西安から敦煌まで(付録カラコルム・ハイウエイ)…P大島昌二2017.10.6

P大島昌二 2017.10.6

関連地図 http://www.johnthemap.co.uk/pages/kkh_page1.html

幾つかコメントを頂戴した中に、さる友人から、「ところで、10年位前に新疆自治区の方へ旅行されたことがありましたね」というのがあった。まさにその通り。私は2006年にウルムチ、カシュガルを経由して中国・パキスタン国境のクンジェラブ峠(海抜4,934m)を越えてペシャワール(パキスタン)へ出るという、とっておきの大冒険をしたことがあった。その際はいろいろ悪条件が重なったこともあるが高山病に罹るという貴重な経験もしたのだった。

仏教文化が広くアジアに伝播する淵源となったガンダーラは現在の北西パキスタンと東アフガニスタンの一部を指し、カンダハーにその名を残している。ガンダーラは、元々はこの地域の住民を指し、またペシャワールの古名でもあった。いずれにせよ、途方もない距離ではあるが、敦煌―カシュガル間を陸路でカバーすれば中国領内のシルクロード踏破は完成したといえることになる。もちろん、そんな時は来ない。この間に広がるタクラマカン砂漠こそは多くの探検家を絶望させた難所中の難所だからである。(前々回の「西域地図」を参照)

クンジェラブ峠から分け入ったカラコルム山脈は、所によってはヒマラヤ山脈と見分けがつかない。あの時も私はいつ果てるとも知れない深い森林の景に圧倒されていた。私はそれまでに深山に松の巨木が真っすぐに立ち上がっているさまなどは見たことがなかった。そして時おりは渓流の落ち込む深い谷底を見下ろすという変化に見とれながら際限なく小型のバスに揺られていた。

このようにして私はクンジェラブ峠越えの「カラコルム・ハイウエイ」という難所を走破した。このハイウエイはそもそもがカシミールの紛争地帯の縁辺にあるが、ISが台頭した現在ではオフ・リミッツのはずである。だからあの時に行っておいたのは正解だった。私は人に言われるまでもなく、その時の経験をここにまとめておきたいと思っていた。

このほかにもまたこういうコメントを貰っていた。「わが国と大陸文化との長い接触に思いを寄せる時、そこにいかに密接なつながりがあったかを知って頭が混乱するほどです」。これもまったく同感だった。そこでカラコルム・ハイウエイの旅をたどり返すついでにこの問題にも触れてみたいと思う。今回得た知識のコレクションの中で語り残していたことも幾つかある。

中国を旅行するということは日本人にとってはどうしても日中関係を考えるということになる。しかし観光に政治はご法度だから、文化交流こそが好適の題材である。だから今中国でどのような反日教育が行われているかなどは当然ながら話題にならない。

楊さんによれば、中国の教科書に必ず出る日本人は阿倍仲麻呂と吉備真備、それに近年(2004年)西安近郊でその墓碑が発見された井真成である。阿倍仲麻呂は彼自身の「天の原ふりさけ見れば」の詩句はもとより、李白が仲麻呂を悼んで作った(仲麻呂は日本への帰途水死したと誤り信じられていた時期があった)「日本の晁卿帝都を辞し…」という七言絶句によって広く知られている。しかし井真成は日本名も伝わらず無名であったが科挙に合格し皇帝にも重用されたVIPであったことが明らかである。彼の墓碑銘には「日本」という国号が彫られており、これが「日本」が石刻資料に現れた最初のものとされている。

漢字の「國」は地「域」を城壁で四角に囲んだもので元来は都市を表すものであった。西安にはその城壁がそのまま残っており、城内の建物は今でも屋根に鴟尾(しび)を飾ることになっている。鴟尾とは龍の子をいい、好んで水を飲む性格から、それを屋根に載せることは火災除けになる。鴟尾のアイデアは日本にも輸入された。辞書に「魚の尾をかたどったもの」で後の鬼瓦や鯱(しゃちほこ)はこれの変形などと説明されているのは誤りかもしれない。

