野川公園から神代植物公園へ

P大島昌二2018.3.29

昨年11月の昇仙峡以来、しばらく国立国分寺支部の「山里歩きの会」の報告を怠っていましたが同会は幹事のご尽力によって健全な歩みを続けています。

去る3月17日には武蔵小金井駅を9時に出発して金蔵院、小金井神社、龍源寺(近藤勇の墓所)などを取り込みながら野川沿いの幾つもの広々とした自然公園の散策を楽しみました。東京は広いというべきなのだろうが多摩を背後に控えた武蔵野は広い。

2月の里歩きは西国分寺駅から武蔵国分寺の遺跡(旧東山道武蔵路を挟む尼寺と僧寺)や資料館を見学して武蔵小金井駅まで歩いたのであったが、今回もハケの湧水と野川沿いであることは同じで、方向としても野川を下流に向って歩いた。

落ち着いた住宅街の中にある中村研一美術館は「ハケの道」に沿った「美術の森」の中にあり、この辺りが大岡昇平の名作『武蔵野夫人』の舞台とされる。大岡はこの作品の冒頭を「土地の人は何故そこが『はけ』と呼ばれるかを知らない。」という「はけ」の考証から始めている(付記1参照)。

ハケの道をさらに進むと野川第2、第1の調整池があるがそこに水はなく子供たちの運動場になっており、その先が野川公園の自然観察園である。幾つもある橋を右岸へ渡ると、武蔵野公園、野川公園(いずれも都立)となり、それぞれが一望のもとにあって、境界は見定めがたい。この曖昧さは野川公園が元々ICUのキャンパス付属のゴルフ場であったことと野川や東八道路以南は離れているだけでなく自然観察園より開園が遅れたためらしい。そのためこの新しいセクションは一部地域住民からは「新野川公園」と呼ばれるという。われわれは春の到来を告げる暖かな陽ざしを満喫しながらこれらの公園の木々や草花を愛でて歩いた。公園をさらに流れに沿う形で東南へ進むと調布飛行場になり、われわれ一行12人は12時に、そこに残された旧掩体壕近くのベンチで持参の昼食を開いた。それ以前にはこれまでに10基が確認されているという出山横穴(でやまおうけつ)墓群の8号墓も見学した。古墳時代から奈良平安時代までに作られたものとされるが、『武蔵野夫人』でも「『はけ』の家を建てるために崖を崩した時、横穴が現れ人骨があった」という。

昼食後はこの日の最後の目的地、神代植物園へ向かった。道筋に従って神代植物園へは裏側の深大寺そばの大店が並ぶ通りを通ってまず水生植物園を散策し次いでその背後の丘にある深大寺城跡を見学した。

いずれも植物園は何度か訪れていてもなかなか足を延ばせない領域である。広い水生植物園は花はなくとも長閑さがあり、城跡にはつまびらかでない歴史があった。次いでは今日の目的の一つ、深大寺そば賞味会である。昼食を食べはしたがこれは運動後の空腹を仮に満たすためで行程にそって2時半に昼食の予約をしてあった。深大寺のすぐ下の土産物屋の並ぶ細い通りの蕎麦屋「一休庵」が提供する味わいは好評この上なく、これからはここだと思わせるものがあった。残るのは植物園だけという気安さもあり多少のアルコールも嗜んだ。

二度目の昼食後はまず深大寺に詣で、これまで見つけることのできなかった河鍋暁斎の手になる竜の天井画を確認した。本殿の手前の廊下の天井に消えなんとする絵の具の跡が残っていた。深大寺が所蔵する関東地方最古の白鳳仏(釈迦如来像)は昨年重文から国宝に指定替えされ、今も特別展示されている。植物園へは裏の入り口から入ったので真っ先に梅林に出た。最盛期は数日前かと思わせたが、この見事な梅林に始まってマグノリア、ハナモモの木立をへて野草林を通り抜けて正門に達した。このため広大なバラ園も新装なって間もない大温室も目にすることがなかった。帰途は植物園前からバスで吉祥寺駅へ出た。「一休」さんで満足したのか、解散後の飲み会を提案する人はいなかったように思う。

(付記1)大岡昇平は「どうやら『はけ』は即ち、「峡(はけ)」にほかならず…流れ出る水を遡って斜面深く食いこんだ、一つの窪地を指すものらしい。水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖となって尽きるところから湧いている。」と書いている。田中正大博士は、これに賛意を表した上で、国分寺崖線のことをハケと思っていたが国分寺崖線のうち湧水によって、窪地ができたところがハケだと解され、「ハケは土地の生活に根差した言葉、国分寺崖線は学術用語と思われる。」とされる。(『東京の公園と原地形』)

(付記2)神代植物公園は都内唯一の植物公園として昭和36年に開園された。面積は現在49ヘクタールあり、植物園のパンフレットによれば、もともと東京の街路樹を育てるための苗圃であったものが戦後、神代緑地として公開されたものである。しかし前掲の田中正大博士によれば、緑地計画の動機と始点が少し異なる。博士によれば、神代緑地は初めは防空大緑地として昭和15年に計画され、計画面積は71ヘクタールであったという。ほかにも砧、小金井、篠崎、水元、舎人などの広大な緑地計画があった。空襲が激しくなった昭和18年8月になって、神代緑地は87ヘクタールに拡張された。

写真説明

8425 「美術の森」のたたずまい。

8434 野川公園から国分寺駅のツイン・タワーが見える。富士を望める地点もある。

8439 野川自然観察園のロウバイ(少し時期遅れ?)

8445 出山横穴8号墓(展示品は模型)

8461 神代植物園の梅林

8466 マンサクの園芸品種

8468 サンシュユ(「稗搗き節」の哀愁メロディー)

8473 マグノーリア

8476 野草園のカタクリ

8477 同シュンラン

8486 一足飛びに国立大学通りの桜。3月26日

8492 東キャンパス正門近くのオオシマザクラ。同上

カウンター

カウンター 「野川公園から神代植物公園へ」感想…P戸松孝夫2018.3.31

**********************************************************************************************************************

一橋卒業後久武雅夫先生(ICU学長)を訪ねましたが、広いゴルフ場に驚きました。

学生時代谷保の城山を石田龍次郎先生の引率で探索しました。懐かしい「ハケ」の思い出です。

大島さん有難う。(管理人) 2018.3.31

みなさま、小金井のコミュニティサロン はけ をご存知ですか?

************************************************************************************