P大島昌二:渋沢栄一『雨夜譚』を読む(その2) 2019.2.15

渋沢栄一『雨夜譚』を読む(その2)

『雨夜譚』は明治20年に渋沢栄一がその前半生について述べた談話を筆記したものであるが渋沢の人となりの骨格はそこにすでに示されているように思う。(詳しくないまでも、江戸、京都で放蕩に傾いた生活にも触れている。)ただこの時代についての大きな脱落は徳川昭武に随行してパリに滞在した2年間である。渋沢はこれについては杉浦靄山(あいざん)との共著になる『航西日誌』に譲ると述べているが彼の思想形成、ひいてはその後の人生に大きくかかわっているこの時期については興味を持たずにはいられない。

『雨夜譚』に解説と校注を付された長幸男氏によれば、杉浦靄山(愛蔵)は外国奉行支配調役として共に昭武に随行した人物で『航西日記』は、全6巻に及ぶ長編である。そこには「博覧会関係の記事はもちろん、航海中の見聞、欧州の風俗習慣等の社会状態、政治、財政、美術工芸、軍事など、旺盛な好奇心をもって記録されている」とされ、安易に取り組めるものではなさそうである。何か手掛かりはないかと思ううちに、ドナルド・キーンの『続百代の過客 日記に見る日本人』の一つに「航西日記(渋沢栄一)」と題する一章を見つけたのでキーン氏の感想を読むことにした。キーン氏によれば、この底本になったのは渋沢が書きとどめておいた旅の覚書で、大蔵卿伊達宗城(むねなり)のすすめで日記に起こしたものである。

またここでついでに言ってしまえば『雨夜譚 余聞』と題する一本が1998年8月に小学館から出されていて、そこに『雨夜譚』で一段落した後の渋沢の伝記を読めると教えてくれた人がいた。渋沢はその携った事業が多岐にわたり、また長寿を全うしたこともあって、膨大な資料に囲まれているが、その一つに『青淵回顧録』(青淵回顧録刊行会、1927年刊)がある。この『雨夜譚 余聞』の「余聞」に相当するのはこの『青淵回顧録』の渋沢の口述に拠って『雨夜譚』全5章以後の渋沢の働きを石井浩氏(渋沢青淵記念財団常務理事)が編集したものである。

さて、ドナルド・キーンの紹介する渋沢の『航西日記』はわずか15頁に過ぎないから長幸男が列挙しているだけの広範囲の見聞に及んではいない。しかしそれは同じ渋沢の手になる『巴里御在館日記』と違って活気に満ちた興味深い読み物であるという。維新政府の国家的事業として船出した、より大規模でより広く知られる岩倉具視が率いた使節団の『米欧回覧実記』(久米邦武著)も『航西日記』の直後に28頁を占めているに過ぎない。)

幕府は万延元年(1860年)の使節団を手始めに、六つの公式使節団を西洋に派遣しているが、フランス政府の要請によって慶応3年にパリ万博に送リ出された徳川昭武の使節団はその最後のものであった。この使節団がまだパリに滞在中に大政奉還がなされ、戊辰の役の戦端が開かれた。この革命的な変動期に渋沢が国を離れていたのはやはり渋沢の強運と言ってよいものと思われる。ドナルド・キーンはフランスへの航海の途上にますます強まる渋沢の西洋礼賛を評して次のようにいう。「彼がついこの間まで攘夷論者であったことを思えば、その変わりようの激しさには、驚かざるを得ない。」

渋沢は帰国早々に榎本武揚をはじめとする幕臣の主だった面々が箱館を占拠して維新政府に向かって旗を挙げたことを知る。血洗島村から江戸、京都へ、そしてついには徳川慶喜公の家臣となるまで共に歩んだ刎頸の友とも言うべき同姓の喜作もその中にいることを知った。渋沢は榎本軍が箱館で軍備を整えてから内地へ進軍するという迂遠な軍略に勝算を認めず、また榎本軍には君臣の大義もなく、いわば烏合の衆に過ぎないことを指摘した書状を喜作へ送り、その趣旨を榎本へも伝えるよう依頼した。そしてさらに「また今日の形勢ではもはや互いに生前の面会は望み難いことであるので、このうえは潔く戦死遂げられよ」と書いた。(この友人に託した手紙がはたして無事喜作の手に届いたかどうか『雨夜譚』は明らかにしていない。)

