文芸春秋「空へ」を読む

堀江秀昭

この本は一九九六年五月に起きたエベレストの大量遭難の記録で、五月一〇日に突然襲ってきた嵐により、日本女性を含む9名の登山者が死亡した遭難事故である。この遭難事故を描いたエベレスト3Dという映画が昨年封切られている。なおシーズン中の死者は12名だった。著者は米国人作家でクライマーのジョン・クラカワー。彼は鋭角の尖塔が連続するアラスカのムースズ・トゥース縦走、デビルズ・サム(尖塔)、セロ・トーレ(尖塔)、など困難な登攀を幾つも行なった経歴を持つ。

世界最高峰の山はチベット語のチョモランンマ、ネパール語のサガルマータと呼ばれ、現在はインド測量局長官ジョージ・エベレストに因む名称が一般化している。英国は一九二一年の第1次から一九三五年の第7次まで遠征隊を送ったが、登頂は出来なかった。一九二四年の第3次遠征隊に参加していたジョージ・マロリー、アンドリュー・アーヴィンは中国側の標高八二〇〇mの最終キャンプを出発しそのまま消息を絶った。一九三三年、イギリス第四次遠征隊のパーシー・ウィン=ハリスが北東稜の頂上近く、稜線から20mほど下の地点(八四五〇m)でアーヴインのものとされるアイス・アックスを発見した。一九九九年五月米国のマロリー・アーヴィン捜索遠征隊が、テラス状の場所で、近年の装備を付けた散乱する6人の遺体を見つけたのち、そこを登り返す途中の八〇〇〇mあたりで、マロリーの遺体を、75年ぶりに発見する。その頃の鋲靴を履いていて、信じられない薄着の衣服。G.Malloryのネームカードで本人と確認された。缶詰や手紙類ハンカチはあったが、持参したカメラ、コダック・ヴェストは無かった。それで、山頂に行ったかどうかの確認は取れなかったため、謎として議論の渦を巻き起こした。「そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記

文芸春秋社」(なお、このカメラがあったとと言う筋書きで夢枕獏が小説『神々の山嶺(いただき)』を書いている。二〇一六年3月この映画『エヴェレスト 神々の山嶺』が封切られた)

遠征隊は、発見した遺体の撮影と祈祷、持ち帰る遺品の選定など必要な調査のあと、遺体を埋葬した。つまり岩屑で覆った。遺留品の中に妻の写真がなかったから、山頂に置いてきたのだろう、とすれば登頂に成功した、と唱える人もいる。

マロリーは「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われて単純に「そこにあるから」(Because it's there.)と答えた」という逸話の持ち主である。なお、この言葉は「そこに山があるから」と意訳されて流布している。

一九四九年、4年間鎖国していたネパールが開国し、ネパール側からの登山が可能になり、各国から登山隊が送り込まれたが、初登頂は一九五三年五月ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーとシャルパのテンジン・ノルゲイによってなされた。この遠征は2か月以上に及び、三〇〇人を超えるスタッフが8トン近い機材を運搬した。日本人としては一九七〇年五月、松浦輝夫と植村直己が初登頂した。一九七五年五月、田部井淳子が世界で初めて女性として登頂に成功した。

一九九六年当時は、大金(6万5千ドル~7万ドル)を払い、世界最高峰に登るという商業登山隊が幾つも組織されていた。クラカワーは米国の山岳雑誌「アウトサイド」からの委嘱で、商業登山の実態をレポートするため、費用は雑誌社持ちで派遣され、ニュージーランドの実績と信用を誇るロブ・ホール隊に加わり参加し遭難したが、九死に一生を得て生還した。彼は帰国後広範囲のインタビューにより起きた事実を網羅、確認し、邦題の本書「空へ エベレストの悲劇はなぜ起きたか」原題 Into Thin Air A personal account of the disaster By JON KRAKAUER である。(彼には別にノンフィクション Into The Wild 荒野へ がある)登山家であり、卓越したジャーナリストである彼の著作は、必要な注釈も付し、正確を期して書かれている。

