日米開戦の正体
我々は太平洋戦中戦後の育ち盛りに極度の食糧難・物資不足の所謂耐乏生活を強いられた。
個人的には、戦争中にガキ大将にいじめられた相乗効果もあって、一生のうちの最も暗い時期だった。一方、家族・親戚で死傷したのは、叔父1人ビルマで戦死しただけ、戦災を蒙ったのは皆無という、戦争による直接被害は少なかった部類だ。
それでも、戦争への被害者意識は相当なもので、何で戦争をしたのか、誰が戦争を始めたのか、という疑問が、年金生活に入って、ますます強くなってきたので、その関連の書物を漁り始めた。
中で私の疑問に最も直接答えてくれたのが本書だ。元外務省高官による500ページを超す著書で、開戦に至る歴史的事実が詳細に記述されている。そして、終わりの方では、軍関係者・外務省関係者・研究者評論家と幅広い諸氏の評論が、簡潔にまとめられていて、これらがこの戦争の反省の集大成になっている。
まごさき・うける
1943年生まれ。1966年、東京大学法学部を中退し、外務省に入省。国際情報局長、駐イラン大使を経て、2009年まで防衛大学校教授。現在、東アジア共同体研究所長。ツイッターのフォロワーは8万人。さらに、ニコニコ動画を発信するなどソーシャル・メディアに注力。著作「戦後史の正体」(創元社)は22万部を発行。他に「日本の国境問題----尖閣・竹島・北方領土」(ちくま新書)などがある。
他には次の著書群も大いに参考になる。“根気が続けば”追い追いレポートしたい:
佐藤優「日米開戦の真実---大川周明を読み解く」2011/2 小学館文庫
半藤一利、保坂正康、中西輝政、戸高一成、福田和也、加藤陽子「あの戦争になぜ負けたのか」2006/5 文春新書
加瀬英明、ヘンリー・S・ストークス「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」2012/8 祥伝社新書
さて、何故開戦したか、おおよそ解ったうえで、考えたことがある。
そもそも、戦争となれば、本人や親族が兵隊にとられ、戦場で戦死・負傷したり、戦場に行かずとも爆撃を受けて生命・財産を失うリスクが大いにあったにも拘らず、当時、国民の大半が浮かれたように好戦的になったのは何故か?
敗戦の結果、日本はお仕着せの民主主義国家に生まれ変わった。3百万を超す尊い人命と膨大なインフラを犠牲にして。歴史にレバ・タラはないとはいうが、それでも、もし戦争をしないですんだとしたら、日本がどうなっていたか?一悶着二悶着では済まされまい。クーデターが起こるのか? どのように?米国や諸外国がどう出てくるのか?
孫崎享「日米開戦の正体」(H27/5 祥伝社)要旨
はじめに
「真珠湾攻撃への愚」と今日の「原発再稼働、TPPへの参加、消費税増税、集団的自衛権、特定秘密保護法の愚」との共通性:①本質論が議論されない ②詭弁、嘘で重要政策が進められる ③本質論を説き、邪魔な人間と見なされる人は排除される。
結局、国の政治は国民のレベルに合った政治しか得られないので、文献を探し求めて多くの人に考える材料を提供しようと心掛けている。
序章 なぜ今、真珠湾への道を振り返るのか
歴史こそ人間の行動の実験室
真珠湾攻撃を学びたいと思った理由は、真珠湾攻撃が日本の歴史上最大の愚挙だから。
伊丹万作(映画監督)1946「戦争責任者の問題」:日本人全体が互いに騙しあっていた。
エドウィン・O・ライシャワー:日本人は「権威に弱い国民」「全体主義の無差別奴隷社会」なので軍人支配を許した。
第一章 真珠湾攻撃を始めたかったのは,誰なのか?
