戦後の引き揚げの想い出

河井春穂***8月25日******

森 正之 兄

台風9号が栃木県を縦断したようですが、お宅は大丈夫だったでしょうか。今年は

なぜか台風が日本にやってきますね。お蔭で損保会社は事後の対応に大童です。

過日の拙文「戦後の引き揚げの思い出」は夏休みの話の種にでも「33Q・Pネッ

ト」に載せてくださっても構いません。 河井春穂

******戦後の引き揚げの思い出*******************河井春穂***8月20日*******

森 正之 兄

先日のお便りでは貴兄のご親族も戦後は当家と似たような引き揚げ前後の苦難を

経験されたそうですね。ですが当家と違って未だに跡を引いている親族もおられ

るとのこと、驚きと同時に深い同情を禁じ得ません。

当時の北京には当然ながら邦人が軍人や軍属も含めて多数いましたが、終戦の直

前に戦局の事情を察して早めに引き揚げた民間人も多く、持ち帰る金品や資産も

当家とは比較にならないほどの多い量でした。

当家は日清製粉工場勤務の父の関係で後任の中国人に機械の操法や手順等を指導

するのに時間を要したため、終戦翌年の5月にようやく家族一同(両親と子供4

人の計6人)が引き揚げることができましたが、各地点での中国兵による検閲が

一段と厳しくなっていたので、既報のように持ち物は各人リュック一つだけでし

た。北京で生まれた1歳半の弟はもっぱら私がおぶって移動しました。

終戦直後は無法者の中国兵が拙宅に銃剣を突き付けて乱入してきて、貴重品はほ

とんど略奪されていたので、当家には目ぼしい物はほとんど残っていませんでし

た。今でもその時の恐怖感は拭い去ることはできませんし、夢にまで見て目が覚

めることがあります。

北京からの引き揚げルートはいったん天津で各地からの引き揚げ集団が集合して

点呼を受けたわけですが、一泊したその場所はコンクリート床の資材置き場用の

倉庫に板を敷いただけの設備で、持参の毛布にくるまって寝たものの寒い上に背

中が痛くてとても眠れたものではありませんでした。

天津での点呼を終えた後、一行はテントを張った無蓋貨車で青島まで3日の旅が

待っていましたが、その頃には栄養失調で亡くなる人たちが何人もいました。ト

イレと言えば1車両ごとにカーテンで囲った大きな甕が置いてあるだけだったの

で、女性は無理に我慢して体調を崩した人も続出しました。

青島からの帰国は日本船が戦災で激減していたので米軍のLSD(上陸用舟艇)

を利用しましたが、押し込まれた船倉はエンジン音と熱暑でこれまた地獄の7日

間を耐えざるを得ませんでした。食事は臭い外米の粥と味噌汁が主食でした。

当初は佐世保に入港する予定が同地にコレラが発生したので博多に変更になりま

したが、美しい緑の茂る母国の山や島々を見て思わず胸に込み上げるものがあり

ました。上陸後に五目飯の握りが振る舞われましたが、そのときの旨かった味が

今でも忘れられません。

両親とも岐阜の出身で長良川の側の母の里にたどり着いて、ようやく長く苦しか

った2週間の引き揚げの旅が終わりました。終戦直前からの約1年間は学校生活

も全くなかったものの、私の人生でもまたとない貴重な勉強と体験だったと思っ

ています。 河井春穂

****************************************森 正 之******8月18日**********

河井 春穂兄

ご尊父は愛知県ご出身なのですか。

日清製粉は正田如水会理事長・美智子妃殿下の由緒深き会社ですね。

北京から身一つで助かって日本の土を踏まれたのですね。

ご両親と一緒だったのですか。

私の父母の妹・弟の数家族が大陸から戦後戻ってきて戦後も大変な苦労をしました。

せっかく戻れたのに、何人かは長くは生きられなかったのです。

遺族達の苦難は未だにあとを引いています。

哈爾濱で生後間もなく中国人に預けられ40年後に漸く帰国できた親戚女性も居ります。

日本に帰って来て初めて日本語を学び、日本で再婚し、2人目の夫と今、日光市久次良町に住んでいます。

行き来していますが、まだ日本人になり切っていません。

中国の琴を上手に演奏する人です。

連れ帰った息子2人の長男の方はアメリカへ行き、次男は埼玉県で工務店をやっています。

(中国人外科医の夫は日本に来て間もなく亡くなりました)。

この残留孤児の女性は私の母方の親戚です。

長生きして幸せを感じて欲しいと切に願っております。森 正 之

*************************************河井春穂********8月18日*********

森 正之兄

雨の被害もなかったようで何よりでした。東京も昨夜は雷雨でしたが大きな被害

は出なかったようです。

我が家は亡父(日清製粉勤務・名古屋工大卒)がエンジニヤのため4~5年ごと

の転勤で、佐野・ハルピン・神戸・北京・岡山・坂出と住居も変遷しました。

私は小学校1~4年は北京でしたので、空襲や疎開などの苦労はなかったものの、

戦後の引き揚げはリュック一つの悲惨な体験をしました。今となっては懐かしい

思い出ですが。 河井春穂

*************************************森 正 之*********8月17日*********

河井 春穂兄

有難うございます。幸い私の近辺では集中豪雨は無く被害も無かったようです。

只、雷がかなり鳴ったので、パソコンやテレビの電源は落としておきました。

佐野ご出身とは驚きました。坂出ご出身とばかり思っていましたので。 森 正之

*************************************河井春穂***********8月17日*********

森 正之 兄:

今年は台風の当たり年なのか、このところ頼みもしないのにやたらにお見え

になりますね。

今夜のTVのニュースで鹿沼方面が大雨でかなりの被害があったとの放送が

ありましたが、貴宅の近辺は大丈夫だったでしょうか? 私は生まれが佐野

市なのでいつも栃木県には格別の思い入れがあります。

当初は台風が東京地区に直撃との予報でしたが、その後は進路がわずかに太

平洋側にそれたので当地の被害は免れました。我が家も遅まきながら先日に

「防災グッズ」をそろえたばかりです・・(笑)。

何ごとも「備えあれば憂いなし」ですね。とり急ぎお見舞いまで。河井春穂

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