この渋沢の書状は非情と言うべきであろうが、動乱の時期とあっては、リアリズムに徹した万止むを得ないものと取るべきであろう。(この70年後の大戦中には日常的に口に上せる台詞になっている。)渋沢はその直後に会った父に今後の身の振り方を聞かれて次のように答えている。「いまから箱館へ行って脱走の兵に加わる望みもなければ、また新政府に媚を呈して仕官の道を求める意念もございません。せめてはこれから駿河へ移住して、前将軍家が御隠棲のかたわらにて生涯を送ろうと考えます。」これから後の展開は前回の末尾に略説したところである。

時はさらにさかのぼって横浜の桟橋を離れたフランスの客船アルヘー号の船上に戻る。渋沢の乗船はそれまでの軍艦から客船に変わっており航海は快適なものになったらしい。一行は30人を数える。渋沢は日々の食事に強い関心を示し、スプーンやフォークやナイフに感心している。ベーコンやバターやコーヒーをそれらの言葉を知らぬままに日本語で説明している。とりたてて興味をそそる記述ではないが渋沢は「これらの微事を載るは贅語なれども微密、丁寧、人生を養ふ厚き、感ずるに堪たり。因りてその略を茲に記載せり」と記す。キーン氏は食べた食事の内容をこれほどこまかに記した人物を他に知らないという。そんなことをするのは武士の沽券にかかわると感じていたからに相違ないという。ここに武士ならぬ渋沢の人物が良く出ている。「侍の生まれではなかったから、世間の愚弄を恐れずに、自分が実際見たままを書くことができたのである。」このことは逆に、肩肘を張った武士道なるものが現実の理解にどれだけのハンディキャップとなったかを思わせる。その欠陥は戦時期に馬脚を現しただけでなく今なお意外なところに生き残っている。

航路は上海、香港、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデンを経てスエズに到着する。今更のように言うが、これらの海港のネットワークはすべて西欧列強の植民都市であった。最初の都市上海は日本のどの都市よりも近代的に思われたがその陰にあるみすぼらしい旧市街やヨーロッパ人に対する中国人の卑屈さに渋沢はショックを受ける。香港、シンガポールでは、あるいは荒涼たる孤島に商業の繁栄をもたらし、あるいはまた「英国の志を東洋に逞(たくましゅう)する素」を見て讃嘆する。渋沢の西洋礼賛はスエズで運河建設の話(開通は1869年)を聞いて頂点に達する。そこには攘夷論は影も形もない。その頃でも日本ではまだ開化思想は守旧派によって激しく攻撃されていた。

渋沢の西洋礼賛が通り一遍のものでないことは以下のような観察から知ることができる。彼は上海では中国人と同じ服装で、ヨーロッパ人にシナ学を教える学校を建てたフランス人神父たちに感銘を受けている。また香港では中国の文物を学ぶイギリス人の勤勉に感心して次のように書いている。「文明の素ある、人心の精神ある、学術の上に従事すること、乃(すなわち)国の強盛にして、人智の英霊周密なる所以を徴するに足れり。」

しかしまた反面では、中国人の卑屈に始まり、各地の土人(現地人)の貧困、裸足、裸体、品格に辟易し続けている。上海では中国古典からの文学的連想もあり、アヘン戦争にも思いを致さぬではなかったが、総じて渋沢の筆致は「初めて東洋への旅をしている、ヨーロッパ人の旅行者を思わせる」という。セイロンのゴールでは仏教寺院を訪れて仏像、僧の容貌風采、誦経の音、仏舎利などについて日記に書いてはいるが果たして何を感じたかは何もわからない。

ヨーロッパ到着後に渋沢がまずしたことはパリで洋服を誂えることであった。典型的な赤ゲットである。そして以後は洋服が日本使節団のいわば制服となった。芝居、オペラ、バレエなどもよく観に出かけている。日本の能楽に傾倒するキーン氏はここで、幕府との長い結びつきのために白眼視されていた能楽の存続が可能になったのは岩倉具視が数年後に渋沢と同様に演劇の重要性を発見したおかげであったことを指摘せずにいられない。