龍は最強の動物として皇帝のシンボルになっている。その姿は鰐の顔、蛇の身体、虎の牙、魚の鱗、鯉の髭、鷲の爪を体現している。確かにこのように分解してみると龍の絵も描けそうな気がする。

一般にチャイナ・ドレスといわれるものは清、満州族の服である。中国服は袖が広くて長い。取引をする時はお互いの袖の中で片手を握り合って値段を確かめる。その時の指の形が数字を表している。楊さんは築地などの魚市場でも同じ指のサインで値段を示しているという。私はそれに兜町の取引所でかつて用いられていた指で送るシグナルも同じだったろうと思う。(今では消えてしまった職能だがかつての若い場立ちの諸君はその後どうなったろうか。)

〇中国語の入門書には数を数える例が出ていた。訓読では「ひとつ、ふたつ、みっつ」と数えて「ここのつ、とお」で後は行き詰まってしまう。国語学者によればその先は「とおあまりひとつ、とおあまりふたつ」と続くのだという。これが音読では「いち、に、さん」に始まり「じゅういち、じゅうに、…」と続けることができる。そればかりではなく、分、厘、毛などという極小の単位まで観念することができた。漢字が中国伝来であることは誰でも知っている。日本では数学も中国から学んだことを確認しておいてよいだろう。

楊さんは「宗王朝以降、中国は他国を恐れていた」といったがその意味はよく分からなかった。中国が領土を華中から西に向って拡張したのは漢および唐の時代である。われわれの脳裏に刷り込まれているのは漢の後の隋、唐の文化である。いろいろな本を引き出して拾い読みをしていると、中国研究の泰斗、宮崎市定博士(故人)の書いた次のような文章に出会った。

「中国の歴史の大きな流れに対して、日本人はともすれば自己の狭い了見から抜け切れず、思いの他の誤解を抱くことがある。たとえば宋という時代は、中国の民族的活力が枯渇して、萎靡振るわなくなった時代という風に考えられやすい。これは武力国家というものを至上目的として、民族の生き方を評定しようとしたところから必然的に生ずる結論である。」

博士によれば宋王朝は「五胡十六国の乱」や「安氏の乱」といった異民族の反乱によって漢や唐が滅亡した「過去の歴史の教訓に学び、武力国家の見栄を棄て、経済大国、文化国家への道に国民を導いた」ということです。いずれにしても経済活動のウエイトは水利に難のある内陸部から沿岸部へと移り、シルクロードの商業通商も陸の道から海の道へと重点が移動し、現在の人口分布に見られるような趨勢が築かれたのではないかと推測される。

〇三国志の時代で足踏みをしたままの私の知識では中国の英傑は劉備玄徳と「桃園の誓い」を立てたという関羽と張飛で終っている。ところがある中国通から中国人にとっての最大の英雄は南宋の岳飛ですと教えられたことがあった。それを楊さんに聞いてみた。私が岳飛という名前をすぐに出せなかったこともあって楊さんがまず出した名前は文天祥だった。この人の名は元(モンゴル)軍と戦い、獄中で書いた「正気の歌」によって維新の志士を鼓舞した詩人としても聞こえていた。文天祥がモンゴル軍と戦ったのに対して岳飛が英雄的な戦いを見せたのはそれ以前、北方からの金(女真族)の攻撃に対してだった。このように宋とても唯々諾々と敵の軍門に降ったわけではない。金はやがて南宋とともにモンゴル軍の軍門に降り、モンゴルは世界帝国を打ち建てた。

以上で今回の見聞録には一応のケリをつけたことにしてクンジェラブ峠からカラコルム・ハイウエイ(中国名は「中パ友好道路」)への途に就くことにします。記録によれば私はその旅の後で5回に分けて写真レポートを作成しているがその記録は古いパソコンに埋もれてしまって見当たらない。ただその後で書いたA4 で9ページの「新疆、北パキスタン-旅の概要」と題した総括編と高山病の記録、それに写真が残っている。これらをベースにしてこの路線の概要をまとめて見ることにする。

