P大島昌二:小林忍日記「昨日のこと」と「開戦神話」など 2018.9.21

今年の猛暑の最中、8月27日の新聞に昭和天皇の元侍従、故小林忍の日記に残されていた昭和天皇晩年の心境が一斉に報道された。当33ネットにも森正之さんが下野新聞に掲載された記事をupload されているので今後とも参照しやすい。この記事を最小限に要約すると以下のようになる。

「1987年4月7日に『昨日のこと』として昭和天皇の発言として以下の記述がある。昭和天皇は85歳だった。(死亡は89年1月7日。)吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。『仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる。』これで日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気にかけていた心情が改めて浮き彫りになった。」

昭和天皇の戦争責任についての議論はこれまでもなされてきたが音階的には低調で天皇ご自身の考えも言を左右にする趣があった。1975年の訪米後の外人記者との会見で戦争責任について問われた時も「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」と答えて不評を買っている。文学方面については、天皇は多くの短歌を詠み、新年の歌会を主催するのを常としていた。

私は数年前、酒田市の日和山公園で摂政時代の昭和天皇の歌碑を見つけたが最上川を歌ったその歌は山形県歌ということだった。私は山形県に疎開していた時に学校でよく歌わされたので覚えているがそれが山形県歌とは知らないで歌っていた。皇后陛下の疎開学童に与え賜いし歌もうたった。「次の世を担うべき身ぞたくましく雄々しく生きよ里に移りて」という歌をは今でも思い出すことができるが、これで見ると皇后は(古い言葉を思い出せば)国母として文学的にコミットしていた。

私も藤田光郎さんと同様、言うなれば敗戦の痛手から立ち直れないままに、なぜ日本人はあのような無謀な戦争を始めたのかを考え続けてきた。ここへきて33ネットにも、戦争はなぜ起こったのか、開戦の責任はだれが担うべきか、などについての書評が現れたので私の最近の感想を述べさせていただきたいと思う。

この問題に関する私の読書は今や「折にふれて」でしかないが最近では昨年読んだ井口武夫著『開戦神話 対米通告を遅らせたのは誰か』(2008年7月刊)から最も強い印象を受けた。日本は宣戦の布告以前に「騙し討ち」によって真珠湾を攻撃して米国の戦意を高揚させ、かつ外交的汚名を後世に残した。日本は少なくとも攻撃の直前に予定していた対米宣戦の通達が遅れたのは当時の米国日本大使館の予想外の怠慢(配転者の送別会、あるいは葬儀に出席といった諸説)によるもので、暗号の解読が遅れたせいであるというのが通説として広められていた。

これは多岐にわたる戦史の総体から見れば小さなエピソードともとられようが歴史的事実の歪曲という観点から見ればその典型ともいうべきもので、真実が究明されておれば東京裁判の立論、構成にも影響を及ぼし得るものであった(下記注)。外務省は1995年の外交文書公開に際し、大使館の通告遅延責任を強調することによってこの問題の幕を閉じようとしたが、肝心の対米通告原文は公表していない。(その後、本書の著者の5年以上におよぶ要求の結果、2004年10月14日に原文文書は公開された。)

本書の副題は「対米通告を遅らせたのは誰か」である。本書は通告の遅れがどのようにして生じたかを第一次資料に依拠して明らかにしている。そのために著者は外務省あるいは防衛庁に残る膨大な資料を十数年にわたって博捜し、また元外務官僚との面接を行っている。要所に友人知己も多く、元大使の肩書は大いに役立ったに違いない。

そこから浮かび上がって来るシナリオは以下のようなものである。外務省は、参謀本部の圧力の下に、故意に対米通告を遅らせた。野村大使による通告がなされたのは攻撃開始の50分以上後であり、それによって真珠湾の奇襲作戦は成功した。戦後、東京裁判を契機として戦争責任問題が浮上するにつれて開戦までの経緯が吟味され、その過程で対米通告の遅延は現地ワシントンの日本大使館が電文の解読に手間取ったためとされた。事件発生50年後の1995年の外務省文書で罪を負わされたのは当時、駐米大使館の事務責任者であった井口貞夫、奥村勝蔵の2名であるが彼らはいずれもすでに故人であった。