キーン氏はパリ万博や日本や日本人に対する西洋の見解に反駁する渋沢についてもコメントしているがその関心は長幸男氏のいうような、政治、財政、美術工芸、軍事までには及んでいない。しかしこの小論の当面の目的として鎖国日本を離れた渋沢の心の躍動を感得し、その思想が西洋に向かって大きく開かれ、攘夷から開国への転換を成し遂げたことを知れば足りるとしたい。

『雨夜譚 余聞』からはもう一つ、われわれの関心事である商法講習所について見ることにする。まず商法講習所の設立から東京高商までの推移を時系列で示すと下記のようになる。このうち創立時の鯛味噌屋の二階説は広く流布されているが近年ではその厳密性について疑義が表明されていることは後に述べる。

商法講習所から東京高商まで

商法講習所 明治8年(1875年)9月銀座尾張町2丁目に森有礼の私塾として発足(鯛味噌屋2階の大広間)←東京会議所(渋沢栄一、大倉喜八郎)が管理する「七分積金」(寛政の改革の遺産)から年額3,000円を支給

明治9年京橋区木挽町に移転、東京府の管轄となる。商法講習所略記を制定、改正(修業期限2ヵ年)

明治14年7月29日 府会は経費の支弁を否決(←明治11年太政官布告により成立した東京府会が東京会議所の事業を引継ぐ)商法講習所の廃校を公表。同年8月30日付で農商務省の補助を得て再興。明治15年有志寄付金、補助金、下賜金により維持

東京商業学校 明治17年3月、農商務省への移管に伴い改称。商法講習所の9年間の卒業生は31名、在籍者数に比して僅少である。

明治18年5月農商務省から文部省へ移管、同明治18年9月22日(創立記念日)、東京外国語学校と合併(東京商業学校と称す)神田区一ツ橋通町一番地へ移転(旧東京外国語学校校舎)

高等商業学校 明治20年4月改称

(一橋講堂新築完成 明治27年)

明治32年 商業教員養成所(→昭和24年廃止)創設、付属外国語学校が東京外国語学校と改称して分離

東京高等商業学校 明治35年4月1日(第二高等商業学校→神戸高等商業学校の設立)

この年表から明らかなように、私塾として発足した商法講習所はその10年後の東京商業学校時代に文部省の所管に移されるまでに、東京府、農商務省の管轄下に置かれている。東京府は財政難の故をもって、僅か5年の後にこれを廃校とする旨を公表している。大阪市が同様の困難を抱えながら大阪高商を今日の総合大学にまで育成したのとはきわめて対照的といわねばならない。東京都は戦後に至って新たに東京都立大学を設立したが、石原慎太郎知事は財政改革の一環として首都大学東京へと改編したのはまだ記憶に新しいが昨今再び同大学の改編が議論を呼ぶに至っているという。

『雨夜譚 余聞』は『雨夜譚』の第5章までを引き継いで6章から10章まであるが、商法講習所への言及はその第7章「実業教育と慈善事業に奔走する」にある。渋沢はそこで当時の商業に対する世間の偏見と当の商人たちの自覚のなさを「今日の状態から考えると全く今昔の感に堪えない」という。問題は商業のみならず工業にも及んでいた。フランス留学時代にフランスやイギリス、イタリーなどの実地の見聞をした渋沢は「帰朝の上は商工業界に一身を投じて、国を富ませ実業界の地位を引き上げようという固い信念を抱くようになった。帰朝後一時大蔵省に出仕したが、明治6年に断然辞職したのはいわばフランス留学中の素志を行おうとするためであって、私はこれによって年来の希望に向かって第一歩を踏み出すことになったのである。」

ちょうど明治7年(1874年)ごろ、当時米国にあった森有礼から東京府知事大久保一翁にあてて、「米国における実業教育の盛んであることはじつに想像以上であるが、日本にもぜひ同様のビジネススクールを立てたいと思うから何分の助力をお願いいたしたい」と頼んできた。そこで大久保知事は渋沢が東京会議所の会頭として管理していた「共有金」を利用したいという申し入れを行ったのであった。この共有金の原資は旧幕時代に白河楽翁(松平定信)が救荒基金として江戸の町々に積み立てさせた資金(七分積金)の残高が東京府に引き継がれたものである。

