したが、和平はもたらされなかった。
あるユダヤ人たちはローマ兵のもとへ逃れ、地方へ行くことを許可され新しい生活をはじめ
た。この人々の中には、金を飲み込み、後日排出させ、手にしようとするものもいた。もし熱心党に逃亡を考えていることが知られた場合は、喉を掻き裂かれた。しばしば、金持ちはこの理由で殺され、財産は持ち去られた。
和平が退けられたので、包囲はなおも続き、窮状はさらに悪化した。穀物はどこにもなく、強盗が個人宅に押し入り、食物を探した。食べ物が見つかるとそれを隠したと言われ、住人は拷問を受け、見つからなければ、どこかへ隠していると思われ、さらにひどい仕打ちを受けた。強盗は家の住人が健康そうに見えると、食料があると判断してひどい拷問にかけた。餓死しかけている人は、死ぬままにさせておいた。人々は食料を得るためにもてる物すべてを売った。有力者たちは、弱者が貧困に喘いでいる間にも満ち足りていた。家族は食べ物のことで争った。他人の家の戸が閉まっていれば、強盗はこじ開けて中に入り食料を盗んだ。食料を出させるためにひどい拷問の手段をとった。
ヨセファスは言う、「この困窮した不幸な人々の陰部を埋め塞ぐこと、彼らの肝要な部分に鋭い棒を打ち込んだ。」これらのことをした人々は飢えていたからではなく、自分たちのために食料を蓄えるためであった。人々は夜中に城壁をよじ登り、周りの丘へハーブ等をあつめに出た。この人々は都へ戻って来た時捕らえられた。
ヨセファスは言う、「未だかつて、どんな他の都市もこのような窮乏で苦しんだことがなければ、どんな時代もこのような悪に満ちた世代を生み出したこともない....熱心党員らは、人間の屑、私生児で我が国の失敗作の落とし子である。」あるユダヤ人たちは城壁を越え、食物を得に出たところ捕らえられた.彼らは逃亡者ではなかったので、ティトスは彼らを鞭打ち、拷問し、磔にした。ティトスは、このことによってユダヤ人が降伏することを望んでいた.1日におよそ5百人も縛り上げ、ティトスは前線で働く兵士を彼らの擁護にあてる気もしなかったので、兵の憎しみのはけ口となることを許容し、それゆえ、彼らは十字架に釘付けになった。ヨセファスによると「それで、兵士たちは怒りと憎しみをユダヤ人に発散した。捕らえた人々を面白半分に、それぞれの十字架に釘で打ち付けた。あまりにも大勢になったので、十字架を立てる場所がなくなり、磔る十字架(木材)も足りなくなった。
都の内で熱心党は人々に、磔にされたユダヤ人は力づくで捕らえられたのではなく、ローマ軍のもとへ逃げていった人々であると、語った。
ローマ軍は城壁に対して堤防を築き、ユダヤ人は逆襲に出た。彼らは都から飛び出し、恐れを持たず、ローマ軍と戦った。橋板を燃やし、戦いに明け暮れた。ヨセファスは、「軍隊は混ざり合い、土ぼこりが広域に渡り視界を塞ぎ、大騒音がお互いの声を聞こえなくした。両隊とも敵も味方も判断つかなかった。」
ユダヤ人は、失うものは何もないとばかりに激しく戦った。橋板を失ったことはローマ軍にとって大きな痛手だった。ローマ軍にとって木材の不足は決定的で、運び入れるにも数マイルの距離を行かなければならなかった。彼らは都を征服することに絶望した。
ティトスは命令隊長と会議し、都を囲みこむ城壁を立て、食料の搬入と人々の外出を防ぐことを決定した。城壁内での飢饉は劣悪な状態となった。家族全体が一緒に死んでいった。2階は飢饉により死にかけている女性と子供で、市内の路地は老人の死体で埋め尽くされた。都全域が死で覆われていた。苦難が増大し、強盗がますますひどくなった。死んだ人々の家に押し入りその体を覆っていた物さえも奪い取った。