ご記憶の方も多いと思うが、井口貞夫は外務次官、駐米大使を歴任した外交官として著名であった。東京商大中退で外務省に入省し、開戦時は在米大使館勤務であった。もう一人の奥村勝蔵も東大卒業後外務省に入省し、後に外務次官を務めている。天皇とマッカーサーの会見の通訳を務めたことで知られる。開戦通告の遅延は彼らのキャリアになんらの影も残したように見えない。

このような欺瞞による責任の隠蔽(cover-up)は戦争の当事者であった政治家、軍人たちの証言、マスメディアの報道、学者や評論家の著作に浸透している。隠蔽努力の影響は責任論および戦勝国による一方的な裁判という評のある東京裁判の裏工作にまで及んでいた。今日に及んでも「戦争責任論」のタネが尽きないのはその故であるといってよい。このような曲説を正すことなしに戦争責任を論ずることはできない。

本書に戻ると、「昭和天皇独白録」で浮上した寺崎英成は東京裁判の裏工作に関わっていた「スパイ」だった。松岡洋右は東郷茂徳によって代表される外務省の罪を背負わされた。(もちろん松岡の責は大きい。)多くの登場人物の中で著者は、とりわけ大きな責任を回避し続けたまま世を去った加瀬俊一、戸村盛雄、瀬島龍三(いずれも参謀本部作戦課員)を強く弾劾している。彼らは真実を隠蔽することによって後世に残すべき歴史を冒涜したと著者はいう。

奥村勝蔵は天皇とマッカーサーの会見内容を漏らしたということで政官界の批判にさらされた。しかし『入江相政日記』には以下のような記述がある。1975年9月、会見内容漏洩の件について奥村は「天皇に誤解されていては自分は死にきれない」と、死の床にあって昭和天皇にお伺いをいただくよう懇願した。これに対して昭和天皇は、「奥村には全然罪はない、白洲(次郎)がすべて悪い、だから吉田(茂首相)が白洲をアメリカ大使にすゝめたが、アメリカはアグレマンをくれなかつた」と述べて、奥村に非はないと承知していることを示した。

白州は死の数年前、何日かにわたって書類を火にくべていたという。長女の桂子が「何を燃やしているの?」とたずねたところ、直接には答えず「こういうものは、墓場までもっていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上がる煙をじっと見上げていたという。戦後史ということになろうが、白州にも奥村問題に限らず隠蔽すべきことが少なくなかっただろう。

(注)(米国は)「何よりもハワイの真珠湾攻撃をだまし討ち、侵略として裁きたかったが、立証できなかった。日本が開戦前に宣戦布告をしようとし、手違いで通告が遅れたことが、裁判で認定されたためです。」(東京新聞29Nov.15保阪正康)

井口武夫氏の著書の後には鳥居民著『近衛文麿「黙」して死す』(2007年2月)を読んだ。先にも書いたように太平洋戦争の局面は多岐にわたっている。近衛は中国戦線拡大時の首相として責任を免れない。しかし対米交渉の継続を主張して東條英機に首相の座を追われた。また日本の敗色が濃くなる過程で早期の戦争終結を奏上して天皇の不興を買っている。

近衛の評判は極めて悪い。それどころか太平洋戦争の最大の政治的責任者は近衛文麿だという説が一部で根強い。最近目にしたところでは、梅原猛は猪木正道が著書『日本の運命を変えた七つの決断』で対米英戦争を必至にしたのは近衛文麿だとしていることを紹介してそれに強く賛同している。(東京新聞5.Oct.2015)。「(近衛は)『蒋介石を相手にせず』といいながら南京を攻略した愚かな政治家である。このような事態になれば対米英戦争は必至であり、この状況のなかで首相を引き受けた東條英機は、勝利を妄想して威張り散らすことだけが得意な平凡人に過ぎず、責任は近衛の方が重い」と猪木は断言する。近現代史の研究家で著書も多い秦郁彦も近衛説を採っている。

梅原はさておき、猪木にせよ秦にせよ手堅い議論を進める学者である以上これは無視しがたい。しかし、東條は天皇に信任された開戦時の首相であり、それが凡人だからといって凡人でない(ということだろう)近衛に責任を帰するという論理は成り立たない。荻外荘会談(41年10月12日)で開戦を決意すべきだと主張する東條陸相に対して、近衛は交渉継続を主張し開戦に反対したがその2日後に閣内不統一によって内閣を投げ出さざるを得なかった。