東京会議所は東京営繕会議所、さらには江戸町会所にさかのぼれるもので七分積金は道路、橋梁の修繕、あるいは養育院、共同墓地、ガス灯および街灯などの管理経営に用いられたがその一部が商法講習所の設立にあてられたのである。渋沢はほかの役員の同意を得て共有金の中から8千円ほどを拠出し、森有礼も1万円を工面して、「翌年の夏ごろに京橋の尾張町に商法講習所という小さい学校を開き商業教育の経験があるホイットニーというアメリカ人の教師を雇って授業を開始し、約一年ばかり経営したのである。」

森有礼は講習所の設立後間もなく特命全権大使として清国に赴くこととなり学校は一時的に東京会議所が預かるが、間もなく明治9年に東京府庁の管理へと移管される。そして同年5月には京橋の木挽町に校舎が新築され、新たに矢野二郎氏が所長に任じられた。しかし前述したように東京府会の廃校決議によって商法講習所は存続の危機に遭遇するのであるが、それまでにも予算の半減措置などに対して、渋沢は有志を説いて寄付金を集めて経費を補充するなどの努力を重ねなければならなかった。しかし渋沢があらゆる方法を講じて講習所の存続に注力し東奔西走したのは廃校の危機に直面した時であった。幸いにして農商務省の理解を得て、一万円ほどの補助金を付与されることとなって講習所は授業を継続することができた。

商法講習所はこのようにして危ない橋を渡りながら命脈を保ってきたが、府立として存続が難しければ官立としてその基礎を確立しなければならないというのが次の段階の目標となった。渋沢は識者の意見をただしたうえで政府要路の大官に働きかけて「もし民間においてどうしてもこの学校を継続する必要があることを具体的に示すような方法を講じたならば、政府においても大いに考慮する余地があろうというような話であった。」これはいかにも日本的な腹芸に見えるが要するに、まず民間で資金的な基礎を示せということのように読める。いずれにしても、渋沢が中心となって、東京府知事の協力も得て、募金活動に励んだ結果、東京市内の富豪有志から3万円ほどの寄付金を集めることができた。この基金に対しては宮内省も5百円の御下賜金を下されている。

これによって明治17年春には商法講習所は農商務省の直轄となり名称も東京商業学校に改められた。翌明治18年(1885年)には「最初の創立者である森有礼氏」が文部大臣になるという幸運が訪れた。そのご間もなく学校は文部省の所管となり、「神田一橋外に新校舎を建設し、経費なども大いに増加して諸般の改善充実に努め、ここに全く面目を一新するにいたった。高等商業学校と改称したのは文部省の直轄となってから一、二年後のことであって、これが現在の東京商科大学(のちの一橋大学)の前身である。」

渋沢はここで高等商業学校が「後年商科大学に昇格したのは時勢の求めるところであって、当然すぎるほど当然のことであらねばならぬ」と書いているが政府や世間にとってはそれほど当然のことではなかった。渋沢は、たとえば大学昇格運動に関して益田孝のような高等商業設立に力を尽くした人物とも論戦を交えなければならなかった。益田は「学問を尊重して(商人に)高尚な学理を授けると、いたずらに気位が高くなる弊がある。商業教育を普及させることは結構であるが、現在以上に高尚な学問をさせることはますますこの傾向を助長させるに違いない」として強硬に反対した。

ここに新旧入り混じった時代の風潮を見ることができるがもう一例を引くと士分の出である夏目漱石の視線がある。漱石の日記は東京帝大への併合に反対する学生の運動に対して、まだ学生のうちから取引を実践しているとして明らかに批判的である。この学生たちの決起事件(申酉事件)が大いに世間の耳目を集めていたことは、当時、漱石が朝日新聞に連載中だった『それから』に読むことができる。主人公の代助は朝刊を読んだ後で書生との間で次のような会話をする。(ついでながら『それから』には政府にとっての要注意人物である幸徳秋水に対する官憲の異常な警戒ぶりも出ている。)