エベレストの登山は、技術を積んだ登山家や国家的プロジェクトによる冒険であったが、アマチュア登山家であっても、体力があって必要な費用を負担すれば商業登山隊の一員となり、選ばれた者しか行けなかったエベレストに、誰もが行けるという新しい時代が来たのである。しかも客としての身分であり、登山に必要なもろもろの問題、登山計画、食料、飲み物、テント、寝具、シェルパの手配、キャンプ設営、ルート工作、物資の運搬など、ガイドやシェルパ任せである。これは商業化の利点であるが、同時に登山人口の増加を招き、必然的にルートの狭隘箇所での渋滞と、必要な登攀技術や経験の少ない者も紛れ込むという側面を生んだ。エバレストは、ビジネスの場、観光地化したと言える。しかし、世界一過酷な観光地である

近年エベレストでは、登山者による大混雑が問題になり、混雑への高まる不満の声が上がっていると言う。だが、既にに一九九六年当時、混雑を皮肉ってクラカワーは「エベレストでは孤独は貴重品だ」と述ている。最近の登山者の殺到で待ち時間2~4時間とも聞く。

一九七五年に女性初のエベレスト登頂に成功した田部井淳子が最近カトマンズで、「登山者の数を政府がコントロールすべきだ」と発言したとのこと。ネパール政府は、二〇一五年10月、ベレストの入山者数を制限し、経験の浅い登山者の入山を禁止すると発表している。障害を持つ人や高齢者、17歳以下の若者も禁止されるという。ネパール政府がエベレスト登山の許可を与えるのは「6500メートルより標高の高い山に登った経験がある18歳から75歳の登山者」である。

1996年5月に天候の回復を待ち、晴天を待ち望んでいたのは次の16もの登山隊である。この時既に混雑が始まっていたのだ(数字は人数)。(1)アドヴェンチャーコンサルタンツ隊(ニュージーランド)隊長ロブ・ホール、ガイド2,医師1,シェルパ11,顧客10(本書の著者クラカワー、難波康子が含まれる)(2)マウンテン・マッドネス遠征隊(米国) 隊長スコット・フィッシャー、ガイド2(内1人はロシア人)、医師1シェルパ10,顧客9

(3)IMAX映画撮影隊(米国)隊長デイビット・ブリーチャーズ、副隊長1,映画出演者4(内1人は続素美代)、撮影関係者4

(4)台湾隊(台湾)隊長マカルー・高銘和、隊員1、シェルパ2、いい加減な行動で顰蹙を買った。(5)ヨハネスブルグ・サンデー・タイムズ遠征隊(南アフリカ)隊長イアン・ウッダル(協力を拒否しロブ・ホールを激怒させた上、嵐の最中救助に必要な無線機の貸与を拒否した)クライマー8、編集関係者7、シェルパ5(6)アルパイン・アセンツ国際隊(米国)隊長トッド・バールソン、ガイド2、顧客3(7)マル・ダラ国際営業遠征隊 隊長マル・ダラ 英国・香港・デンマーク・フィンランドのクライマー8(8)福岡チョモランマ登山隊 (日本・チベット側から登頂)隊長矢田康史 クライマー花田博志、重川英介 シェルパ3(ネパール)以下は隊の名称のみ記す (9)ヒマラヤン・ガイド営業遠征隊 USA(10)スエーデン単独遠征隊(11)ノルウエー単独遠征隊(12)ニュージーランド・マレーシア合同プモリ遠征隊(13)プモリ・ローツエ営業遠征隊 米国(14)エベレスト清掃遠征隊 ネパール(15)ヒマラヤ救助協会診療所 ペリチェ村(16)インド・チベット国境警察エベレスト遠征隊