『近江文麿「黙」して死す すりかえられた戦争責任』で鳥居民は誰が近衛に責任を転嫁したかを追及する。「死人に口なし」、ここでも抗弁するすべを持たない死者が断罪されているのは興味深いところである。鳥居がここで浮上させているのは内大臣木戸幸一だが、オーラル・ヒストリーとして国会図書館に保存されている木戸自身の肉声は激しい近衛批判に終始している。鳥居は木戸の近衛首謀説の作為と隠蔽を掘り起こし、木戸は近衛に全責任を押し付けたのだと断言する。

鳥居民によれば、近衛文麿を自死に追いやった筋書きは以下のようなものである。近衛は対英米戦に反対したことから戦後日本再建についてマッカーサー元帥と2度の会見を行っている。2度目の会見の最後にマッカーサーは近衛に向かって、「指導の先頭に立つようにと言い、自由主義勢力を結集して、憲法改正のリーダーシップを取るようにと説いた」。これによって近衛は大いに勇気づけられた。国民の大多数は知らなかったが、近衛が戦争回避に努め、開戦後も戦争を終わらせるために努力してきたことは政界上層部のだれもが承知していた。それは新聞論調にも反映され、すでに8月18日の朝日新聞は「近衛公の役割に期待」という見出しを掲げ「今後の近衛公の役割は重い」と論じている。

これに対ししては鳥居が「木戸・ノーマン史観」と名付ける政治的な動きがあり、それがやがて定説的な史観として受け入れられるようになる。猪木、秦、梅原の論もその流れに沿ったものと言えるだろう。17歳で東京裁判を傍聴している半藤一利は、広田弘毅が唯一の文官として死刑にされたのは「自殺した近衛文麿の代わりでしょう」(東京新聞29Nov.15)と言い切っている。広田は近衛内閣の外務大臣であった。

ここで鳥居が登場させるのが日本史家として名の通っていたハーバート・ノーマンである。ノーマンは当時カナダ外務省に籍のある外交官であったが、その日本語と日本の歴史・文化についての知識を買われてマッカーサー司令部参謀第2部に移籍していた。ノーマンは羽仁五郎を師と仰ぎ、羽仁から「日本の大陸侵略と国内の暗黒反動組織を最初に作り上げた西郷隆盛と山縣有朋という2人の悪人に対する憎しみ」を教わった。そこから「日本を支配しているのは封建主義だ、対外侵略の総本山は玄洋社と黒龍会という秘密結社だ、これらの組織の幹部を捕えなければいけない」と説いた。このような理解は1945年の現実からすればあまりに「歴史的」に過ぎて明らかにピントがずれている。しかし、当時の占領軍の理解としては驚くに当らないだろう。(仮に日本が今アメリカによって占領されるとして彼らがどれだけの理解をもって日本に乗り込んでくるかを想像すればよい。)

奥村勝蔵の回顧録では、近衛はマッカーサーに向かって、皇室を中心とする封建的勢力と財閥とが軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたという見解は誤りで、彼らは逆に軍閥を抑制するブレーキの役割を務めたのだと説いた。会談に陪席した政治顧問、ジョージ・アチソンの部下であったジョン・エマーソンの回顧録はこれを裏書きした上で「軍国主義者や超国家主義勢力を盛り立てて、満州事変以来険悪な舞台裏の役割を演じてきたのはマルクス主義者だと彼は主張した」と付け加えている。これはもちろんノーマン一派の見解と真っ向から対立するものであった。

以下に木戸・近衛の角逐をなぞってみたい。本書は、かつては親近した木戸と近衛の対立がどこから来たかについて詳細を尽くすが、結論を拾い上げればそれは対米英開戦をめぐるもので、敗戦後はこの2人のいずれが開戦責任を負うべきかの問題へと移行した。先に述べたように、近衛は英米蘭に対する開戦に直接には関与していない。荻外荘会談で「それでは英霊に相すまない」と強弁し、中国からの撤兵に絶対反対を表明して近衛を辞職に追い込んだのは陸軍大臣、東條英機であった。誰がその東條を次期首班に指名したかについて木戸幸一は「それは私です」と躊躇なく答えている(木戸の肉声をNHKドキュメンタリー、「華族 最後の戦い」で聞くことができる)。