死体は城壁の外へ投げ落され、それを見たティトスは嘆き、幾人かでも救うことができればと攻撃を再開し、堤防をもう一度作った。それは11マイル離れた所から木材を運び込むことだった。この堤防は以前作られたものより頑丈で力強いものとなった。貧困はさらに悪化した。その町から逃亡する人々は、シリア兵かアラビア兵に捕まり、体の中に隠し持っている金を奪うために体を切り開かれた。一晩にこのようにして2千人の人々が殺された。ティトスはなんとかしてそれを阻止しようとしたが出来なかった。この時、何千人もの死体が都の外に放り出され、人々は排泄溝や家畜の糞等をあさり、食料とした。ローマ軍の侵略の結果、この地域はすべての木が切り倒されて、全く景色が変わってしまった。
ついに、ローマ軍はアントニアの塔、神殿の北西部にある要塞を攻め取った。そしてこれを粉砕した。ヨセファスが再び説得したので、あるユダヤ人はローマ軍側へ逃れた。
ローマ軍は聖なる地に強い関心を持っていたので、神殿が破壊されることを望まず、ヨハネが戦場を別の場所に移すかどうかと提案した。(ティトスはユダヤ人が聖地をこのように扱っていることを嘆いた)ユダヤ人はこの提案を、相手が怯え始めたためと受け取り、もっと横柄に、傲慢になり戦いを再開した。アントニアの塔と神殿の間は狭く、ティトスは全軍をそこに送り込むことは出来なかった。それで、特に勇敢な30人の兵士をそれぞれの百人隊から選び出し、特別班を組み、神殿警備隊を攻撃した。その間、別隊は入り口を拡大させるため粉砕を続け橋板を作った。そして神殿に火を放った。ユダヤ人は、ローマ軍を異邦人の庭へおびき入れ火を放った。
一方、都内の飢えは極限に達した。人々は靴や盾の革、干し草の束等文字通り何でも食べた。
ヨセファスは、ある母親が自分の息子を料理し、半分食べたケースを記している。
橋板を設置し、ティトスは神殿を攻撃した。神殿を保護したかったが自分たちの兵士が危険にさらされていたので、とにかく門に火を放つよう命令をくだした。ついに、神殿全体に火が、
まわり、多くの血が流された。兵士らに狂気が襲った。彼らの心に潜んでいた憎悪が放出さ
れ、目に入るすべての人、子供、老人、祭司、だれもが殺され、金銀が略奪された。シリアの金市場において金の価格が下落するほど大量の金が奪われた。1パウンドの金はそれまでの価格の半分となった。
神殿のまわり全域は血と死体とで埋め尽くされていた。この段階でティトスは残りのユダヤ人が降参してくれることを望んだがそうはならなかったので、都の残りをすべて焼き略奪するよう命令した。都の低地部は既に市民戦争によって略奪、焼き討ちにあっていたので、ローマ軍は都の上部に向かう所だった。都の上部は、餓死または熱心党によって逃亡すると思われて殺された人たちの死体で覆い尽くされていた。逃亡者は奴隷として売られたが、誰も彼らを買いたいと思わず、彼らはただ同然に取引された。
ローマ軍が都の上部に入って来たので、ユダヤ人は恐れ逃げ惑った。ここでもローマ軍は目に入るすべての人々を殺した。家々を破壊し押し入ったが、死体の放つ腐敗臭のためそこから去った。そして都に火を放った。ヨセファスは言う「あまりにも大量の血が流されたのでそれによって火が消されるほどであった。」シモンとヨハネ(前出)を含む幾人かのユダヤ人たちは地下洞窟に逃れた。
ローマ軍は殺すことに疲れたので、兵隊、老人、弱りきっている人だけを殺すことにした。他の人々は女性の庭に閉じ込められ、若者はエジプトの鉱山や、競技場で獣と戦わせられるためローマへ送られた。そして17歳以下の子供たちは奴隷となるため連れて行かれた。(申命記28:68;ホセア8:13;9:6)
捕虜9万7千人、死者11万人の殆どがエルサレムの市民ではなく、過越しの祭りのために来ていた人々だった。戦争が始まった時は、3百万人もの人々がいたに違いない。
ローマ軍は洞窟を探り見つけた人を殺した。ヨハネは捕らえられ終身刑、シモンはローマへ連行され虐殺された。城壁は破壊され、幾つかの塔が残った以外すべてが地に落ちた。