「君、あれは本当に校長が悪(にく)らしくて排斥するのか、他に損得問題があって排斥するのか知ってますか」と言いながら鉄瓶の湯を紅茶茶碗の中へ注(さ)した。

「知りませんな。何ですか、先生はご存知なんですか」

「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思って、あんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ、君」

申酉事件から籠城事件まで

「申酉事件」 明治41年(戊)、明治42年(己

明治40年3月「商科大学設置に関する建議案」が第23通常国会を通過。←東京高商の大学昇格運動(←明治34年1月、在ベルリン東京高商教授8人「商業大学設立の必要」と題する意見書を草す。)

明治41年9月 東京帝国大学法科大学内に経済学科を設置。続いて翌42年、商業学科の設置を決定(この両学科は大正8年に合併して経済学部となる。)

東京高商専攻部は44年をもって廃止する旨の文部省令の発令(42年5月6日)

「校を去るの辞」が学生大会で読み上げられ、学生総退学を決議(42年5月11日)。5月24日「復校承諾の決議文」を発表。(同年6月25日専攻部を4年間存置する旨の省令、さらに明治45年3月25日には専攻部存続の省令が発布された。)

如水会の創立 大正3年11月。如水会の命名は渋沢栄一による。東京高商同窓会有志は文部省の帝大中心主義から母校を守り抜く機関とした。(←大正2年7月、文相奥田義人はふたたび東京商大専攻部の東京帝大への吸収を画策)同6年8月、(旧)如水会館落成(設計中村順平)。同15年10月震災後の修復完成(→昭和54年9月閉館)昭和57年9月、新如水会館完成披露式

東京商科大学 大正9年4月1日(日本最初の官立単科大学として誕生。初代学長佐野善作。商法講習所創設後45年)

「篭城事件」昭和6年 警官との衝突で学生百十数人が検束、負傷者多数を出し、全校生2,000人総退学を決議。(←若槻内閣による行財政整理原案に北大予科、東京商大予科、専門部廃止案 昭和6年10月1日、東京日日新聞朝刊に掲載。

ここで東京高商から東京商科大学へ、そして籠城事件へと至る経過を年次を追って整理しておくことにした。われわれは大学昇格運動やその中核をなす明治42年の申酉事件、さらには昭和6年の籠城事件についてはよく聞かされている。その要領はこの年表内に摘記しておいたが『雨夜譚 余聞』には申酉事件までは簡単な記述がある。これらの事件を通じて渋沢の支持は一貫しているが籠城事件の頃には渋沢は病の床にあった。

大学昇格の経緯については、文部省令を撤回させた学生たちのヒロイックな活動(申酉事件)はたしかに目覚ましいが、その背後の支援も欠かせなかった。「しかし、この大学昇格問題が熾烈となった当時の文部大臣小松原栄太郎氏などは、商科大学必要論に対してはむしろ反対の意見を抱かれており、帝国大学のほうに法科の一部として商科大学を置き、一橋のほうは高等商業学校のままでおこうとしたので、ついにこの明治四十二年の大騒動となった。私はちょうどその年米国に行くことになったのであるが、約半年ばかりはその善後策について大いに奔走したものである。その際は遺憾ながら大学に昇格するにいたらず、折衷案をもって一段落を告げたのであったが、その後数年にして多年の希望が実現され、東京高等商業学校は商科大学に昇格して今日に及んだ。(中略)私は決してその功を誇る意味でこれを話すのではないが、我が国実業教育の歴史を一通り申し述べるために、思い出のままをありのままにお話ししたのである。」

以上で『雨夜譚 余聞』の大学問題は終るが、なお細部で抑えておきたい問題がある。まず商法講習所の鯛味噌屋の二階発足説であるが、幾つかある論考の中から昭和37年卒Lクラス文集「車輪」の宮崎泰明氏による「商法講習所開設記念碑考」(2016年1月31日。5月15日改訂)にはこの問題のほかにも面白い論点が含まれているので、かいつまんでそれをご紹介したい。(同論考は級友のU君のご教示によって以前に一度目を通していた。)