石田禮助(後に国鉄総裁)は戦争に反対して三井物産社長を辞任した。
石原莞爾(関東軍板垣征四郎大佐の下、中佐で柳条湖事件を実行、後に陸軍中将)「負けますな」と述べた。
海軍では、米内光政(海相~首相)や鈴木貫太郎(侍従長~終戦時首相)は敗戦予測。
【藤田注:最も崇高な反対論者井上成美の言及がない点は重大な欠陥】
チャーチル英国首相:日本は微塵に砕かれるであろう。ドイツに攻撃されそうだったが、日本の開戦で米国が出てくるので我が国は救われた。
オリバー・ストーン(映画監督):ルーズベルト大統領はドイツを挑発している。
ピエール・ルヌーバン(仏歴史学者):ルーズベルトは参戦を望んでいるが、アメリカが直接攻撃を受ける必要がある。
野村吉三郎(駐米大使):東久邇宮殿下に、日本から戦争を仕掛けないように注意してもらいたいと進言。
1941年9月7日、東久邇宮稔彦殿下は東條陸相に米国の術策にはまるだけだと、辞職を求めた。
11月29日重臣会議で若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、米内光政、廣田弘毅の元首相は開戦に反対である旨、天皇を前に発言。
永野修身軍令部総長は、陛下から『アメリカと戦争をやって勝つことが出来ると思うか』と御下問があったので、『勝つことはとてもおぼつかないと存じます』とお答えしながら、しかも『戦争はやらなければならぬと思います』と申し上げた。
近衛文麿元首相は寺崎太郎外務省アメリカ局長に、『現在の日本をホントに動かしているのは、総理大臣であるこの僕ではなく、陸・海軍の軍務局長だよ』と述懐した。
山本五十六連合艦隊司令長官:開戦に反対し、近衛公に『1年か2年は何とかやっていけるかも知れませんが、それから後のことは分りません』。優れた戦術家ではあったが、レベルの低い戦略家だった。
外務省はなぜ沈黙していたのか:
(1)日米交渉に努力し結局失敗した、寺崎太郎北米局長など「協調派」の見方:米国の対日要求(①日独伊三国同盟の解消 ②南部仏印への軍事占領の撤回 ③中国での軍事占領の解消)は「枢軸派」が、外務省の役人でありながら、軍閥の手先となって暴威をふるっていたので、反対できなかった。
(2)対中軍事行動、ドイツとの連携を主張していた松岡洋右外相をトップとする「枢軸派」の牛場信彦(戦後、外務次官、駐米大使)ら、多数派は、軍人とガッチリ手を組んで、省内を闊歩していた。戦後一転して「米国重視派」になった。軍部と密接な関係のあった吉田茂も、軍部の強硬派路線に切り替えた田中義一首相に自らを売り込み、満州での軍の使用を主張していたが、戦後は首相となり、米国と密接な関係を持っている。
日本人は主義主張よりは「勢力の最強なものと一体になることを重視する」。
軍が全権を持っていたとして、真珠湾攻撃はどのような過程を経て決まったか。危機を避けるいくつかの機会があった:次章参照
日本国民を煽り、国民を好戦的にして、軍部の横暴を許す風潮を作り、それが日本中を凌駕したマスコミ、その罪もまた極めて大きいものがある。
鈴木邦男(一水会最高顧問):日露戦争時、大いに販路を拡大させた新聞社が宅配制度を始め、どうしても強硬な意見をはく人がヒーローになっていく。
渡辺恒雄(読売新聞主筆。筆者は今日の混乱は同氏によるところが多いと思っている):新聞各紙とも、特派員を大勢派遣して軍部の動きを逐一報道し、戦況報道によって部数を飛躍的に伸ばしていった。利潤の追求が、言論機関としての使命より優先されていった。
第二章 真珠湾攻撃への一五九日間
日露開戦以降の基本的な流れ:①日露戦争で南満州鉄道をロシアから得た ②満州の治安維持のためには、満州を中国から切り離さねばならぬ ③同じく、中国東北部を制圧しなければならない ④そのためには、上海などの抗日運動を抑えなければならない ⑤そのためには、重慶の蒋介石政権を倒さなければならない ⑥欧米が蒋介石政権に武器を送っているルートを遮断するため、仏領インドシナに進出する ⑦米国が対抗措置として石油を禁輸した。インドネシアの石油を確保しようとすると米国と対立するので日本側から米国を先に攻撃する
真珠湾攻撃にいくつかのターニングポイント:①日本軍の仏印侵攻→②米英蘭の石油全面禁輸→③ジリ貧になる。その前に戦争を判断→真珠湾攻撃。
仏印進駐に近衛首相らは驚くほどに危機感はない。
近衛首相が恐れていたのは日米開戦の可能性ではなくて、軍だった。
1941年8月1日、アメリカは「全侵略国に対する」石油禁輸を発表、ここから日本は一気に「戦争辞さず」が高まる。まさに米国が描いていたシナリオだ。