(ネロ)
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです…彼らは―神のしもべなのです…」ローマ13:1,6 パウロがこれを書いた時点では、ネロが皇帝であった。この男が帝国を支配することに対して従っていくには非常に困難が増大しつつある中での勧告。
子供時代
AD37年12月15日 ルキウス ドミティウス アヘノバルバスは、イタリアのアンティウムにある皇帝カリグラの邸宅で生まれた。彼の祖父は、ローマ初代皇帝アウグストスの兄弟の孫にあたり、母はそのひ孫だった。父親はルキウスが12歳の時自然死しており、母アグリッピーナは若く、彼女の伯父クラウディウス皇帝と結婚した。AD50年、彼女はクラウディウスを納得させ、ルキウスを養子とし、ネロ クラウディウスと名前を変えた。
AD53年、ネロはクラウディウスの娘オクタビアと結婚することによって、クラウディウスの義理の息子となった。アグリッピーナは16歳になった自分の息子を操ることに成功しクラウディウスの死後、自分が皇帝の座に着いた。
皇帝時代
アグリッピーナは、野心に駆られ帝国を支配したがり、AD54年、夫を公の晩餐会で毒殺した。即刻ネロを即位させ、政治的敵対者をすべて殺すよう指示した。彼女は彼と共に帝位に着いて、コインの銘となり、アウグスタの名称を取った。
ネロには2人のアドバイザーがいた。執政官長で軍事と行政問題に携わるセクストス アフラニウス ブルスと、ルキウス アンナエウス セネカ―ネロの広報係りで個人的アドバイ ザー。セネカはその帝国の中でストア派の哲学者であり、中でも際立っている人たちの中に数えられ、文筆家であった。ネロに後見人として、また後にはアドバイザーとして強い影響を与えた。ストア主義は認識論において大変に経験重視的で、基本的に「もしそれで気分がよければそれをすればよい。これこそが真理の本質であるから。」と謳っている。ネロのライフスタイルはこの体験志向が皇帝時代の初めの8年間に滲み出ていて、政治に何も関心をよせ ず、あらゆる快楽に耽っていた。自らを詩人、歌人、音楽家、俳優、陸上競技者、馬車の御者だと誇っていた。
ネロ統治の初めの5年は、彼のアドバイザーたちの円滑な働きによって「黄金時代」とよばれた。しかし、その時でさえ彼は自分を邪魔するものを許さなかった。彼の兄弟のブリタニクスが執務を始めて1年後、密かに彼を毒殺し葬った。AD54年、ネロはアグリッパ王の王国をシリアに広げた。感謝の気持ちを示すためアグリッパは、首都名をネロニアンズと変更した。AD59年、母親の、彼の私生活や公職に対する干渉にうんざりし、ネロは母親を殺してしまう。AD60年、英国のボウディシアが反逆するが、ネロはこれを鎮めた。これは遠くから嵐が起こる前触れにすぎなかったが、ついにネロは不意を突かれることとなった。
AD62年はネロの生涯において重要な年となった。帝国の行政長官ブルスの死、プレッシャーによるセネカの引退(ネロは彼を自殺に追い込もうとしたが失敗、ついにAD65年に反逆の疑惑で死に至る。)ネロは彼の妻を殺害し、長年の愛人ポッパエア サビナと結婚した。彼女は少し前に夫から引き離されていた。
彼女は、「神を敬う人」との評判があり、ネロに対しエルサレムからの神殿代表者の要望に
応えるよう説得していた。ユダの総督フェストとアグリッパ王は、神殿で起こっていることを見るのに妨げとなる城壁に反対し、それを取り壊してしまいたかった。ユダヤ人は壁を維持していた。そのころ使徒パウロがネロに上訴するためローマにやって来た。おそらく、この頃からこのパウロの弁明によってユダヤ教からクリスチャンが分けられるべく認識がもたれ始めたのであろう。