出発から帰国までの期間は2006年6月12日~23日。参加人員14名、内訳女子8名、男子3名、母娘の一組を除いてすべて単独参加でした。

(1)空陸交通事情― 今回の旅行は、成田発のイラン航空の出発が2時間遅れたために4時間も余裕があったはずの北京空港での乗り継ぎに失敗してしまった。2時間遅れの理由は北京からの到着便が「器材不足のために」7時間(あるいは5時間)遅れたためである。イランはアメリカの経済制裁の下にあったから器材不足はそれに起因していた疑いがある。北京では一旦は機乗したのであったが荷物を積みかえる時間がないという理由で降ろされてしまった。降ろされたのはオーバーブッキングのせいだという噂もささやかれた。このことは後の新疆からの出国問題と合わせて旅程に大きく影響している。

本来はそのままウルムチへ飛んでそこで最初の夜を過ごすはずであったが、ウルムチに代えて北京一泊となり、北京空港でバス、ホテル、明日の飛行便の手配をする間、また長い時間を待たされた。空港からバスで30分ほどの森根国際という五つ星ホテルに着いたのは深夜11時、うっかり夕食のルームサービスを頼んだのが失敗の元で就寝は1時近くになった。翌朝は5時起床だから腹立たしい。翌々年のオリンピック目当てで建てられたものと見え、部屋の設備は最新、しかしサービスは無きに等しい。「星は五つ星でも中国の赤い星だ、オリンピックが思いやられる」などと悪態をついても事態は変わらない。

翌日は北京からウルムチ、ついでカシュガルへと飛んだ。この2つの新疆西端の重要都市は、このレポートにとっては行きがけの駄賃のようなものだが避けて通るわけにはいかないので簡単に。ウルムチでは新疆ウイグル博物館(「楼蘭の美女」のミイラがある)を見学しただけ。カシュガル2泊は予定通りだったが見学は一日。香妃廟やバザール、「職人街」、また15世紀建立のイスラム教のエイティガール・モスク(清真寺)などを見学した。またこの間を縫って民族幼稚園で園児たちの歌舞を見学した。その夜の宿泊はパミール賓館。夕食を摂ったホテル付属のレストランはかつて英国領事館だった。アフガニスタンをめぐって英国がロシアと演じたGreat Game の基地はここだった。皮肉なことに敵方ロシアの領事館は色満(セマン)賓館という名でやはりホテルになっている。(歴史は繰り返す。後年ロシアはアフガニスタンで致命的な打撃を受けて撤退し、英国にとって代ったアメリカは世界的な悲劇の種を播いた。)

翌日、第4日目はカシュガル(海抜1300m)から中国側の出国検問所のあるタシクルガンまでの290キロのドライブである。途中ブルン湖(海抜3400m)、カラクリ胡(海抜3600m)という印象深い2つの湖を嘆賞した。カラクリ湖は中国人観光客が到達する最西端の観光地であろう。コングール(7719m)とムスターグ・アタ(7546m)の2つの山に挟まれた湖だが雲に閉ざされていて山容は瞬間的にかいま見ただけであった。

さてその翌日(6月16日)がとんでもない災厄の日だった。私のメモには”What a day!”と書いてある。行程はタシクルガン(海抜3200m)からクンジェラブ峠(海抜4,934m)を越えてパキスタン領のフンザまでの292キロ。このうち出国検問所から国境のクンジェラブ峠までの100キロほどは中国側がコントロールする無人の国境緩衝地帯である。

この中国からの出国が大ごとだった。ホテルから遠くないこの検問所を通過するのに計4時間半待機しなければならなかった。何故か?中国人のバスの運転手がパスポートを忘れてきて出国できないという大チョンボ。なんとか特例的に出国を認めてもらったが、今度は現地の高官が拒否権を発動するという有様。(どんな交渉が行われていたかわれわれは一切ツンボ桟敷にいた。)いよいよ出発というところで今度は緩衝地帯の先のパキスタンとの国境まで同行するはずの赤軍兵士たちが待ちくたびれて宿舎に戻ってしまっていたというおまけまでついた。