8月9日から13日まで大西洋洋上でルーズベルト大統領とチャーチル首相は会談して、日独枢軸との戦いを詰め、大西洋憲章を採択してナチとの戦いが全面に出る。
陸軍は対米戦争の方針を固めたが、陸軍中枢、参謀本部に米国を知っている人は、ほぼ皆無。
8月27日、28日陸海軍局部長会議。この時期海軍は開戦に強く反対している。
9月2日連絡会議(首相、各大臣出席)。「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下におおむね10月下旬を目途として戦争準備を完整す」。
9月6日、御前会議--天皇陛下を前に、日本は対米戦争に入ることを公式に決定。天皇は危機感を示唆したが、近衛首相は深刻に受け止めておらず、結局近衛政権の命取りに。
10月1日、及川古志郎海軍大臣は近衛首相に『米国案を鵜呑みにするだけの覚悟で進まねばならぬ。総理が覚悟を決めて前進せらるるならば、海軍はもちろん十分援助する』、東條も『日米開戦はきめかねている』と言明。
10月6日、海軍は戦争を避けるため、岡敬純海軍軍務局長も『比島をやらずにやる方法を考えようではないか』と提案するが、永野に潰される。
10月12日、荻外荘五相会議で、近衛首相は自分の決断ではなく、多数で回避の結論を出そうとする。
10月14日の定例閣議。依然、交渉を継続すべきとする豊田貞次郎外相と、交渉の鍵である軍の撤兵は譲れないとする東條陸相との見解が対立、陸相は近衛首相に総辞職を迫る。
10月14日夜、富田健治内閣書記官長が、海軍大臣を訪れて「戦争できぬ」と言ってくれと依頼。
10月16日、第三次近衛内閣総辞職、東久邇宮の首相承認の動きがあり、これが実現すれば戦争回避はできていたと思われるが、天皇はその選択を避けた(もし皇族総理の際、万一戦争が起ると皇室が開戦の責任を負うので)。
10月17日、東條に組閣の大命
10月20日、天皇は木戸幸一に『いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね』という。しかし木戸と天皇が最も恐れたのは内乱、昭和天皇排除に動くことだった。
10月28日、海軍は依然、沢本頼雄次官の下での会議で開戦に反対の立場を維持。
10月30日の海軍省内での論議。次官は反対、これを嶋田繁太郎海相が押し切る。
11月1日、連絡会議 東條首相3案提示に対し、作戦準備しつつ外交努力は続ける。
11月2日、首相上奏 。
11月4日、軍事参議官会議 戦争反対論なし。
11月5日、御前会議 「帝国国策遂行要領」採択。
11月11日、チャーチル『もし米国が日本との戦争に巻き込まれたならば、一時間以内に英国は対日宣戦布告を発する』と演説。
11月18日、衆議院は国策遂行決議案を全会一致で決定。
11月26日、米国国務長官コーデル・ハルは「暫定的、かつ無拘束」という前提のもとに「合衆国及日本国間協定の基礎概略」(ハル・ノート)を送付、最後通牒と見られ、日本側は最終的に戦争の決意。
11月26日、米国首脳陣、対日戦争を確認。
11月26日、天皇より東條首相に対して『重臣は納得しているか』と質問。
11月29日、重臣会議(若槻禮次郎など天皇に対して開戦に疑問の発言を行う)。
12月1日、最後の御前会議 全閣僚出席し、対米英開戦の聖断。
12月8日午前3時20分(現地時間午前7時50分)真珠湾攻撃開始。
12月8日、大統領が議会に対日宣戦を求めた。
12月18日、ロバーツ委員会が奇襲調査開始。
【第三章から第七章までは上記の詳説なので、省略するが、特記事項のみメモする】
第三章 真珠湾への道は日露戦争での“勝利”から始まっています
日露戦争は、年間予算の8倍もの戦費を使い、その8割は外国からの借金だった。
日露戦争は、中国を開放する政策を掲げ、米英の支持を得て勝った。しかしその後、満州の独占を図った。
第四章 進みはじめた真珠湾への道----日露戦争後から柳条湖事件直前まで
第五章 日本軍、中国への軍事介入を始める
田中隆吉「裁かれる歴史」:大川周明らの日本主義というファッショ思想の広まっていく様子を記す。→クーデター計画や井上準之助、團琢磨の暗殺、5.15事件
1932年1月、天皇は関東軍の行動を讃える勅語を関東軍に与える
第六章 日中戦争突入、三国同盟、そして米国との対決へ
第七章 米国の対日政策
第八章 真珠湾への道に反対を唱えていた人たち