近衛の誤算は旧来の封建勢力を擁護して共産主義勢力の台頭を抑えようとする言論を展開したことであった。それはもちろん戦後日本の民主的改革に突き進もうとするノーマンの受け入れるところではなかった。ノーマンには岩波書店から『ハーバート・ノーマン全集』が出ておりそこには近衛に対する激烈な攻撃が残されている。「(彼は)よく仕込まれた政治専門家の一団を使って策略をめぐらし、(…)中枢の要職に入りこみ、総司令官に対し自分が現情勢において不可欠の人間であるようにほのめかすことで(開戦責任からの)逃げ道を求めようとしているのは我慢ならない。」

近衛は同時にまた天皇退位論を展開した。この議論は、当時は諸所で行われていて珍しいものではなく、早い時期に旧軍人の間から広まったといわれる。平成15年には元宮内庁長官田島道治(長官在位昭和23年~28年)の資料から「深ク天下ニ愧ズ」という文言を含む昭和天皇の「謝罪詔勅草稿」が発見され、戦後間もなくから「天皇退位問題」について多方面の論議があったことがあらためて確認されている。

近衛の天皇退位論は「だれもが口にするのを避け、考えないようにしてきた天皇の戦争責任の問題の決着をつけねばならず、かれがずっと唱えてきた解決策である『天皇の退位』によって終止符を打つためには、宮廷、政府首脳の意思の統一が不可欠であり、まず自分が口火を切らねばならない」と考えたものであった。

昭和20年10月21日に近衛はこの考えをAP通信記者に語り、その会見内容は翌22日のニューヨーク・タイムズ(以下NYT)に掲載され、23日にはそれを受ける形でより詳細な記事が朝日新聞に掲載された。そこで近衛は10月4日のマッカーサー訪問について説明し「元帥は会見劈頭日本憲法を自由主義化する必要のあることをはっきりと言明し、自分にその運動の先導をなすように示唆した」と語っていた。

これに続く10月26日のNYTの社説は近衛にとって晴天の霹靂であったに違いない。近衛を戦争犯罪人と激しく非難する社説がNYTに掲載され、それは29日の日本の新聞各紙に転載された。「アメリカの大新聞がこれ以上の言葉は選びようがないという激しさで近衛を非難攻撃した効果は馬鹿にはならなかった。11月1日には、このような雰囲気に押されてのことか、総司令部のスポークスマンは、近衛とわれわれのあいだにはなんの関係もないと声明せざるをえなくなった。」

岡義武著『近衛文麿』(1972年刊)は「ところが、その後、11月1日にいたって総司令部は突然声明を発してその中で(…)日本憲法の改正について近衛公の演じている役割に関して重大な誤解が存在しているように思われる。近衛公は連合軍当局によってこの目的のために選ばれたのではない」と伝えたことを記している。

いずれにしてもここで近衛の運命は暗転する。12月6日、総司令部は近衛、木戸ら9名に逮捕令状を発した。出頭を命じられていた12月16日早暁、近衛は青酸カリによる服毒自殺を遂げているのを発見された。世上では近衛が側近の富田健治に語った「戦争犯罪人として指名せられる屈辱には自分としては絶対に耐えられない」という言葉によって、彼は貴族としての高い誇りを守り通したのだと信じられた。

しかし近衛はすでに「裁判の屈辱」を味わわされていた。11月9日の昼過ぎ近衛はアメリカの戦略爆撃調査団によって連行され、東京湾に浮かぶアメリカの砲艦アンコン号上で前後3時間にわたって戦争責任を追及する厳しい質問の矢面に立たされていた。そこでは「プリンス近衛」は「ミスター近衛」へと敬称までが変化していた。尋問に同行した側近の牛場友彦は帰途の車中で近衛が「やられた、やられた」と繰り返し独りごとするのを聞いた。それの相手がだれであったかを近衛はその後「黙して」語らなかった。鳥居の「木戸・ノーマン史観」はその相手を追って木戸の策謀に至るのである。鳥居は木戸とノーマンはNYTの社説に材料を提供し、その激烈な近衛攻撃を仕組んだと結論する。

本書はアンコン号からの帰途の近衛の「やられた、やられた」という独語に始まる犯人追求のドラマ仕立てになっており、その過程には不審を抱かせる数多くの内外の人物が登場する。最終章に至って鳥居は「木戸・ノーマン史観」の背後にはこの2人と近しい都留重人がいたと明言しているが「木戸・ノーマン・都留史観」とするまでには至っていない。「事実は小説よりも奇なり」というが、敢えてミステリー仕立てにするまでもなく事態は十分に複雑である。それに気づいたものかどうか、著者は最終章の後に長大な「補遺:読者の理解のために」を設けているが結果はむしろ読者を混乱させるものと言える。