最初に、なぜ銀座に開設されたかであるが、当時銀座は4丁目までしかなかったが明治5年2月に和田倉門兵部省寮から出火して付近の地域一帯を襲った「銀座大火」によって焼き尽くされた。そこで政府は渋沢栄一(大蔵省の自分の勤務先であった紙幣寮を焼かれていた)の建議を採用して銀座に火災に強い煉瓦街を作ることにした。商法講習所が森有礼の私塾として発足したころ市中はまだ最終段階の工事が行われていた。

ここで宮崎氏の指摘していることは、いわゆる「鯛味噌屋」の2階は昔ながらの古い商店街ではなく、当時の最先端を行くモダンな煉瓦街にあったこと(三代広重に明治7年版、銀座通煉瓦石の図がある)、またそれは(やはり大火で焼け野原になっていた)木挽町に本校舎が完成するまでの「仮校舎」であったことである。しかも、その仮校舎の持ち主は森有礼であったことが銀座文化研究会の岸田耀女史によって明らかにされたという。女史は東京都公文書館所蔵の「壱等煉瓦家屋払下帳」および「壱等煉瓦家屋払下月賦金取立簿」によってその事実を確認された。

岸田耀女史の考証はそもそも鯛味噌屋二階説の真偽を確かめるところに端を発していた。『銀座文化研究 第8号』(1994年)に掲載された「尾張町二丁目鯛味噌屋考」と題した論文で女史は『如水会々報』の表紙(2013年1月号)にも使われた「鯛味噌屋 京橋区尾張町二十二番地 鈴木吉兵衛」の「きのくにや」商店の開店は明治11年で商法講習所の教室があった8年9月から翌年6月までの9カ月間の数年あとであること、商法講習所の地番は二十三番地であったことを指摘している。建屋を異にする22番地と23番地はいずれもはっきりした記録上の違いを示すもので、単なる見間違いとは言い難い。それに鯛味噌屋の二階という記憶も極めてあやふやなものである。

鯛味噌屋二階説の淵源をたどればただ一つ、商法講習所の第一回卒業生で長らく母校の教授を勤めた成瀬隆蔵(正忠)氏の回想談に帰着する。それも記録としての初出は講習所創立50周年の記念誌編纂の一環として大正14年6月5日付の一橋新聞に載ったインタビュー記事だという。しかもその記事は「鯛みそ屋か何かの二階でしたが」という不確かな表現でしかないという。伝説の生命力は今に及んで根強いが、軍配は明らかに岸田女史の綿密な調査に上げなければならない。つまり森有礼は自分の所有する建屋の2階を仮教室として提供したということである。

われわれの世代にとっては銀座尾張町(旧京橋区銀座尾張町。渋沢は京橋の尾張町と言っている)といい木挽町といってもそれらがどこであったかについて確かな知識がない。とりあえず銀座尾張町は1930年に銀座5,6丁目に改称されたことが明らかである。そこで木挽町であるがそれを入手のいきさつを含めて宮崎氏の論考によって確認しておきたい。

森有礼から商業教育機関の構想を聞き、その支援を約した渋沢は東京会議所名で講習所の創設について内務省の許可を得た。明治6年のことで校名は「商業講習所」となっている。「その際、渋沢は抜け目なく、そのための用地として元川越藩主松平周防守の屋敷跡を東京会議所でもらい受けている。工部省から東京府に引き継がれた木挽町8丁目の6千坪の土地である。」その土地に森は6千円をかけて、馬車回り、玄関、バルコニー付き2階建ての洋風豪邸を建てた。建物はいずれ商法講習所の施設として東京会議所に引き取ってもらえばよいという魂胆で、状況が整うまで自宅のように使用した。森が主催した学術啓蒙団体の明六社の初会合もそこで開かれている。

森が学校のために東京会議所から借用した土地は約定によれば約4千5百坪、借地料は5年間無料であった。そこには東京会議所の建物もあり、その後の区画整理、道路建設などで目減りして、商法講習所が実際に使用した土地はほぼその半分であった。江戸時代の木挽町は、変遷はあるが山村座(木挽町4丁目、現在の銀座4丁目の昭和通り東側)、河原崎座、森田座(いずれも5丁目、現在の銀座5丁目の昭和通り東側)などで大いに賑わい、「木挽町へ行く」と言えば「芝居見物に出かける」ことを意味するほどであったという。商法講習所は現在の新橋演舞場が建つ一帯にあったらしいが、木挽町8丁目という松平周防守の屋敷跡がどう結びつくかはなお調べなければならない。

