死生観としての不老不死願望とその批判 -始皇帝の死と徐福伝説-
岩崎 大 客員研究員
岩崎 大 客員研究員
高齢化社会やテクノロジーの発展がもたらす現代社会特有の諸課題を死生観研究という視点から問い直す試みとして、本発表では健康問題と老病死に対する意識に注目し、中国の神仙思想や秦の始皇帝が目的とした不老不死願望の内実を分析した。中華統一後の始皇帝は、大規模な政策を進めていく一方で、不老不死の秘薬を得るために奔走していた。歴史上、権力者が永生を願う場合には、死後のために墳墓を建築することが一般的である。始皇帝も数千体の兵馬俑を要する巨大地下宮殿を驪山に建築していたが、それと同時に、自らの肉体の不老不死による永遠の統治に強いこだわりをもつという、特異な願望を有しており、そこには中国の神仙思想の影響がある。
東部海岸沿いの燕や斉を中心に活躍していた神仙術に通じる方士たちは、始皇帝に仙薬を入手するための様々な知識を提供していた。冷酷さで周囲に恐れられていた始皇帝ではあるが、方士の助言に対しては出費や労を惜しまず、失敗にも寛容であった。方士達は自らに都合よく情報を操作して始皇帝を欺いていた可能性もあるが、始皇帝は不老不死への唯一の仲介役である方士を切り捨てることはできなかった。斉の方士である徐福(徐市)は、始皇帝の支援を受け、紀元前219年に、海の先にあるとされる神仙の住む蓬莱山に童男童女三千人を連れて旅立ったとされる。その伝承は各地に残されているが、徐福一行がたどり着いた蓬莱の地が日本である可能性が高く、全国二十箇所以上に、不老不死の霊薬を求めてやってきた人々について語る、いわゆる「徐福伝説」がある。縄文末期から弥生時代の日本において、徐福は日本に多大な文化的影響をもたらしたともされるが、後に伝来する仏教に比して、神仙思想が日本に根付くことはなかった。
始皇帝の死後、前漢最盛期の武帝も不老不死を求め、方士を重用している。時代が進むに連れ神仙術の内実も仏教や儒教といった思想を取り込みながら変質していき、練丹術が重視された唐代には、仙丹の主成分である丹砂を服用した皇帝達が水銀中毒で亡くなる事態も頻発した。不老不死の秘薬は、錬金術のように、求めても得られない夢にすぎない、という見方は、洋の東西を問わず存在し、始皇帝ほか神仙思想に影響された権力者達はそれを身をもって体現しているともいえる。しかし、神仙術の当初からある食餌法、呼吸法、導引等は現代の医学に通じる、健康のための技であり、練丹術は現代の化学に通じるものとして、文明が享受するものである。それゆえ、始皇帝が神仙術に求めた不老不死と、現代人が医術や文明に求める健康長寿は、地続きの関係にあるといえる。老病死に関する現代のテクノロジーの問題も、過剰に見える願望の根底にある素朴な欲求を考慮して指針を形成する必要がある。