ネロ個人の宗教理念はその性格と少しも矛盾していない。初め、彼に敬意を表するための神殿奉納に公費を使用することを回避したネロは、後、自分を高め、太陽神の化身として浮き上がらせた。目にあまる不品行のためアウグストスによってローマから追い払われていたカルト、セラピスはネロのもと保たれ認識され、すべての州にはびこった。また彼は星占いによって大事な物事を決定した。(ネロは神によって立てられた権威であることを留意しておく。ローマ13:1~7)
ローマの大火
AD64年7月19日、深夜を回った頃、満月の後の夜パラティン丘とカエリア丘の隣接する、ローマの円形野外競技場の外側を取り巻く並木道にある店に、可燃性のものが大量に置かれてあり、炎と大火の元となった。火がそこを襲い、風によってあおられた。火災は5日間市内で猛威を振るった。その火が収まった頃、新手の火災がティエジェリヌスの土地において発生した。市は14区に分けられていたが、内4区だけが残り、3区は完全に焼け落ち、残りの7区も深刻な打撃を受けた。パラティン丘の上の宮殿も焼け落ちた。
火災が始まったとき、ネロはティレニアン海岸のアンティウム(アンツィオ)にいた。
彼は急きょローマに戻り、自ら精力的に救援活動に身を投じた。ティベールの東側のキャンパス マルティウスと、宮殿の川の西側の庭をホームレスの群衆に開放し、仮設小屋を立て、穀物を安値で供給した。
それにもかかわらず、ネロは殆どこれらの人々から感謝されなかった。火災が事故であったとは受け入れられず、多くの人々はネロが自分の描いている都市を立てるために策をめぐらしたと思った。この火災の間、彼が自作自演の演技に酔いしれて、燃えるトロイを歌ったとの話が広まった。また、火を消そうとした人々は、ギャングに脅かされ、妨げられたとの噂もあった。他方、ある人々は命令され、火をもっとつけるよう言われたのだといった。タキトゥスは言う「おそらく彼らは命令されたのか、もしくは、そこら辺にあるものをただ略奪したかっただけかもしれない。」
市街の建て直しは精力的に行われ、狭く曲がりくねった通りや、特に火事になりやすい、不ぞろいに立ち並ぶ高層アパートの代わりに、幅広い通りと、大きな建物は石造りで防火材の認可を受けることとなった。長屋風の家は禁止され、家主はすぐ使用できる消火器を取り付けることを要求された。
しかしネロはいつまでも疑われ続けた。火事で焼け落ちた以前の物の代りに建てられた彼の新しい宮殿「黄金の家」はかなり豪華で、パラティン丘からエスクィリンにまで拡張されて広大だったので、その時の歌は、以前の宮殿の残っているものでローマが建て直されたと描いている。ネロはそれを知り、都合よく犠牲者を立てた。今、ローマにおいて大きなコミュニティーを作るほどになったクリスチャンは、その大火を誘発したと告訴された。なぜクリスチャンが? まず、彼らは人類の敵と呼ばれた。彼らの非社交的な態度はみんなに嫌われた。ローマ人の生き方の大部分はクリスチャンにとっては、不品行とか偶像礼拝とかという、妥協をなさない部分において縛られていた。(ユダヤ人ももちろん等しく敬遠されていた。彼らは異なる民族で、自分たちだけの祖先からの宗教を持っていた。)しかし、ローマの異邦人クリスチャンが敬遠されるのはそのような理由ではなかった。ユベナルの言葉では、彼らは「オロンテスの汚水をテルベ川に放出していることに関与している。」スエトニウスには、彼らは「新奇で有毒な迷信を持つ人種」である。タキトゥスは彼らを「邪悪で名高い」と表現した。それだけではなく、普及しているキリスト教の終末論が、火によるこの世の終局は、遠い未来の事ではなくその「終わりの日」とはすぐにいつでもやってくるというものであったことは、単純な人々 が、これがあの来たらんとする主の日と考え、そのように歓迎することに何の不思議があるだろうか。彼らの持ち物は、周りの人の物とともに燃えつきていった。けれどそれが何であろう。もし神の都市、聖徒の国がこの廃虚に建て上げられるのならば、もしそのような意見が火災の中声としてあがったとすれば、告訴を覆すことはかなり困難であった。