そこで最後に、叙述の明快な岡義武教授の著書に戻ることにする。近衛が自殺した時、朝日新聞は次のように書いた。「近衛公には『戦争責任感』がうすかった。しかし、東條英機を中心とする軍閥の横暴を許した点において、重臣の戦争責任は大きいが、近衛は重臣の筆頭である。いわんや今般の戦争の『前提』である日中事変は、近衛内閣の下で起こったのである。(…)政界の指導者の場合、個人の性格の弱さは『国家的罪悪』なのであり、その意味で近衛公は政治的罪悪を犯し、戦争責任者であったことは疑いない。」これが僅か3か月前に戦後の再建を託した近衛に対する朝日新聞の判決である。

この朝日の社説が近衛を重臣の筆頭に祭り上げて断罪しているのに比べて、毎日新聞はもう少し深い理解を示している。「公の性格はその弱さと反省的なところが、悲劇の主人公にできている。つまり疾風怒涛時代の政治家として、公はすべての欠陥を暴露したのだった。(…)公の責任は重いのだが、しかも、公を大政治家気取にさせたところに時代の責任がある。」

木戸の近衛批判は死後にいたっても容赦がなく鬼の首を取ったかのごとくである。「彼には、今更アメリカに裁かれるのは厭だという気持があったのではないか。それはぼくの考えからすれば一種のわがままともいえるんじゃないか。ぼくの考えでは、とにかく敗戦の大責任を負った連中は、死んでしまったからそれで事がすむというものではない。やはり、やるだけのことはやって、首をくくられようと何しようと、国のあり方や立場を説明する義務があると思う(「木戸幸一氏との対話」『華族 ― 明治百年の側面史』昭和53年刊)。」同じ言葉を木戸はオーラル・ヒストリーにも残している。

それでは近衛は何も語らずに自死したと言い切れるだろうか。再び岡義武の著書に戻ると、近衛は2度にわたって「自分には法廷で天皇を弁護できない」と述べている。一度は逮捕令状の出た直後、かつての秘書官であった高村坂彦に、そしてもう一度は命を絶つ前夜、後藤隆之助が「政治家たる近衛公としてはペタン元帥のように法廷に起って、堂々とその所信を述べ、陛下の盾となるのが、取るべき態度ではないか、というと、近衛は先に高村にのべたと同様に「自分は法廷で天皇をお守りすることはできない」と答えた。いずれの場合も理由は「天皇のためお役に立つなら何でもする。しかし、軍事法廷では不可能である。首相としての自分の責任を明らかにすることになると、結局国務にかんすることに限られ、統帥の責任は大元帥たる天皇に帰することになる。それ故に、アメリカがもし天皇処罰の方針を取っているとすれば、自分には天皇を弁護できないことになる」ということであった。この言葉の裏側には天皇を免責する切り札を自分は何一つ持っていないという苦悩を読み取ることができる。

昭和天皇の元侍従、小林忍の日記に残された昭和天皇晩年の心境を読んで最近読んだ2つの著書の読後感を短くまとめるつもりであったが、思いのほか時間もかかり、また長くなってしまった。しかもこれで終止符を打ったような気にはなれない。

この2冊を読み返して、人はどのようにしてどれだけ嘘をつくものかを改めて思い知らされた。そしてそれがどれだけ歴史記述を歪めるものであるかを反省させられた。しかも、ここに扱われた政界や軍閥の駆け引きは雲上で行われ、国民はつんぼ桟敷に置かれて、そこから拍手を送っていたのだ。(今はどうなんだ?)

レポートはここでいったん終るが実はまだ始まったばかりのような気がする。文中に「以下に木戸・近衛の角逐をなぞってみたい」と書きながら木戸に対して近衛が無防備であった理由は末尾に至ってわずかに示唆できただけに過ぎない。メモをまとめながら何冊もの既読、未読の本を引き出していた。ページを繰ってみて楽しい読み物とは思えない。しかし、深淵を覗いてみるとそこに渦巻くものに引き込まれずにはいられない。

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