漸く午後2時半になってバスは走り始めた。この38度線を連想させる100キロほどの間、車は止まれない、写真撮影は禁止という厳しい制限がある。乗り込んできた3人ほどの兵隊さんは若くてむしろ可愛らしい。バスの後部に陣取って大人しくしている。ところがここで珍事がおこった。交通は乏しいが前方に軽トラックがエンジン故障で止まっていた。それを見て兵士たちは急いで全員降りてしまった。あとは文字通りフリー・ライドである。崑崙山脈の山々の写真も撮り放題だった。この日の一連の出来事からは官僚制の一言では片づけきれない後味が残った。

(2)高山病に悩まされる―しかしこの間中、私は高山病に悩まされていた。厳密に言うとカラクリ湖で昼食を食べたあたりで後頭部に多少の痛みを感じていた。タシュクルガンのホテルでは嘔吐した。その夜は1~2時間ごとに目覚めては頭痛を確認していた。明け方には頭痛は後退していた。私は持参した即席のお粥を炊いてもらって自室で食べた。検問所で待機中に配られた弁当は手をつけずに棄てた。クンジュラブ峠付近では頭痛が再発し、時おりこみ上げる嘔吐感に悩まされ続けた。その峠で小憩した時は一挙に片を付けてしまうつもりで道端に寄ってみたが何も起こらなかった。北京空港で問題なく乗換ができていたとしても同じような症状には悩まされただろうと思う。それでも北京で始まった睡眠不足はいまでも恨めしい。今にして思う。三蔵法師が孫悟空をいましめるのに使った「きんこじゅ」(金箍呪?)とは高山病の変形ではないだろうか。

パキスタンの入国審査所のあるススト(海抜2700m)でバスを乗換えた。ドライバーも交代した。中国と比べるとパキスタンの役人は気さくで好感がもてた。峠の国境からここまでの3時間のドライブは高度を一挙に2,200mほど下げる急峻な懸崖の道であった。左手に渓谷を見下ろしながら、右側からは岩壁が圧しかぶさるような山の道が続いた。頭の上に落ちなくても、岩が一個道に転がっていれば車は前へ進めなくなる。もちろん後戻りはできない。少し平坦なところへ出た時に道を離れて石だらけの河原に降りてしばらく走り続けたのには仰天した。それが即席の迂回道路であった。われわれが身を託しているのは荷物を屋根に積んだトップヘビーの小型バス、不思議なことに不安よりはこの難路をこなす運転手君への信頼の念が高まるのだった。

前途を急ぎながらもスストのモーテルで夕食を摂り、さらに3時間走ってフンザのホテル(Darbar Hunza)についた。最後は暗黒の山道であった。時に午後10時。3時間の時差を考慮すれば夜中の1時である。朝タシュクルガンのホテルを出てから15時間後であった。地図を見てもインダス川に注ぐフンザ川は出ていてもフンザは出ていない。フンザとは藩王が1974年まで支配していた小王国で首都はKarimabad であるが地図にはまだ旧名のBaltit で出ていることが多い。景勝の地として知られ、ジェームズ・ヒルトンが『失われた地平線』で描いたシャングリラ(理想郷)に比定されることが多い。

(3)ナンガ・パルバットとインダス河

前夜あれだけの強行軍をした後で翌17日は3時半起床、4時出発で朝日を浴びるフンザの山々の景観を見にでかけた。ジープ5台を連ねてEagle’s Nest (海抜2880m)に到達。そこで朝食をすませた帰途は1991年にウタラⅡ峰で遭難死したアルピニスト長谷川恒夫の遺志で建てられたハセガワ・スクールを見学した。ホテルに戻ってもまだ9時半。私はその後の氷河と、かつて藩王が暮らした城郭の見学はパスして休養することにした。高度が下がったことで身体はなんとかコントロールできたがなお不安定であった。ろくに食べていないので力が入らなくなっていた。それに旅程はまだ半分こなしただけである。