待ち望んだ晴天は一九九六年5月10日に訪れた。最高所の第4キャンプで天候待ちしていたていた登山隊が一斉に活動を始めたため、頂上への最後の難関であるヒラリーステップで渋滞が発生山頂への到着が大巾に遅れた。

安全な第4キャンプまで戻るための山頂離脱時間はロブ・ホールの判断では午後2時だったが、山頂未達地点でこの時間を迎えた4名はそこから引き返し、生還した。クラカワー本人は「世界の頂点にはほんの僅か留まっただけ」だったが、多くは世界最高峰を征服したというこの上ない高揚感をお互いに分かち合う時間が長引き、門限の2時も忘れて時間を空費したため、八〇〇〇mというデス・ゾーンで突如襲ってきたブリザードに捕まってしまう。

そこがデス・ゾーンと言われる所以は、八〇〇〇m以上では、気圧は平地の3分の1以下、気温はマイナス26度以下、酸素ボンベがないと正常な判断もできなくなる極限の世界で、高度肺水腫、高度脳水腫、低体温症、凍傷、網膜出血など、数々の致命的障害のリスクが高くなり、激しい咳や、頭痛、下痢、食欲減退に苦しめられることになる。じっと座っているだけでもそうなる。この高度では人間の身体に何が起きるか分からない。しかも酸素ボンベの不足は屡々深刻な事態を招いた。

これらを克服して山頂に到達した人は18名と見られる。ジョン・クラッカワー、サンデイ・ピットマン、シャーロット・フォックス、アンデイ・ハリス、クレブ・ショーニング、ロブ・ホール、難波康子、ダグ・ハンセン、マイク・グルーム、ロブサン・ジャンプ、ティム・マッドセン、イレーネ・ギャメルガード、マカルー・高、アン・ドルジェ、ナトーリ・ブクレーエフ、ニール・ベイドルマン、マーチン・アダムス、ベック・ウエザース

死亡者は9名である。アンディ・ハリス、ダグ・ハンセン、ロブ・ホール、難波康子、スコット・フィッシャー、チェン・ユー・ナン、ブルース・ヘロッド、ナワン・トプチェ・シェルパ、、ロプサン・ジャンブ・シェルパ。これらの人々は体調悪化、滑落、ルート迷い、落石、酸素欠乏など、エベレストの様々な悪条件の陥穽に捕えられ、生命を失った。これら事態の悲惨な推移を著者は悲しみをこめて余すことなく描写している。

生き残った米国富豪のサンディ・ピットマンは米国での生活を持ち込み、ガイドに彼女の通信機、小型パソコン、コーヒー機器、豪華な食材とファッション雑誌(ボーグとバニティ・フェアー)を第4キャンプまで運ばせていた。重さ15キロになる。通信機は第3キャンプで殆ど使えなかったが、第4キャンプでは全く使えなかった。帰国後世間の非難を浴びる。

5月10日から11日にかけて吹き荒れた猛烈なブリザードの最中サウス・コルの下部、第4キャンプから僅か三〇〇mの地点までまで下ってきた難波康子を含む11名は、肩を寄せ合ってビバークした。虫の息のベック・ウエザースと難波康子はもう助からないとして置き去りにされた。翌11日、二人はティム・マッドセンにより見つけられた。ベック・ウエザースは奇跡的に生き残り、自力で夕刻テントに戻った。だが代償は大きく、凍傷で右手全部と、左手の大半、鼻を失った。「死者として残されてLEFT FOR DEAD」(邦題「生還」)の著書がある。

ティム・マッドセンは「康子をウエザースの膝にもたせかけるように座らせたが、康子は身動きもしなかった。それから暫くたってみると、康子は仰向けに横たわって、フードに雪が吹き込んでいた。どういうわけか、手袋が片方脱げていて、素手の右手は、指を固く巻き込んで開けられない。骨の随までしっかり凍りついているようだった」と凍死した康子の最後を話している。