「商法講習所開設記念碑考」で宮崎氏は以上のほかに商法講習所の設立に果たした富田鉄之助の働きに注目している。これは森の建議を受けて動き出した形の渋沢の回顧談では触れられていないので簡単にご紹介したい。

勝海舟門下の俊秀、富田鉄之助はニューヨーク郊外、ニューアークの商業学校で勉学中であった。彼は初代公使として滞米中の森有礼と知り合い、外国商人に掌握されている交易自主権を日本に取り戻すこと、そのためには日本に高等商業教育が必要であることを説いた。森は帰国後、富田と連携して学校創設の運動を精力的に展開した。二人が支援を求めた人物は勝安芳(海舟、安房)、福沢諭吉(富田に夫人を引き合わせている)、大久保一翁(勝の盟友)、渋沢栄一(東京会議所会頭)などであった。商法講習所の募金には福沢諭吉が「森有礼、富田鉄之助両君ノ需メニ応シテ」長文の支援趣意書を書いている。森の私塾として発足した講習所は森が起立人、福沢とその盟友箕作秋坪が協議人になっている。

富田はまたアメリカで、自分の学んだ商業学校の恩師であるウイリアム・コッグスウエル・ホイットニー(William Cogswell Whitney, 1825~82)を説いて日本への移住を決断させた。ただし、この点についてはホイットニーの長女クララの『クララの明治日記』の翻訳者の1人で勝海舟の曽孫でもある一又民子氏は、「ホイットニー一家の来日には森有礼の名を欠かすことができない」としている。森はホイットニーの従兄弟で、著名な言語学者、ウイリアム・ドワイト・ホイットニーと親交があったという理由しか上げていないがクララは日本側の不手際について森を痛烈に批判している。ホイットニーと森、富田(?)との間の意思疎通に問題があったことは容易に想像される。(このことが取りも直さず尾張町の仮校舎の使用、ひいては鯛みそ屋2階伝説に連なったと思われるが、これはまた別の機会があれば考えて見たい。)クララは森の後任者である矢野二郎についてもむしろ批判を強めているところを見ると、当初から問題を抱えていた商法講習所の財政問題も無視できない。森、矢野は国内的にも重圧の下にあったのである。

森が講習所の設立後間もなく(11月10日)特命全権大使として清国に赴任したことも問題をこじらせたに違いない。森の私塾を東京会議所が一時的に預かる件について渋沢が「(森有礼氏が)学校の世話をすることができなくなった。それで廃校するには惜しいし…」と述べているところを見ても学校経営がすでに難題と受け取られており、かなりの迷惑がホイットニー家に及んだことは十分に想像できる。

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1998.8.20初版 小学館

述/渋沢栄一

解説/石井浩

282頁

1,600円+税

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幸田露伴 渋沢栄一伝 「復刻版」響林社文庫

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雄気堂々(上)

(新潮文庫) 文庫 – 1976/5/30

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(新潮文庫) 文庫 – 1976/5/30

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Amazon 内容紹介

(上)近代日本最大の経済人渋沢栄一のダイナミックな人間形成の劇を、幕末維新の激動の中に描く雄大な伝記文学。武州血洗島の一農夫に生れた栄一は、尊王攘夷の運動に身を投じて異人居留地の横浜焼打ちを企てるが、中止に終った後、思いがけない機縁から、打倒の相手であった一橋家につかえ、一橋慶喜の弟の随員としてフランスに行き、その地で大政奉還を迎えることになる。

(下)フランスから帰国した栄一は、明治新政府の招きで大蔵省に入り、国づくりの熱っぽい雰囲気の中で活躍するが、やがて藩閥の対立から野に下り、かねてからの夢であった合体組織(株式会社)を日本に根づかせるべく歩みはじめる…。一農夫の出身であり、いずれの藩閥にも属さなかったにもかかわらず、いかにして維新の元勲と肩をならべる最高指導者となっていったかをたどる。

↑一橋人必読書と思われます。↑