中央公論社嶋中雄作や東洋経済新報社主筆石橋湛山らは、弾圧の中、言論の自由を守る努力をした、馬場恒吾、清沢冽、長谷川如是閑、芦田均らリベラリスト達も検閲官憲の態度を硬化させた。
矢内原忠雄(東大教授~総長)、横田喜三郎(東大教授~最高裁判所長官)らは満州事変~建国を批判して、総合雑誌に対し執筆禁止された。
戦争遂行に協力した知識人・文化人:亀井勝一郎をはじめとするほとんど全員。
文学者もほとんど戦争協力に組み込まれた。
第九章 人々は真珠湾攻撃の道に何を学び、何を問題点と見たのか
田原総一郎(ジャーナリスト):負けとわかっている侵略戦争をするとなると、軍や政府の幹部はよっぽどお馬鹿さん。情けない結果にまっしぐらに突入していった。
1 軍関係者
(1)「大東亜戦争戦訓調査資料 一般所見」:東亜に領土を有していた米、英、中、ソ、蘭、仏等と、よく世界の大勢を見極めて、政策の協調を図るべきところ、之等の全勢力と全面的に衝突するに至ったのが敗戦の最大の原因。
(2)田中新一(参謀本部第一部長):開戦を強硬に主張し、慎重派の武藤章軍務局長と対立したが、「東條一座の開戦劇と、ルーズヴェルト一座のそれとの間には、子供と大人の違いがあり、不幸にも日本は、アメリカの広大かつ微密なる策謀の糸に操られた」と書き残した。
(3)今井武夫(参謀本部支那課長):関東軍の長期にわたる謀略は、中国の民族主義を急激に刺激して、支那事変、大東亜戦争を誘発させる原因ともなった。
(4)原四郎(大本営陸軍部参謀):およそ戦争にあたっては政戦略を統合した戦争指導計画が策定され、それに基づいて武力戦に関する作戦計画が立案されるべきところ、実際は全く逆であった。
(5)瀬島龍三(大本営陸軍部の班長補佐で作戦の立案に関わった。後に中曽根康弘首相のブレーン~伊藤忠商事会長):が、戦後、大陸政策や国家運営能力、戦局洞察の不的確等、七つの教訓を残す。
2 外務省関係者
(1)重光葵(東條内閣、小磯内閣、東久邇宮内閣、鳩山内閣で外相):佐藤尚武外務省顧問と東條外相の論争を手記に。
(2)萩原徹(条約局長、駐仏大使):当時の日本の当局の驚くべき楽観的な見通しを指摘。
(3)上村伸一(政務局長):反省すべきは国民の心構えだ。
(4)芦田均(元外交官、戦後外相~首相):軍部の野望は抑制することができなかった。その背景は、政党の有力者または有能な官僚の一部は、あるいは故意に、あるいは心ならず、軍部に協力を示し、よって権勢の地位につくことに心がけたため。
3 研究者・評論家
(1)朝河貫一(当時エール大学教授。歴史学者):日本人の習性である妥協や盲従が惨禍を招いた。
(2)加藤陽子(東京大学教授):「擬似的な改革推進者」としての軍部への人気の高まりがあった。国民に夢を見せる政治勢力の出現の可能性を、教訓にすべきだ。
(3)波多野澄雄(防衛庁防衛研修所戦史部~筑波大学教授等):国際性を認識できなかった幕僚の責任。
(4)山本七平(思想家):対米戦争に対する「帝国陸軍」の戦略のなさを徹底的に描写。
(5)半藤一利(元文芸春秋編集長):満州事変と二・二六事件、三国同盟、この三つが太平洋戦争までを決定づけた。他民族のナショナリズムを想像もできなかった。国家の方向を決めるのは日本全体の民度。
(6)保坂正康(日本近現代史研究者):それぞれの政策集団が面子をかけて論じ合うだけで、世界も歴史も見えていなかった。
(7)戸部良一(防衛大学校教授、国際日本文化研究センター教授):戦略性がなかった。国家の核心がどこにあって、何を考えていたかがわからなかった。
(8)五百旗頭真(元防衛大学校長、歴史家):「ABCD包囲陣」によって、日本は追い詰められたとの日本被害者論は、見当違いも甚だしい。国際政治とは「力の体系」であり、「利益の体系」であり、「価値の体系」である。自身の行動が招いた結果責任を引き受ける「覚悟」が政治指導者には必要だ。
第十章 暗殺があり、謀略があった
明治42年10月26日の伊藤博文暗殺事件がなかったら、軍部の満州への進出は、もっと抑制されていたはず。
阿部守太郎外務省政務局長の暗殺事件により、「暴を以て暴に処するは国際の信義に悖る」という考えが抹殺された。
佐分利貞男駐支那公使、一時帰国中、箱根で怪死。
昭和天皇廃位への恐怖:『私が主戦論を抑えたらば、国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであろう』。
最後に教訓を一点挙げるとすれば、「発言すべきことを発言できる」、それを確保する社会を維持していくことだと思う。
日米開戦への道(年表)・・・割愛
以上