周囲を7,000m級の山に囲まれたフンザでは圧倒的な高山が眼前にある。ベッドに仰向けになったまま窓外のラカポシ山(7788m)を望むことができる。明るい日差しの下、ゆったりとした時間の流れを感じながら休養ができた。高山病に関していえばその日の夜中がクライマックスだった。尾籠な話なのでさっとなぞると、まず身体全体がガス発生器になった。明け方には数回にわたる激しい下痢があった。これで悪材料は出尽くしで体力もなんとか回復に向かうように思われた。

明けて18日。ラカポシはホテルの窓外にあったがカラコルム・ハイウエイで回り込んだナガール渓谷のラカポシ展望所から再びその全容が望めた。しかしこの日の、というよりはこの旅行全体の、圧巻は登山家の間では魔の山として知られるナンガ・パルバット(8,125m)が姿を見せたことである。ガイドのサイド・アラムによれば、この山は月に3日ぐらいしか姿を見せないという。たとえ月に10日でもよい。われわれは幸運に恵まれた。同行のNさんはバスの中で立ち上がって脱帽して手を合わせていた。彼はナンガ・パルバットを見に来たのでこれで望みは達したという。

この霊峰が初めて目に入った地点はヒマラヤ、カラコルム、ヒンズークシの三大山脈を一望し、これまでのフンザ川、ギルギット川がインダス河に流れ込む地点であった。インダス河初見参である。その日はチラス泊。インダス河のほとりにあるイスラム風のシャングリラ・インダス・ビュー・ホテルである。旅はまだガンダーラの仏教遺跡、ペシャワールの博物館などを訪ねる5日ほどを残している。しかし新疆からの山路の旅は終わったとしてよい。言葉には尽せない山河の風景は写真で見るに越したことはない。

関連地図 http://www.johnthemap.co.uk/pages/kkh_page1.html

写真説明(すべて2006年6月撮影のもの)

0480 カシュガルの街道。ここの山は天山山脈。

0460 カシュガルの幼稚園児。肌の色、カールした髪はウイグル人とは思えない。観客と踊る段になって私はこの子に引きずり出された。

0501 ブルン湖。乾燥期には干上がって底の砂が対岸の山に吹き積る結果、山肌は濃淡二色の切り絵のように見える。

0517 カラクリ湖。この行程唯一の賑わい。レストランの階段上から。背後はゴンクール峰。

0530 禁じられた景色。緩衝地帯の左側は崑崙山脈。

0528 同上。個々の山名がわかれば興味は一層深いものとなるのに。

0546 クンジェラブ峠がパキスタンとの国境。標識の反対側に「中国1986」と書いてある。この辺りは地図製作者泣かせと見えて地図によって峠の標高は異なっている。

0548 国境を越えてパキスタン領に入ると急な下り坂になり、道も狭く景色も荒涼としたものになる。

0552 時おり岩山の上に突出した山頂が見えたりする。地理的にはK2などが近いはずだが、それを目にするまでには何週間も歩かなければならないという。

0579 フンザから見上げた山。長谷川恒夫が雪崩で遭難した山もこのような山だった。

0592 ラカポシ展望所から見たラカポシと氷河。

0609 三大山脈の展望台。振り返ると左手にヒンズークシ、右手奥にカラコルム、手前にヒマラヤの三大山脈を一望に出来る。

0619 展望台から先へ進むとナンガ・パルバットが見え始めた。周囲に並ぶもののない巨大な山で「裸の山」の意という。

0621 さらに道を右へ折れると全容が見えた。雲が絶えず動いている。

0629 インダス河。シャングリラ・インダス・ビュー・ホテルの小さな庭から。

0634 インダス河。ところどころで澄んだ渓流が流れ込む。

0636 山高ければ谷深し。インダス河はヒマラヤの氷河に発源しインド北西部からパキスタンを流れてアラビア海に注ぐ。

0638 ほど遠からぬところで起こった大地震は世界に伝えられ、日本も援助の手を差し伸べた。河辺に難民キャンプが出来ていた。