「第一に」タキトゥスは言う「告白した人々は逮捕された。」何を告白したのか?クリスチャンであることなのか、放火したことなのか。過激な者の一人二人がそれをしたと言うことは考えられることで、彼ら自身が企てたか、幇助したかもしれない。いずれにせよ、彼らは告白において、関係者の名前を強制的に白状させられ、その結果、大衆が確信したことは、放火罪というよりも彼らは人類の敵ということであった。刑執行は一般的な娯楽のための機会とされた。ネロの宮庭がそのために使用された。タキトゥスによると、あるものは磔刑、あるものは動物の皮を着せられ、犬に狩り襲われ、あるものは松やにをかけられ暗夜に生きたままたいまつとして燃やされた。30年後ローマのクレメントは大勢の信者がどのように過酷な艱難を耐え忍んだか、キリスト教徒の女性たちがどのように「ダースとダネアスの娘たち」を観客の快楽のために演じさせられたか、どんなにそれが残虐だったか、クリスチャンであれば誰でも重い罰を受けるに価したがそれは市民の安全を守るということよりも、ネロの残忍な欲望を満足させるためのものであった、と述べた。これは一般的な迫害ではなく、政治、宗教に基づいて考慮された判断でもなかった。むしろ、狂人の忌まわしい気まぐれが露呈したのだった。
火災の非難を回避するために、ネロはホームレスと傷ついた人々を保護し、税金を救援のために当て、穀物を貧しい人々のため安くした。短いクリスチャンの迫害期間の後もクリスチャンの放火は信じられていてパウロとペテロも処せられた。初期の執筆家で伝統の認承者であるエウセビウスは「彼らはネロのもと記録した。パウロはローマにて斬首、ペテロも磔にされ、この記録は今日まで、ペテロとパウロがその墓場につながりがあると認められている。」と記す。
AD65年、ガイウス カルプルニウス ピソ擁立の陰謀が発覚。ネロは犯罪者を殺したが、相変わらず無実の人たちも殺された。他に、ローマ市民の苦情のリストに加えられる問題も浮上した。不必要な消費や、下手なマネージメントの故、帝国国庫が底をつき、ネロは、すべての裕福な人たちに重税をかけ始めた。恐れが金持ちを襲った。ネロが、偽った名目でごまかし、土地を押収し、貴族を殺し、金持ちを自殺に追いやり、持ち物すべてを巻き上げた。それは、エルサレムの神殿で皇帝のために毎日生贄がささげられている間続いた。それは、AD66年の夏、公式にネロの政権を放棄したときに終結した。
AD67年、ネロはギリシャに行き、彼自身取るに足りない作家で演奏者であったにもかかわらず、どこへ行っても彼の詩と音楽は賞を取った。ローマ市民は彼のギリシャ文化へのうわべだけの愛好を嫌いまた、彼の感謝の気持ちからギリシャへの自由を認めたことに腹を立てた。AD68年の半ば頃、帰国の際、ガウル、スペイン、アフリカにいる彼の指導者たちは反乱を起こした。ローマは、近衛兵と元老院が彼を見捨て、陰謀を企て騒然となっていた。ネロは希望がないのを見て取り、AD68年6月9日自殺した。これでジュリオ クラウディアン政権は終わった。
ネロの思い出は、公的に呪わしいもので、それまでの歴代の皇帝の中に、これほど嫌がられる評価をされた皇帝はいない。クリスチャンはこれを宣伝の武器として用い、後の皇帝が迫害の政策を取ったとき、ネロに模倣していると決め付けた。
すべての国民がネロに反対したわけではない。事実、ある人々はネロの死の報道を信じなかった。その数年間、自分をネロと言う人々が現れたりもした。それは、東の地域ではある程度の支持を受けた。また、ネロはよみがえって、ローマを支配するだろうと信じる人もいた。