5月11日最終キャンプ地からわずか三〇〇m離れた地点であった。小柄な人だったから、誰か早く救助の手を差しのべて欲しかったと思う。

難波康子(一九四九年2月7日 - 一九九六年5月11日)は、早稲田大学文学部卒。一九八七年難波賢一と結婚。日本人女性では田部井淳子に次いで2人目のエベレスト登頂者(47歳・一九九六年5

月10日)となり、日本人として田部井淳子に次いで2人目の七大陸最高峰登頂者となった。彼女は寄付などに頼らず、費用のすべてを自分の収入から支払った。当時47歳で、エベレスト女性登頂者の最年長記録であった。もし存命であったなら今日までの20年簡で様々な活動をされただろうと思うと残念で、冥福を祈るしかない。

5月13日、クラカワーは氷河の危険地帯を抜けて安全な場所に着くとガイドがビールを渡してくれた。それまで事態に冷静に対処してきた彼が気が付くとすすり泣いていた。「こんな泣き方は、小さな子供のころ以来のことだった。もう、危険はない。ここ数週間の心身を押し潰すような疲労と緊張が、両肩から取り除かれて、私は亡くなった仲間たちを思って泣き、自分が生きていることに感謝して泣き、自分が生きているのにほかの者たちが死んでいったことが切なくて、泣いた」クラカワーのやさしい心根が胸に迫る。

クラカワーは翌日キャンプ地での追悼式に参列し、徒歩とヘリで移動しシャンボチェで難波康子の夫と彼女の弟に会う。カトマンズでは役人や多くの、そして特に日本の報道陣の厄介な質問攻めが待っていた。

クラカワーは5月19日飛行機で帰国した。

この訳本の原書は、一九九七年5月発売直後から新聞各紙のベストセラー・リストのトップに躍り出て、売れ続け、15ヶ国語に翻訳された。ジョン・クラカワーの優れた筆力によるものだろう。

エベレストの近況について簡単に触れよう。

初登頂がなされた一九五三年から一九七三年までの20年間の登頂者は僅か38人だったが、 二〇〇七年にはこの年だけで六三三人が登頂している。二〇一〇年の時点でエベレストに登頂した人は三一四二人であり、その内77%は二〇〇〇年以降の登頂というから、近年の増加は著しい。エベレスト登山の大衆化である。

二〇一二年5月異常高温でルート工作が長引き、待機していた登山隊が一斉に押し寄せたため大渋滞が発生。この日一日で二三四人が登頂したが、高山病で4名が死亡した。

二〇一四年ネパール側氷河で大雪崩が発生。ルート工作中のシェルパ18人がが死亡した。これをきっかけにシェルパの待遇改善要求が強まり、ボイコットが行われ、三三四人が登頂を断念した。

なお二〇一五年は、登頂者ゼロであった。(一九七四年もゼロ)。4月25日に起き、登山者24名が死亡したたネパール大地震(犠牲者八五〇〇人以上)の影響である。(私は徳島ネパール友好協会を通じ少額ながら義捐金を送った)

エベレストの商業化、大衆化は、かくて増加の一途の様相だが、本来我々が山に対峙して抱くべき敬意や、畏怖の念がどうなって行くのか心配だと言う声がある。 終

1996年5月10日 エベレストのバルコニーと言われる地点(標高8400m)を登るIMAX撮影隊*。背景に見えるマカルー8643m、左に遠く離れてローツェ8516mがそれらしい高さで見えている。しかし、こんな穏やかな天候午後に急変して、多くの悲劇をもたらす事になる。

この写真の入手は、2005年11月13日、エベレスト街道のタンボチェの小屋で、壁に貼られいたポスターを私が撮影したもの。写真の上に大きくEVEREST、写真の下に

THE 1996 EVEREST FILM EXPEDITION *

更にその下に小さく参加メンバーの名前が列挙されていた。 * MacGillivery Freeman IMAX Expeditionsが印刷し、後にこの小屋まで持参したと推定される

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